「貧相アブ衛門」は本名ではない。当たり前。私は単なるアホである。
(2007年の蝶ヶ岳とTOA130Sと、Shadeという3Dソフトで作成した架空の女性とアダムスキー型円盤を合成)

かなりいい加減なHP。随時手直しします。


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  • 1997年ヤマトからの卒業

 画像は、度重なるハードディスクの破損で殆ど残っておりません。あーあ、アホぢゃ。


 登ヤマト同心の「タチゲ」は、登山は、もうしんどくてやりたくないと言った。気力をなくしたアブ衛門だったが、その後、気を取り直して、蝶ヶ岳登山に向かっていた。


 ヤマトからの卒業
3度目の蝶ヶ岳

  なぜか無性に北アルプスに登りたかった。93年の蝶ヶ岳登山の時のように、登山をすることで、自分が変われるのではないかという思いがあった。生きている証がほしかったのかもしれない。それほど、張り合いのない生活が続いていた。それは、恐らく、〇〇時代に味わった生きるか死ぬかというほどの精神的苦痛の、その反動なのかもしれない。更に、失恋?をしたことで、すっかり気が抜けてしまっていた。
 そんな中何度も、93年の登山記録「もう一つの蝶ヶ岳讃歌」を読み直していた。その記録の最後には「3度目の蝶ケ岳登山はあるかって?はははは・・・それは本当に行きたいと思えば、いつだって可能なはずですよ。ねえ、タチゲ同心、そうでしょう?」と書いてある。
 
 「そうだ、やっぱり北アルプスに行こう!」

   

1993年の登山の際に見た御来光(ビデオカメラからの取り込み)
 
 しかし、一人で登ることは大変味気ない。それに、荷物だって、すべて一人でかついで登ることになるため、それは大変な苦痛を強いられることになる。タチゲと登りたい。タチゲと一緒に北アルプスに登りたい。だが、93年の登山の後、タチゲは「もうあんなしんどいことはしたくない。」と言っていた。やはり、だめか・・・
 3月27日のこと、珍しく酔っぱらったタチゲから電話がかかってきた。しかし、どうも様子がおかしい。よくよく聞いてみると、大失恋をやらかしたらしい。ショックで2週間もの間、まともに仕事に手が着かないと言っている。「青春っていう言葉は年をとってから昔を懐かしむ言葉だから好きになれない。」などと言うぐらい、あまり昔を懐かしむタイプの人間ではなかったが、とても弱気になっていた。「昔に戻りますか?そうだな、高校時代くらいがいいかなあ。」などと昔をとても懐かしんでいた。
 5月の連休、タチゲは信州の「こっつぁんち」に行って、そこで落ち合うようなことをほのめかしていたが、結局は来なかった。僕らにとっては第3の心のふるさとである、その場所は、あいつにとっても心休まる場所のはずだ。しかし、彼にはそんな体力も気力もなかったのだろう。その後も手紙で、何度もタチゲを北アルプス登山に誘ったが、全く返事はなかった。もう、僕らの「ヤマト」は終わってしまったのだろう。いつかは終わりが来るとは思っていたが、あまりにもあっけない終止符に、戸惑うことすらできなかった。
 こうなったらいっそのこと、あこがれの「コマクサ」と奇岩を見に燕岳(つばくろだけ)に登ろうか?しかし、途中の合戦尾根はかなりの急勾配だ。仮にタチゲが北アルプスに行ってくれるとしても、この尾根は登りたくないと言うだろう。この際、どうせ一人で登るなら燕(つばくろ)の方がいいかもしれない。
 
 さて、一人で行くとなると、登山用品も洗い直さなければならなかった。
 まず、テント。今持っているのは、1979年に買った4〜5人用のニッピン製のドームテント。一人でかつぐにはちょっと重すぎる。多少小さくてもよいから、軽いものを買う必要がある。しかし、電話帳で探した店は、一軒目は違うビルが建っていたし、もう一軒目は探しても分からなかった。アルペンなどにも行ってみたが、欲しい型のものがあるはずもなかった。
 次に、ビデオカメラのバッテリーを追加で購入した。これとて、在庫が1個しかなく、後は注文となった。岡山ぐらいの都市では、欲しいものがなかなか手に入らないものだ。
 ヒーターは、1978年の最初の登山の時は、オプティマス社の灯油ストーブを使ったが、1993年の時は、ブタンガスヒーターを使って大変重宝した。そんなこともあって、今回は、以前購入していた小型のブタンガスのものを持っていくことにした。
 そして、シュラフは1993年の登山の翌年、またタチゲと山に登ることを期待して購入したものをもって行くことにした。結構厚みのあるタイプで、北アルプスの寒さにも何とか耐えられそうだった。
 

1997年8月12日

 
 本来は朝早く、具体的には6時頃出るつもりでいたが、なんやかんやと、ばたばたしていたら、結局午前9時スタートになってしまった。「まあ、一人旅だからな、誰に迷惑かけるわけでもないしな。」確かに、誰に迷惑をかけるわけでもないが、このところ時間に大変ルーズになっている自分が情けない。
 と、出る寸前になって、チト不安がよぎった。「あれ、家の鍵かけたったけなぁ?」かけたように思うのだが、気になり出すともうだめだ。戻って見ることにした。「なんだ、やっぱり鍵はかかっているじゃないか。・・・ん?あっ!しまった。登山靴を入れるのを忘れていた。」
 そんなわけで、再スタートは9時12分と相成った。アホじゃー!でも、良かったねぇ。心配性も、時には役に立つこともあるもんですなあ。心配性でなかったら靴なしで登山だ。
 9時42分、岡山インターから高速道路に入った。アパートから高速道路まではやはり30分ほどかかるようです。
 11時34分、大阪あたりに入ったが、初めての渋滞に遭遇した。この渋滞は割と早く解消したが、京都を前にまた渋滞になり、あまり前に進まなくたった。
 竜王から天気は回復してきた。しかし、天気予報はあまり芳しくない。信州では結構な雨に降られる可能性もある。ラジオは、岡山以西は、既に雨になっていることを言っている。
 13時前、北陸道との分岐点付近までやってきた。
 13時29分、名古屋のすぐ近くまでやってきた。空はかなり晴れてきている。しかし、つけているラジオに、時折かなりのノイズが入るようになった。つまり、雷が発生しているのだ。
 15時29分、駒ヶ岳サービスエリアを通過した。天気はまだ晴れている。
 いつでもそうだが、名古屋を通過した後が意外に長い。いつまでたっても目的地に着かない。よくやく高速道路を降りてからも、方向大音痴の私には大きな試練が待っていた。地図を見ながら走ったつもりだが、須砂渡に着かない。目安にしていたゴルフ場には着いたのだが、その後が分からない。完全に陽は西陽になっている。あせる、あせる。ようやくキャンプ場らしきものがあったと思ったら、それは、常念岳の方に近いキャンプ場だった。そうこうしているうちに、ようやくのことで須砂渡キャンプ場に着いたのだが、記憶の中の風景と雰囲気が少々違っていた。国民宿舎だろうか、かなり大きな立派な建物がデーンと建っていた。
 キャンプ場の管理人にいろいろ話を聞いてみた。「実は、蝶ヶ岳に登るか燕岳に登るかまだ決めていないんです。と言うのは、本当は燕(つばくろ)の方に登ってみたいのですが、あそこは、登山口である中房(なかふさ)温泉まで、車では行けないんでしょう?」「そうですね、お客さんの話でも、確か、中房温泉には車では行けないようなことを聞きましたね。」あ〜あ、やっぱりだめか?かくして、この言葉で僕は蝶ヶ岳登山を決めてしまったのだ。後から考えると、これは実に馬鹿げた決定だったかもしれない。
 

これは翌日撮ったもの。とにかく1993年にはあんな建物はなかったぞー。当時の愛車、ホンダインテグラXSiも写っていますねぇ。この車、すべてのセッティング硬めで、実に良い車でした。
 
 天気は予想通り芳しくなかったが、それでも時より晴れ間はあった。
 

 
    一人きりのキャンプ。わびしー!

 
 それにしても、ここ最近はファミリーキャンプが全盛で、うるさいこと、うるさいこと。疲れているのに、花火や子供のはしゃぐ声でそう簡単には寝つけそうにもない。おまけに、夕方にキャンプ場に入ったものだから、道路のすぐ近くにしかテントを張る場所がなかった。そのため、ひっきりなしに通る車の音もうるさくてしかたがなかった。それにしても、何でこんな夜中にこんなに車が通るんだ?もしかしたら、夜中から登山する人がものすごく多かったりして・・・はっはっはっ、まさかね。(実は、そうなのでしょう。)
 12時過ぎに目が覚めてしまったので、駐車場に出て星を見てみた。雲はあったものの、何とか星たちを見ることができた。しかし、流星は全く流れない。Per流星群の極大日のはずじゃなかったのかな、今日は。やはり、今年のPer流星群は不作だったのかもしれない。そんなことより、南北にのびた前線が来ている。明日は天気がもつのだろうか?そっちの方がずっと心配だ。
 また、三股に行く道は、なんでも工事中とのことで8時までしか通行できないとのこと。従って、明日は早く起きないと行けない。ゆっくりしたいのにねぇ。それじゃあ、今日はこの辺でおやすみなさい。
 

1997年8月13日

 
 早起きをして、せっせと三股(みつまた)まで車を走らせた。道は93年の時と比べ更に荒れていた。普通乗用車では、相当気をつけて走らないといけない。僕もかなり注意をしていたにもかかわらず、2度も底ヅキをしてしまった。
 7時24分にようやく駐車場に着いた。須砂渡のキャンプ場から約40分かかったことになる。それにしても、この駐車場の変わりようといったらどうだ。停まっている車の数も半端ではない。いつの間にこんな風になったんだろう。
     

車が一杯の駐車場。前回はこんな駐車場はなかったよ。
 
 しばらく歩いたが、記憶のある登山道の入り口が見あたらない。間違えるはずはないのだが、もしかしたら、とんでもない記憶違いをしているのではないのだろうかという、不安感に襲われる。
 ようやくのこと、登山道の入り口に着いた。なんていうことはない。車の数が多くなったので、以前の駐車場に追加して、下に大きな駐車場を作っていたのだ。
 
 

 不安の中歩いた山道

                                  
 登山届けを出す際に、管理人とおぼしきおじさんと話をすることができた。今回の時間制の通行止めだが、登山客ともめたらしく、盆休み中はいつでも通行OKなのだそうだ。「それなら、ちゃんと看板を取り外しておけよー!」
 7時49分、登山届けを出し、いよいよ登山開始。荷物はかなり贅肉をそいだつもりだったが、それでも28kgほどあり、結構きついですぞ。
 

あー、あった、あった。これが本当の登山道の入り口。
 
 8時24分、第一回の休憩に入る。既にかなり足にきている。
 今回の登山は一人のこともあり、テープレコーダーに声を録音しているのだが、録音する度に声に張りがなくなってきているのが、それが自分でも何となくおもしろい。93年の登山の時のザックは、正確に重さを量っていなかったが、今回はそれよりかなり重いことは事実だ。休憩の度、ハイチュウを食べ、須砂渡で補給した水でのどを潤した。
 時間がたつにつれ、苦痛のあまり「俺は何でこんなことをしているんだろう。」と考えるようになる。「下界で楽しくやっていればいいものを。あんた、年なんだから、無理したらアカンよ。今からでもいいから帰ったら?」
 悪魔のささやきはだんだん大きく、そして、しつこく繰り返すようになる。寒いはずなのに、まるで大雨に降れたのかと思われるほど汗で服が濡れている。
 山頂近くなって、千葉から来た若者に出会った。いったんは抜かれたのだが、大滝山との分岐点のお花畑で彼が簡単な食事をとっていたんで、また追いついた。そこで、しょうもない会話に花が咲いた。
 

  登山道にはこうした梯子もある。

 
 急勾配の坂道を登っていると、雨が降ってきた。その雨は山頂間近になると、激しくなってきた。
 そのお花畑から30分弱、3時50分頃、ようやく山頂に着いた。実に登山道入り口から6時間もかかったことになる。途中までかなり良いペース出来ていたが、結局前回とほぼ同じ時間かかってしまった。やはり、年かもしれない。ちなみに、千葉のあの若者は、たかだか4時間をオーバーしたことを悔しがっていたぞな、もし。
 雨足は強いのだが、穂高連峰や槍ヶ岳は何とか見えている。しかし、疲れ果ててな かなかテントが張れない。何とかテントを張ったその時、突然、バタバタと爆音があたりにとどろいた。何だろうとテントから顔を出すと、なんと!ヘリコプターが目の前で、ホバーリングしている。強風にあおられてとても危ない。「食料を運んできたのかなあ?それにしてはちょっと変な気もするな。」
 

 この写真は翌日のものか?千葉のお兄ちゃんも写っている。
 

  槍ヶ岳が見えている。晴れることを期待したのだが・・・
 
 今年から新たに棟を増築して、250人収容可能となった蝶ヶ岳ヒュッテに行って、テントを張る手続きと、水やビールを買った。その時、いっぺんに頼んだものだから、どうやら勘違いして、テントを張る料金を、2日分のところを、1日分しかとられずに実にラッキーと思っていた。また、小屋の中から「病人が出た。歩けないようだ。」などといった話声が聞こえてきた。「ははーん、あのヘリコプターは、救助のものか?」
 ビールをかっくらうと、しばしのオネンネに入った。本来持って行くはずのシュラフはかさばるので、結局、ニッピンのアルミックスなどという薄っぺらいものにした。前回と違って、マットはパンクすることのないアルミマットを持ってきたことで、何とかなると判断したのだ。
 目が覚めると、あの強風と雨はおさまっていた。本当に山の天気は変わりやすい。槍ヶ岳も何とか見えていた。
 7時15分、また、風が強烈に吹き始めた。フライシートが構造上いい加減な付け方なので、うるさいほどばさついている。温度はかなり下がってきている。そのため、お湯が沸かなくて、困り果ててしまった。タチゲのヒータよりかなり容量の小さいヒータしかもっていないからな、しょうがないわい。
 すでに記憶が曖昧だが、 夜中の1時だったか、2時だったか目が覚めると、星空が広がっていた。いつまた曇ってしまうかもしれないと、あわててテントから出た。南西の方角だろうか、雲がいつ来てもおかしくない状態だった。わずか30分ほどの間だったが、懐かしい蝶ヶ岳の星空に再会することができた。ふと思い出し、Per流星群のカウントをしてみたが、15分ほどの間に、わずかに4個ほどしか流れなかった。 (ちょっと記憶が曖昧)そのうち、完全に雲に覆われたので、再びテントの中のシュラフに潜り込んだ。
 

  わずかの時間だったが、あの星空に再会した。
                
 

1997年8月14日

 
 雨はやんでいるものの、穂高連峰や槍ヶ岳には雲がかかり、風景は今いちだ。おまけに、陽がまともに当たっていないので、コントラストが低く、鮮やかさが全くない。
 ところで、登山客が少なくなってから、蝶ヶ岳ヒュッテのトイレでウンチをした。しかし、このトイレ、まさに強烈の一言に尽きる。まず、真っ暗なため、ヘッドランプをつかなければ何にも見えない。そして、ウンチをした後のティッシュは、捨てるのではなく、備え付けの箱に入れるように書いてある。山小屋のトイレは深い縦穴だが、登山客が多いので、いつ満杯になるか分からない。そのため、紙は捨てずに、後で燃やすのだそうだ。あーあ、しかたないのだろうけど、こうした山小屋のトイレのせいで、梓川には大腸菌がうようよいるのですねー。
 その後、蝶槍にも行ってみた。のんびり歩くと、風景をじっくり楽しむことができた。当初、ここ蝶ヶ岳に登った場合、コマクサを見に、常念岳にも行ってみようかと考えていたが、そんな体力、精神力は、既になかった。代わりにといっては何だが、蝶槍から常念に向けてもう少し歩いてみた。そこから見る常念岳の急斜面は、半端なものではなさそうだ。元気な時でも登れるかどうか・・・そういえば、千葉から来たあの若者は、常念岳を越えて帰ると言っていたなぁ、若いと言うことはすんばらしい!
 帰り道、どこからともなく人の気配がした。しばらくすると、横尾からの急斜面を大きなザックをかついでひたすら登ってくる若者を見つけた。この人もとんでもない人で、上高地から横尾へ行き、そこから、誰も通らない登りのルートを通ってここまでやってきたのだ。更にすごいことに、休みがとれなかったからとのことで、今日中に上高地まで降りるのだそうだ。信じられん!でも何しに来たのかな?
 

蝶槍の常念岳側ですぞ。 

 
 その後、妖精の池の方にも行ってみた。途中、下り坂で、見事にこけてしまった。
 ふと、1978年初めて蝶ヶ岳に来た時、妖精の池の場所が分からなくて大変苦労したことを思い出していた。「確かガイドブックには特徴のある大きな枯れ木を目印に曲がるといいと書いてあったけど、そんな木はなかったよなあ。」「あっ?あれっ?そこにある木がそうじゃないのか。」何故か、当時は全く分からなかったその木が目の前にデーンとある。どうゆうこっちゃ?
 

  真ん中に写っている木こそ、以前にガイドブックに載っていた枯れ木ではないか?はりゃあー、何で気づかなかったのか?
 

 

 妖精の池は、ご覧のようにきちゃない。1978年にはヤンマの大群がふ化していましたけど、8月中旬にはトンボはいないようで・・・(本当にそうだったのかなぁ?)
 
 「あっ、そうだ。妖精の池の横の斜面を登ると、大滝山がきれいに見えるところがあったなあ。」雨に濡れた草木をかき分けて斜面を登ると、懐かしい光景が飛び込んできた。天気が今ひとつだが、大滝山の雄大な光景に、しばし感動していた。
 その帰り、1978年にビバークした窪地で「チングルマ」を見つけた。ちょうど登ってきた年輩の2人に教えてあげると、大変喜んで写真を撮り始めた。チングルマは草花のように見えて、バラの仲間の立派な木なのだ。しかも、とにかく明るく美しい。
 

  チングルマの花。きれいでしょう。この花以外には、ミヤマキンポウゲが好きですね。そして、憧れのコマクサ、いつかは見てみたいですね。(翌年の1998年と2000年に、燕岳に登って見ることが出来ましたよーん。)
 
 ところで、最近の登山客といったら、年輩者と、やたら若い所謂ガキンチョが多いのはどうしたことだろう。また、どうして〇〇人にはマナーが悪い人が多いのだろう。登ってきたばかりの〇〇人の子供ずれのパーティが、僕のテントのすぐ近く近くで休みだしたのはいいが、登山道のど真ん中に腰をおろしているのだ。しかも、完全に他の人のじゃまになっているのに、完全に無視。仮に子供は判断できないとしても、どうして一緒に来た大人が平然としているのか、僕には全く理解できない。本当に山が好きな者だけが、山に来ていた時代は良かったが、登山がブームになると極端にマナーが悪い人が目につくようになってきた。(まっ、お前がゆーな、ちゅーことですけどねぇ。)
 

 完全に登山道をふさいでしまった〇〇人のパーティ。呆れてモノが言えない。
 
 この日、とんでもない情報を入手した。僕と同様珍しく沈殿(同じところでとどまっていること)しているおじさんがいたので、話しかけてみた時のことだ。この人、登山が好きそうに見えるのに、しんどいことは大嫌いのようなのだ。地図を見て、きつそうなところは避けて通るのだそうだ。そんなおじさんから、意外なことを聞いてしまった。なんと燕岳の登山道入り口には、車で十分行けるのだそうだ。仮に駐車場がいっぱいになっても、みんな道の脇に止めているのだそうだ。しかも、燕岳の登山の方がこっちより楽なんだそうだ。「ガビーン!燕の方に登ればよかったよーん。」
 

 この人が、軟弱おじさん。まっ、私も同じようなものですが・・・
 
 その夜も、天気は悪かった。天気予報では何とかなりそうな気がしていたのだが、どうやらだめのようだ。あきらめて寝ることにした。ヒュッテで買ったビールやリザーブ水割りを飲んだ勢いで寝入ってしまった。
 またしても、途中で目が覚めてしまった。2時過ぎだったかなあ?時より星が見えているので、いつのケルンの丘に行ってみた。すっぽり雲に覆われることの方が多いが、何とか星たちが見えている。薄明が迫りつつある頃、登山標識をバックにオリオン座が実に美しく見えた。
 ふと、昔のことを思い出していた。19年前に初めてここへ来た時、このケルンの丘で、亡きM君のことを思い出し、石に「故Mよ、穂高の見えるこの場所で寝るれ。」と刻んだ。そして、初めて本気で好きになった「Tさん」のことも思い出し、「T、今でも好きだ。」と刻んでみた。悲しい思い出を抱えて、この山に来ていた。しかし、あの時は、タチゲがいた。星に魅せられた仲間がいてくれた。忙しすぎるほどの中、新聞配達のバイトをしてまで、一緒に来てくれた友の熱い手がそこにはあった。だが、今僕の横にはそのタチゲすらいない。無性に悲しくなってきた・・・
 

  登山標識をバックに輝くオリオン座

 

   1997年8月15日

 
 晴れ間はあるものの、雲が多く、明るくなってきても風景はモノトーンのままだった。御来光も見ることができなかった。穂高連峰も槍ヶ岳も、今まで見てきたような、鮮やかなモルゲンロートに輝くことはなかった。このままここにいても仕方がない、そう思えてきた。天気も回復は望めない。かといって上高地へ行ってから、三股に戻ってくる体力はもうない。ヒータの火力が弱いのか、飯もガンタ飯ばかりで全然うまくない。「よーし、来たルートをそのまま帰ることにしよう。」
 7時42分、ついに蝶ヶ岳を後にした。ウンチがしたかったのだが、ホレ、あのトイレでしょう、それにトイレも大繁盛ですからね、我慢して出発しちゃいましたよ。そのうち、したい気持ちもなくなってきましたし。
 

 何かモノトーンで迫力がないですな。それにしてもダサイ格好。
 
 下りはかなり順調に進めた。荷物を下ろすのが面倒くさいということもあって、かなり頑張ってしまった。と、その時、全く予期せぬところで、足がツルリンと滑ってしまった。反射的に左手が出てしまった。狭い道の土手にその左手の薬指がひっかかるようについてしまった。まるで暗闇の中でストロボ光を浴びたかのように、その薬指が反対にそっくりかえっているシーンが脳裏に焼き付いた。「しまった、やっちまった。」間違いなく折ってしまったと思った。しかし、意外にも冷静な自分がそこにはいた。この指なら折れてもなんとか車の運転はできるぞ。仕事にもそれほど大きな影響は出ないだろう。とりあえず、山を下らなくちゃ。・・・「ん?あっ?何とか動くぞ。」確かに痛いのだが、どうやら骨折は免れたようだ。不幸中の幸いだ。捻挫程度ですんだらしい。
 滑りやすくて用心して歩かなければならなかったせいもあるが、そのうち、足がものすごく痛いのに加え、乳酸がたまってしまったのか、本当に動けなくなってしまった。誇張ではなく、15cm程ずつしか歩幅をかせげなかった。水は、ヒュッテのゴムホース臭い水をいったん沸騰させたものを水筒に入れておいた。しかし、生まれてこのかた、こんなまずい水は飲んだことがないというほどまずかった。それは、山の上ではコッフェルをきれいに洗うことができなかったので、わずかに残るカレーの味とゴムホースの臭いがミックスされ、更に、生あたたかったからだ。一口飲むと、後は死んでも飲むまいと思った。それだからこそ、「力水」という水場で飲んだ水は、この世のものとは思えないほどうまかった。自然のミネラル水、何よりすごく冷たかったのだ。
 

 力水(ちからみず)で飲んだ水。こんなうまい水がこの世の中にあったのか。
 
 息も絶え絶えに登山道の入り口に着いたのが、4時間6分のこと。そこから駐車場に向けて歩いたのだが、その間のわずか12分間が死ぬほど長く感じた。それほど、疲れ果てていたのだ。駐車場では誰もいないことを確認すると、車の陰に隠れてパンツまで着替えをした。とにかく疲れ果てた。足が痛くて動かない。
 休む間もなく、車を走らせた。下り坂になるので、行きの時以上に注意を払わないと、車の底が危ない。細心の注意を払うが、それでも1回底ヅキをかまされてしまった。
 そして、午後1時4分、須砂渡にようやく着くことができた。何はともあれ、冷たいジュースを一気に飲む。こんなにジュースがうまいものだなんて今まで気がつかなかった。そういえば、初めての蝶ヶ岳登山の時、下山したら、何がしたいといったら、とにかく、かき氷が食いたかったよなぁ。
 最初のサービスエリアでおみやげを買うと、ひたすら車を走らせた。こんなに疲れまくっていたのに、また、睡眠もあまりとっていなかったのに、どうしたことか、ほとんど睡魔に襲われることはなかった。
 そして、午後9時40分頃、ようやく我が家に戻ってきた。疲労困憊。それ以上に、足が痛くてまともに歩けない。階段を上るのは、苦痛のなにものでもない。靴下を脱いでみる。「ありゃあ、左足の小指と中指が内出血しているよー。あれ、両足の親指には大きな豆ができているよー。あー、早く帰ってきて良かったのかもね、ぎりぎりまでいたら仕事ができなかっただろうね、これじゃあ。」
 

 後記

 
 その後2日間はまともに歩くことができませんでした。登山靴をかなりゆるくはいていたことと、調子に乗って休まなかったことと、地面が濡れてかなり滑りやすかったことが重なったのでしょう。帰った日には気がつかなかったのですが、実は右足の親指の方が重傷で、約三分の一以上が内出血していました。そして、時間がたつにつて、その指のほぼ全部の爪がはげてしまいました。左手薬指の方は3ヶ月以上痛みがおさまらず、また、握力も落ちていましたが、その後何とか元に戻りました。
 実は、ザックの重さが28kgもあったことは、帰ってきてから分かったのです。恐らく前回の登山の時は25kg以下だったのではないでしょうか?それを考えると、6時間で登頂できたのは、仕方のないことどころか、良くやった方でしょう。
 タチゲがこの登山に参加してくれなかったことで、一時は、ヤマトは終わったのだと思っていました。しかし、今ではヤマトから卒業したのだと思うようになりました。ヤマトは永遠なのです。そして、タチゲとの思い出はいつまでも消えることはないでしょう。
      
 1998年1月1日一応の完成。(PowerBook 1400cs/133にて)同じく、1月4日修正。1月12日再修正。(Power Macintosh 8500/180にて)今年1998年の目標として、僕は既に燕岳登山を掲げている。
    2002年6月8日に、パワーマックG4(933MHzクイックシルバー)で最終修正を行った。Mac OS X用のアップルワークス6.2.4を使用。
 2005年6月26日、パソコンからアップルワークスが飛んでしまったので、マイクロソフトのワードから強引に読み出して修正を行った。パワーマックG5 2GHzデュアルマシーン使用。
 2008年7月10日 新型Mac Pro( 2×2.8MHz Quad-Core Intel Xeon Mac OS X10.5.4)にて修正。2008年8月23日 ワード2008で再修正。
 ちなみに、現在メインで使用しいてるのは、i Mac Proです。3.2GHzのIntel Xeon WのCPUを搭載しています。メモリは通常では増設出来ない構造だったため、32GBのままです。時は流れたのぢゃ。ちなみに、Apple社は、Intelのチップを使わずに、自社開発のチップを使うことを発表しています。
 その昔、MacはPower PCなるチップを搭載していまして、IBMとモトローラーが作っていましたねぇ。