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私のオートバイ遍歴
 

ホンダTL50 バイアルス 
 
帰省する際、山口県の海岸通りで撮ったものです。
 
 
 私が最初にオートバイを買ったのが、確か大学3年生の頃。それまで、少林寺拳法部に入っていましたが、意外に金がかかるのと、いろいろなことがあって、ついには退部しました。そんな時、アルバイト何ぞで貯めていたお金で、中古の原チャリを買いました。
 大学時代に、帰省した際に、皆と撮影をしていたのですが、パーツを家に置き忘れたと焦りました。多分片道15km道のりを2往復自転車で走ることになりました。てゆーことは60km走ったのかな。当然ながら完全に死にました。(多分1978年のことではないかと。風土記の丘で月食を撮影した時のことでは?・・・風土記の丘ではなく、松江市の出雲国分寺跡であることが分かりました。)
 その日、後輩が「スーパーカブ」に乗っていて、これに乗れたらどんなに楽だろうと思ったのが、オートバイが欲しいと思ったきっかけでした。
 当時、住んでいた長崎県の佐世保から、島根県の松江まで、片道550kmを何度走ったことでしょう。このオートバイには、何故かマフラーに二つの消音室が装備されており、排気音は「シャラララ、シャラララ。」と、独特で小さなものでした。ああ、あの音が懐かしい。当時、原チャリは2ストロークエンジンのものが多かったのですが、この、トライアル風のバイアルスは4サイクルエンジンで燃費が良かったですねぇ。卒業前に後輩に二束三文で譲りました。
 しかし、この時、原チャリは、自分も危険、他者から見ても危険としみじみと感じまして、その後は、原チャリに乗ることはありませんでした。
 
 ちなみに、大学時代、下宿には、125ccのオートバイに乗っている人が数人いました。125ccはでかくてかっこ良いなぁって思っていました。しかし、今見ると125ccは、随分小さくて玩具の様に見えます。おほほ。
 

カワサキ Z250 LTD(ツイン)
 
 社会人になると、それまで、ずっと憧れていた「アメリカンバイク」を買いました。当時、一番アメリカンに近かったのが、カワサキのバイクでした。そこで、私は、カワサキ Z250LTD TWINなるバイクを買いました。
 
後ろ姿ですよーん。当時、当たり前になっていたコロナ社のタンクバックを付けていました。布製なのでチイと格好悪いとは思ってはいましたが、重宝していました。
 
これは、社会人1年目に、卒業した大学を訪問した後、後輩と長崎県の西海橋辺りにツーリングして撮ったものです。アホ衛門、足が短けぇーど。うーん、照れるなぁ。
 
鹿児島県の霧島で撮ったものです。(霧島には、アホほど行きましたね。鹿児島県と宮崎県の県境にありますよ。韓国岳何ぞにも何度も登りましたね。)あれ?歩道に停めていますねぇ。そんなことしたら、だめですよ。ちなみに、当時のオートバイは、サイドスタンドと共にメインスタンドが付いていました。(写真はメインスタンド使用。後輪が完全に浮く形になります。)このメインスタンドですが、使うにはコツがいりました。後ろに引くようにすると、重たくてまるでスタンドにオートバイクが乗りません。コツは、スタンドの一部を片足で体重を乗せて踏み、オートバイを真上に上げるようにすることです。後ろにひいてはダメなのです。コツが分かった時は、嬉しくて停まっているオートバイを片っ端からメインスタンドで立てて回りました。多分、その後は、元に戻したと思いますけど・・・完全なアホな奴ぢゃ。
 
 しかし、OHCの二気筒エンジンはまるで面白みがありませんでした。また、後輪が扁平タイヤだったこともあり、コーナーリングをすると捻れました。更に、楽と思っていたのに、背筋を立ててシートに座る姿勢になりますので、長時間走ると、意外にケツも痛いし、疲れました。1年乗って、アメリカン自体に興味がなくなり、乗り換えることになりました。
 

ヤマハ XT200
 
 そんな時、日本に「スーパークロス」がやって来ました。鹿児島市のオートバイ屋さんで見たビデオで、放心状態。すごい、すごすぎるぞ。特に、当時のヤマハ・ワークスライダーの「リック・ジョンソン」の走りには電気が走ったような衝撃がありました。これだ。これからはオフロードバイクだ、てなふうに勝手に思いました。ほほほ。
 スーパークロスとは、野球場に大量の土砂などをいれて、とてもトリッキーなコース、とんでもないジャンプの山を作って競争するモトクロスレースです。ジャンプの高さは、電信柱の天辺くらいになります。)
 
霧島で撮ったXT200。リンク機能がまだ付いていないモノクロサスペンションを採用していました。
 
阿蘇に一人でツーリングした時の写真です。アホ衛門、かっちょわるぅ。上のウェアは、JTレーシングで、モトクロスパンツは「クシタニ」ですね。
 
 鹿児島から島根県の松江市まで、これに乗って帰りましたねぇ。確か、800kmほどの距離があったように思います。これは、年始のクソ寒い時に撮ったものです。他の友人達は車で出かけたのですが、私だけは、嬉しくてこのオートバイに乗って出かけました。にしても、アホ衛門、足短っ。
 はいているブーツは「ガエネル社のオフロードブーツ」です。この当時のガエネル社のブーツは革が厚いのに、とてもしなやかで大満足していました。しかし、その後は、何か品質がとっても落ちたように思いました。
 
 そして、買ったのが、ヤマハXT200です。日本人の体格では、林道を走るのには200ccが適していると評価されて興味を持ちました。購入の一番の決め手は、タンクのデザインだったかも知れません。単気筒4ストエンジンは、まるで生き物の様で、実に面白かったです。モトクロスコースも走りましたよ。アクセルターンやブレーキターンなんぞも練習しましたねぇ。コーナーでカウンターを切れた時は、感動ものでした。ちなみに、この時までは、オートバイのシートは黒色しかありませんでしたねぇ。多分。
 しかし、如何せん、125ccのバイクの車格に200ccのエンジンを積んだオートバイなので、パワーも迫力もありませんでした。また、高速を走ると、もう恐くて、恐くて・・・オシッコちびりそう。
 

ヤマハ XT250T
 
 と、ヤマハからXT250Tなるオートバイが発売されました。オフロードバイクなのに、ツインカムエンジンを積んでいました。車格も実に立派になって、乗っていて優越感に浸るオートバイでした。
 当時、鹿児島には、林道モトクロッサー軍団がおりまして、愛称「トミーさん」はXT400に乗っておられました。少し遠目に見ると、そのXT400にも劣らない車格でした。
 
買って間もなく、嬉しくて夜も走っていました。この日は寒くてシートに霜が降りていました。
 
1984年に鳥取県の鍵掛峠で写したものです。(当時のオートバイのタイヤの幅は、オンロードもオフロードも狭かったですね。)相棒のタチゲも、一緒にいましたが、彼は、R&P(ライド&プレイ・・・乗って楽しめる見たいな意味でしょうか?)と言う小さい原チャリに乗っていました。さすがに、原チャリはしんどいと思ったのでしょうか、その後、彼は「ホンダのCBR400F F-3エンデュランス」に一気にアップグレード。フルカウルのオートバイです。
 
長野県をツーリングした時のものです。場所は「美ヶ原」の駐車場だだと思います。タンクの前に付いている黒いパーツは、ラジエターではなく、エンジンを空気で強制的に冷やすエアインテークです。
 
 
 しかし、ツインカムのくせに、まるで回らないエンジン。エンジンは直ぐに加熱して熱ダレをするバイクでした。名古屋時代に、後輩の女性に売り飛ばしました。おほほ。
 

ヤマハ DT200R
 
 ちょっと、4サイクルエンジンに、少々飽きていた頃に、ヤマハDT200Rが復刻発売されました。しかし、その初期型は、とんでもないオートバイでした。クラッチ操作無しで、アクセルを捻るだけで、ローギアでもセカンドギアでも簡単にフロントが持ち上がりました。試乗していたある人は「サードでもフロントアップしましたよ。」と言われていました。これは、私に扱えないオートバイだと思いました。
 そうこうしているうちに、改良型が発売されました。じゃじゃ馬的な性格はかなりマイルドになりました。それでも、モーターの様に回るエンジン。軽い車体。そのおかげで、腕が上がったのかと感じ違いしたものでした。
 
多分、愛知県の入鹿池付近で撮ったのでは・・・
 
 しかし、かなり小型で、ホイールディスタンスが短く、寸詰まりの感が否めませんでした。更にラジエターは片方にしか付いていなく、ちょっと、格好悪かったですねえ。
 このバイクだったでしょうか、高速を走っていた時、行きと同じ距離でガソリンを入れようと思っていたのに、ガス欠になってしまいました。帰りが向かい風になっていたので、燃費が悪くなってしまったのでしょう。燃費は15km/L位でした。ホンダのシティと言う車に乗っていたことがありますが、こいつは20km/Lも走りました。車より燃費が悪いなんて。
 

ホンダ XLR250R 
 
それから、一端4サイクルオートバイに戻りました。ホンダのXLR250Rです。
 
 初めはドノーマルの状態で走っていました。しかし、奥多摩の林道で、このオートバイの改造マシーンに乗った軍団に遭遇したのです。「ちょっとでも改造は悪だ!」みたいに思っていたアホ衛門ですが、それからは、違法でない範囲で改造をしましした。ハンドルはレンサル。タイヤは、ピレリーのガラエンデューロ。(雨の日にタイヤを買い換えて、帰る時、ワックスがとれていなかったのだと思いますが、ブレーキをかけても、全く効かずに、オシッコちびりそうになりました。)フロントサスと、フロントディスクブレーキ周りには、アシャルビス社のプロテクターを装備しまた。また、マフラーは「スーパートラップ」に換えていました。消音タイプではありませんでした。当時住んでいたのは東京でしたので、住宅街はオートバイを押してから出て行き、家が少なくなってから、初めてエンジンを掛けるようにしていました。
 マフラーをスーパートラップに変えていたのには、もう一つ大きな理由があります。純正のマフラーは鉄製で、非常に重いのです。オフロードバイクで林道を走る時は、ほんの少し軽くなっただけで、操作性がかなり変わるのですよーん。
 更に、林道などを一生懸命に走っていると、エンジンの回転数が分からなくなることがあります。排気音がある程度大きい方が、有用な回転域で走れるというメリットもありました。
 でも、今の時代ですと、この、かなり大きい音は規制にひっかかるでしょうね。

ヤマハ DT200R(1998年モデル)
 
次に買ったのが、フルモデルチェンジした「ヤマハDT200R」でした。ワークスマシーンのYZMに似ているデザインでした。ラジエーターも両方に付いていました。
 
これはメーカーのカタログからかなぁ?多分そうでしょう。おお、前後ともディスクブレーキだ。当初、オフロードバイクにディスクブレーキはないでしょうと思っていました。石などが当たって、ディスクが壊れる可能性が高いからと思っていました。
 
長野県の「こっつぁんち」の前で。オートバイに乗っている写真は、殆どありません。鹿児島時代以降は、基本一人で走る事が殆どでしたからねぇ。ちなみに、マフラーはラフ&ロードのアルミ製のものに変えて走っていました。
 
上と同じ時に、誰かに撮影してもらったものです。スコット社の黒いフェイスガードをしています。ある時、このフェイスガードをしている人を見て、かっちょええーと思って真似をしました。また、ゴーグルは、ミラーグラスタイプを付けていました。これが、実に格好いいと思っていました。あ、水着の女性は合成です。分かるかな。分からいでか?
 
これは、臼田の電波望遠鏡のすぐ近くで撮ったDT200Rです。
 
 改造したDT200Rで「こっつぁんち」にも行きましたねぇ。しかし、2ストロークエンジンは、エンジンオイルを別に入れないと駄目でしたし、燃費は悪かったのですねぇ。このオートバイで、クリスマスの日に、奥多摩のノコギリ山林道を走っていた時、アイスバーンで吹っ飛び、左足を骨折してしまいました。今でも後遺症はありますよーん。
 
 この時は、AXO社のプラスチックブーツを履いていました。初めは硬かったけど、そのうち足に馴染むようになりました。

スズキ DR250S
 
次に買ったのが「スズキDR250S」でした。年をとって2サイクルはしんどくなったのです。このオートバイ、シート高を調整する機能が付いていました。ローにすると、町中では、足つき性が良くて疲れません。しかし、林道ではサスの可動域が不足しますので、このサスを伸ばすことが出来たのです。高低のスイッチを回しから、ペダルに足を乗せて何度かジャンプすると、サスが長くなったり、短くなったりしました。
ネットからがめた画像を加工しました。フロントサスは、倒立サスになっています。剛性が高いと言うメリットはありますが、少々癖がありましたよ。
 
まっきっきいの色で目立ちましたねぇ。しかし、エンジンは回らず、まるでブレーキを踏みながら走っているような感覚でした。
 

スズキ DR250R(多分最後のオートバイ)
 
 仕事の職種が変わるので、当時住んでいた広島から、名古屋に何ヶ月か、研修を受けさせて貰いました。しかし、あの阪神・淡路大震災が発生し、帰省がアホほど大変でした。
 そんな時、広島のオートバイ屋さんで購入したのが、スズキDR250Rでした。お店の方の話では、一から見直したスズキの自信作ですと言われていました。納品は、名古屋の研修が終わってからでした。とーても待ち遠しかったですよ。
 
 確かに、上のDR250Sとは、まるで違うほど、良いオートバイになっていました。軽いし、エンジンはそこそこ回りましたし。ただ、直進安定性が悪かったのが気にはなりましたが。
 ショップが企画してくれた催事で、色々な所をツーリングさせて貰ったりしました。
 
これもネットからがめた画像を加工しました。予め、シート高を、高いモノと、低いモノが選べました。年をとってきたこともあり、アホ衛門は低いシートのものを選択しました。(サスを延長する金具を取り外すだけだった様な記憶が。)フロントサスは、普通のサスになっていました。
 
デザインも性能も格段に良くなりましたが、直進安定性が悪いのが気になりました。マフラーは消音タイプのスーパートラップを付けていました。
 
 
 その後、オンロードバイクにも興味を持ちました。大型免許は持っていませんでしたから、400ccでスズキの「刀」が出るなら、買っても良いなと思っていました。しかし、その商品は中々出て来ませんで、結局は買うことはありませんでした。
 
 これは、1982年に海外で発売された「SUZUKI GSX1100S KATANA」です。ポルシェをデザインした「ハンス・ムート氏」がデザインしたモノです。オートバイ誌に、このオートバイが載っているのを初めて見た時は「すげぇかっこ良いコンセプトマシーンだな。」と思ったのです。と、友人が「よく見てみろよ、ちゃんとウィンカーが付いているだろう?」と。「げぇ、こんなものが町中を走るのか?」と驚いたものです。 
 
 しかし、当時の日本の政府は頭がとーっても硬くて、日本で発売された750ccのものは、ミニカウルも外して、ハンドルも耕耘機のようなデザインでした。ま、皆さん、改造していましたけどねぇ。デザインは超未来的なモノでしたが、バンク角が浅く、コーナーでオートバイを寝かせるとガリガリとなると聞いた事あるような、ないような・・・漫画の「バリバリ伝説」の中で、秀吉が乗っていたのが、日本で発売された750ccのカタナを改造したものだったと思います。(GSX750Sカタナ)秀吉は、鈴鹿4時間耐久レースで奇跡的な優勝を飾った後、ライバルでもあった「巨摩 郡」との奥多摩ツーリング中に、反対車線に突っ込んできた車を避けきれずに亡くなっています。私も、奥多摩によく行っていましたので、アニメの描写にびっくりしました。ちょっと現実とは違うところもありましたが、多分動画で撮ってからアニメにしたと思われるほど、実にリアルでした。
 
  そして、忘れた頃に発売された「スズキGSX400Sカタナ」です。デザインは、1100のカタナと同じですね。おっ!ミニカウルのステーが少し長くなったのと、ウィンカーの形が少し現在風に変わっていました。