- 1978年の思い出をたどって
- 5度目の蝶ヶ岳登山 2001年蝶ヶ岳登山記録
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- 今年は、勤続20周年ということで、5日間の特別休暇をもらった。思えば、勤続10年の特別休暇は、気がついたら既に時効となってしまっていて、1日たりともとることができなかった。「よーし、今年は何が何でも休みをとるぞ。」かくして、本来の夏休みと、その特別休暇5日間のうち3日間を追加した計8日間の日程で登山する計画を立て始める。
- しかし、今年は、例年もまして障害が大きかった。その一番の問題が、ヒザの痛みだ。かなりやばい状態だ。体力アップにと、プロテインを飲みながらの筋トレも行っていたが、ヒザの痛みがひどくなり長続きはしなかった。ランニングも少ししてみたが、ヒザの悪化が怖くてわずかの回数で挫折してしまった。大阪に来てから、急にアホほど歩く営業マンに変身したのがいけなかったようだ。クソ重い鞄を持って10km以上歩いていることも珍しくないからねぇ。(後で考えると、歩いた距離は10km程度どころの話ではなかったと思いますよ。)
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- ところで、登山をする前に毎年必ず行うのが、鳥取県の大山(だいせん)と烏ヶ山(からすがせん)でのトレーニング。ヒザが痛いと言っても、これだけはしておかなければならない。身体に、登山のしんどさを思い起こさせねばならないのだ。これなくしては、本番の際のしんどさに絶えられないのだ。まあ、トレーニングと言っても、僕の場合、単なる登山のタイムトライアルだ。しかし、ここ大阪からでは、大山までは3時間半はかかるうえに、高速料金、ガソリン代を含めると往復15.000円程の出費となる。それなら、何故わざわざ大山に行くのだろうか?それは、自分でも多少わからない部分があるのだが、結局は大山が好きなのだろう。また、慣れ親しんでいるので、登頂タイムが分かっており、その時の自分の体調も把握出来るからだ。このトレーニングでヒザが壊れてしまうようなら、北アルプス登山どころの騒ぎではない。ある意味必死な気持ちで行うトレーングなのだ。
- その登山トレーニングだが、まず5月13日には標高1.711mの大山本体に登った。この時の登頂タイムは1時間39分58秒。このタイム、体調を考えればまずまずだった。と言うより、「なあんだ、ヒザの調子はそれほど悪くないじゃん。」とすら思えてくるものだった。ほっとして胸をなで下ろす。
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- 5月の大山は春の息吹などまだまるで感じられなかった。
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- 6月17日には、裏大山にある1.448mの烏ヶ山に登った。しかし、鳥取県西部地震が原因で、第一ピークの直下が大崩落していたのだ。それを登山直前で知ることとなる。何と、登山道入口を初め、数箇所にロープが張られており、登山禁止となっていたのだ。しかし、崩落現場まで行ってみようと登り始めた。その崩落現場までは57分のタイム。「トレーニングをして肉体改造に成功したら、40分台で登頂してやるぞ!」そんなことを、正月には考えていた。しかし、ヒザの不調から肉体改造には失敗。更に登頂も出来なくなってしまった。何か、大きな目標を失い落胆を覚えた。「まあ、今日のペースなら、登頂できていたとしても1時間15分以上かかっていただろうなぁ。」
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- 烏ヶ山の第一ピークの直下の崩落現場。
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- 7月8日には、大山に再度登った。しかし、登頂には2時間16分もかかったうえに、その下りでは、まるで足が動かない状態になってしまった。北アルプス登山への大きな不安に襲われる結果となってしまった。「今年は、北アルプス登山はあきらめたほうが良いのかもしれん。」かなり弱気になるほどの状態に陥ってしまっていた。
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- ペンタ67で撮った大山。
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- しかし、思い直して7月22日にはまたも烏ヶ山に登った。その結果、崩落現場まで、48分という快調なスピードで走破できた。「よし、よし。何とかスピードも上がってきたぞ。」アルプス登山の夢に向かって一歩前進だ。
- そして、8月5日にはまたも烏ヶ山に登った。今度は思い切って崩落現場をも登り、1時間13分のタイムで登頂できた。よく考えてみると、社会人になってからの最高タイムは、1999年9月5日に叩き出した54分50秒。「あの時は、緩斜面では自分でも驚くほどのスピードで歩いたからなぁ。それを考えると、このタイムは結構速いかもね。」確かに、この烏ヶ山の状態で、この体調で、このタイムは立派なものかも知れない。
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- 烏ヶ山山頂の岩もかなり傾いているように思う。1977年には殆ど垂直だった。(んー?でも、昔からこの角度だったのかも。分かんねぇ。どうやら、1977年登山後、割と早い内に傾いたようだ。)
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- この人達は、そこそこの年と思われるのに、信じられないくらい早く歩くのだ。私が、崩落現場をオーバーに表現したものだから、彼らは身体にロープを巻き付け、「いざとなったら、お互いが峰の反対方向に飛ぶんだぞ。」とか言っていた。でも、実は、そこまでのことはなかったのだ。ちょっとびびりすぎのアブ衛門だった。ごめん、ごめん。あははは。
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- こうして、これまでのトレーニングを振り返ってみると、ヒザの爆弾を抱えているにもかかわらず、それほどひどいタイムでないこともあったが、その一方で、足がまるで動かなくなる程のひどい状態の時もあった。その都度体調がかなり違うのだ。つまり、今回の北アルプス登山はやってみないと、どうなるか分からないと言うのが正直なところであった。悪い体調に当たれば、最悪の事態も覚悟しなければならないのかも知れない。
- しかし、その後、ヒザの調子は治るどころか、日々悪くなっていった。ついには、病院でレントゲンも撮ってみた。だが、以前診てもらったときと同じように「異常ありませんねぇ。」とのこと。やはり、少なくともMRIでも撮らない限り、不調の原因は分からないであろう。しかし、それには平日に何日も会社を休まなければならない。訳の分からない仕事が山ほどある状態で、それは、不可能に近いことだった。
- また、5/19に岡山県の美星町でひいてしまった悪性の風邪は、何と2ヶ月以上も治らず、体力を奪われてしまった。更に、7月下旬には1週間以上にわたりひどい下痢が続き、大変な体力低下となってしまっていた。私の身体は本当にどうなってしまったんだろうか?
- それでも、登山は何とか行うことを前提に計画を進めていた。そして、ふと気がつくと、登山用品の購入には結構な出費を強いられていた。
- 今までのシュラフがはかさばるため、思い切ってイスパのタトパニという羽毛シュラフを購入してしまった。(ホワイトグース90%、スモールフェザー10%、使用目安最低温度2℃。)その価格、税抜きで17.000円。そして、登山帽が1.600円。更に、98年は、燕登山直前に登山靴のソールがはげてしまうという大トラブルに見舞われたので、念には念を入れて登山靴も新調しておいた。これは、IBS石井で買ったのだが、ちゃんとしたアドバイザーがいて、サイズを合わせてくれた。その価格、登山靴本体が16.500円で、ヒザの故障をカバーしてくれることを期待して買ったインナーソールは2.800円。食料の多くは、IBS石井で買ったフリーズドライ食品ですませることにした。レトルト食品など一部のものは、高槻のジャスコで購入した。また、ズボンだが、93年に購入したクライミングスラックスは、ボロボロになりつつあったし、汗を吸うと、ひどく足にまとわりつき、体力を相当に消耗するものだった。そのため、去年だったか、高槻のコージツで登山用のものを新調しておいた。更に今回、IBS石井で、銀を使って温度を下げるというスラックスも購入した。
- しかし、何よりの大出費だったのが、中古で手に入れたペンタクッス67だった。98年の燕岳で出会った清水仙人が、中版カメラを使っていて、その画質に驚かされた。それ以来、出来ればペンタ67を購入したいとおぼろげに思っていたのだ。勿論、天体写真でも67は定番なので、以前よりいつかはほしいカメラだった。その価格は、105mmレンズ付きで、75.000円。更に、後で55mmレンズも購入してしまった。これが49.800円。加えて、レンズフードや、バルブ時の無電源化の改造費、フィルム台を加えると、信じられない程の出費をしてしまったこととなる。あー、頭が痛い!てーゆうか、完璧にアホぢゃん。
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- 中古で購入したペンタ67を穂高連峰と合成してみましたが、何か?
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- 駒ケ根サービスエリアにて。4月に手に入れたばかりのプリメーラワゴンだよーん。
- ホテルには、午後6時には着くと電話していたが、京都辺りの渋滞もあって、午後6時55分に着いた。一端荷物を3度にわけてホテルの部屋に上げた後、食事をしに車で出かけた。以前喫茶店で食事をした記憶があったので、その店をまず探してみた。しかし、いくら探してもその店が見当たらない。「あれれ、つぶれちまったかなぁ?」国道147号線を往復して、結局、中華料理店に入ることとした。そこで、イカとセロリの炒め料理と塩ラーメンのセットを食べた。子供の頃はあまり好きでなかったセロリだが、何故か、最近は無性に食べたくなる時がある。これも年による嗜好の変化というやつかな?その帰り、ボケッとしていたので、ホテルを通りすぎてしまった。やれやれだ。疲れているのに、時間のロスぢゃ。
- ホテルに戻ると、パッキングをし始めた。ある程度は検討、準備していたのだが、いざ本番となると本当にアホほど時間がかかってしまう。その上、やはりペンタ67がネックになってしまった。「やっぱ、クソ重いうえ、かさばるなぁ。うーん、持って行くのをやめるかぁ?」しかし、やはり僕の中では、「ブローニ版の魅力は絶対。」だった。それに、35mmのマニュアルカメラのオリンパスOM−1は、マンションに置いてきてしまっているのだ。「やっぱり、67は持って行くしかないよなぁ。」凄まじい葛藤の中で僕は頭を抱えていた。・・・「もう、だめだ。明日考えよう。」かくして、350mlのビールを3本も飲んで、エッチビデオを見て寝ることとした。「だみだ、これじゃあ、今までと全くおんなじぢゃん。で、明日はいつもと同じように下痢ピーかぁ?おー、やだ、やだ。」就寝時間は午後11時過ぎ頃だったかなぁ。
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- 2001年8月10日(金)
- 目覚まし時計より少し早い午前5時前に目が覚めた。「朝食はいらない。」って言ってしまったので、じっくり時間をかけて最終的なパッキングをすることにした。今回は、羽毛シュラフを買ったので、スペース的にはかなり助かっている。ザックの上のスペースには、まず、テント、フライシート、シュラフを押し込み、その上に、プラスチックケースに入れたビデオカメラを無造作に置いた。当初、動画をメインで撮ろうと、ビデオカメラを首からぶら下げたほうが良いのではないかとも思っていた。しかし、EOS 5をザックの中に詰め込むのは無理だと判断するに至った。それから、食料や、ガスコンロ、コッフェルなどを詰め込んだ。ペンタ67の105mmレンズも何とかザックに入れた。だが、ペンタ67の本体は、タッパでガードしてザックの中に入れようと思っていたが、結局どうやってみてもザックには入らなかった。「どうしようかなぁ?あー、頭痛ぇなぁ。」そして、ザックの下のスペースには、殆ど衣料類だけを詰め込んだ。そして、ザックのサイドには、三脚をくくりつけた。アルミマットは、ザックの下の方に、ヒモで締めつけた。しかし、パッキングを含めた用意に3時間近くもかかってしまいましたがなぁ。わたしゃ、アホかー?
- ホテルを出たのは、午前8時半頃。カーナビに沢渡(さわんど)をセットして、さあ、出発だ。今年4月に買ったプリメーラワゴンにはザナビー社のDVDカーナビがついている。そのカーナビの通り進むと、「あれ、あれ、こんな細い道を通るかい?」それは、川沿いのかなり細い道を指示している。
- 「まだ、盆休みのピークになっていないからなぁ。それほど混んでないだろう。助かるよ。」と余裕をかましていた。細くて、カーブの多い国道158線を走った。トンネルもアホほどある。トンネルのカーブでの対向車とのすれ違いでは結構気を使う。そうこうしているうちに、沢渡に着いた。しかし、そこで愕然としてしまった。駐車場には「満車」の看板がデーンとかかっているのだ。「げっ、こりゃ、引き返して三股ルートをとらんと駄目か?」サーッと、血の気が引いていくのが自分でも分かった。「今から三股に行くと、何時に登山を開始できるんだ?」しかし、気がつくと、次々と来る後続車は更に上に向かって走っている。「ん?上にも駐車場があるのかな?」と、すぐ上に「梓第二」という駐車場で人が誘導している。「やったぞー、停められるんだ。助かった。」
- 「何日ですか?」駐車場のおじさんが聞く。「えーとっ、5日です。」実は、この時、ちょっと勘違いしていた。本当は6日間のつもりでいたのだが、何故か5日間と完全に勘違いして、そう言ってしまった。ザックに入らなかったペンタ67は、とりあえずスタッフバックに入れて、手で持つことにした。勿論、EOS 5の方は首からぶら下げている。タクシーはすぐに来たが、ちょっと待ってもらって、まずは簡易トイレで放尿。タクシーの運転手は、Mさんと言って、声としゃべり方にかなり特徴がある人だ。様々な話をしながら道中を楽しんだ。何でも、6ヶ月前まではトラックの運転手だったらしい。うーむ、トラックの運転手とはちょっとイメージが違うんだけどな。
- そのうち、上高地バスターミナルに着いた。代金は4.500円弱だった。一人でタクシーに乗るのはもったいないとは思ったのだが、あいにく相乗りしてくれそうな人が見つからなかったので、仕方なかった。「かと言って、バスに乗るには荷物が大きすぎて他の客に迷惑になりそうだしなぁ。」
- 空は曇り空だった。記念にコントラストのないバスターミナルの写真を撮っておいた。「よーし、行きますか。」出発は10時42分のこと。まずは最初のキャンプ地である徳沢に向けて出発だ。
- ところで、今回は登山する山を決めるのには結構時間がかかってしまった。例年より多くの休みがとれることで、多少の縦走を考えてみたり、あるいは、思い切って白馬に行くことも考えていた。しかし、ヒザの不調もあって、結局最終的には蝶ヶ岳に登ることとした。だが、今までの蝶ヶ岳登山のルートとは違っていた。最短の三股ルートを通るのではなく、78年のタチゲとの思い出をたどるべく、まずは徳沢に入ることにした。金がかかってもいい、しんどくてもいい。そこで、明神、前穂に沈む北斗七星の写真を撮りたいと考えていた。それほどに、78年の登山の思い出は強烈なものだった。「あの宝物に会いに行きたい。」ただ、徳沢からは、78年にまさに死ぬ思いをした長塀山ルートは通らずに、横尾へ行き、そこから、急勾配のルートで登頂する予定にしていた。ヒザの調子が不安で、いくら急勾配でも短いルートを通った方がまだましではないかと考えたのだ。
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- 上高地のバスターミナルだよ。
- ザックは、今朝ようやく最終的なパッキングが出来た状態なので、正確にはどれくらい重さがあるのか分からないが、今までよりは何となく軽く感じていた。ペンタ67や、その交換レンズ2本が追加されているわけだから、今までより軽いはずは無いはずなのだが・・・(帰ってから計ったところ、ザックを含めた荷物の総計は約27.5kgと推定された。やはり前回よりちょっと重い。てっ、ゆーか、もっと重いでしょう。計測間違いでは?)
- ヒザの調子は相変わらず良くはなかったが、今までも、毎回何らかの不調をかかえて登山してきていた。それを考えると半ば割り切ってのスタートだった。だが何故か、このでっかい荷物をかついでいるのに、自分でも驚くほど速く歩いている。「何でかなぁ?これじゃ、他人から見たら、とてもヒザに不安を抱えているとは思えんだろうなぁ。」歩いて間も無く河童橋に着いた。曇っているせいで、鮮やかな光景ではなかったが、ここで記念写真をパチリ。「穂高連峰も焼岳も見えていないではないか?あーあ、とっても残念だぞ。」それにしても梓川の水量が結構少ないように感じる。「今年は、雨が降らなかったからなぁ。」そんな梓川を鴨がのん気に泳いでいた。「ちょっと、あんたねぇ、少しは警戒心っていうもんがないのかねぇ。」
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- あーあ、穂高も焼岳も見えないぞ!
- ところで、今回、とても残念に思えることがあった。それは、挨拶をする登山客が異常なまでに少なくなってきていることだ。昔は、100%に近い率でみんな挨拶を交わしていた。しかし、今日はどうだろう、半分くらいは挨拶をしても知らんぷり。更に、道一杯に広がって歩いても、人が来てもどこうとしない。これが、ガキがするのなら、まだ多少は理解できるが、大人が平気でするのだから、すごく腹が立ってきた。「今の日本、明らかに人間の心がおかしくなってしまっている。どうしてしまったんだ、日本人よー!日本人はもっと礼儀正しく、人を思いやることの出来る国民ではなかったのか?」
- 途中、明神岳が見えてきたので、写真に撮っておいた。しかし、これまた、山頂部にガスがかかっている。「仕方ないなぁ、今日の天気予報ではこんなものかなあ。・・・あっ、そう言えばここは・・・」僕は、坂道を下って梓川に降りてみた。そうだ、ここは78年に、中国人のパーティがいた所じゃないか?あの時、カンフー映画スターのジミー・オングによく似た青年は、記念撮影をするためにカメラを構えていた。しかし、ずっと中国語でしゃべっていたのに、後から日本人パーティが来ると、何故か、「もうちょっと、こっち、こっち。」と突然日本語に変わった。そんなどうでも良いようなことを、僕は昨日のことのように覚えていた。
- それから少し行くと、下が白い砂でしきつまっている場所があった。そこでは、枯れ木の向こうに明神岳が迫力ある姿を見せてくれている。何とも奇妙な風景の場所だ。しかし、多少の変化を見せながらも、23年前に初めてここを訪れた時から、この風景は現在まで続いている。
- バスターミナルを出てから約1時間程で明神に到着。ここで一端休憩をとった。自販機でグレープフルーツジュース(だったと思う)を飲んだ。160円の山価格だったが、乾ききった咽には何ものにも変えがたいものだった。
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- 明神で一休みぢゃ。
- バスターミナルから約7km離れた徳沢に着いたのは、2時間足らずのこと。(正確な時間を覚えていない。)78年には、僕らは37kgもある形の崩れたキスリングをかついで、苦痛にあえいで歩いていた。あまりのしんどさに、この徳沢にすら着かないのではないかと真剣に思ったものだ。それを考えると、今日のスピードは信じられない速さだ。写真を撮るために、途中何度も立ち止まったのに、この時間で着くとは、自分でもすごいの一言だ。
- それにしても、徳沢に着いてまず驚いたのが、「人の少なさ」だった。かつて、ここへ来た時には、所狭しとテントの花が咲いていたからねぇ。雨が降りそうだったので、あわてて大きな木の下にテントを張った。それにしても、その手際の悪さと言ったら・・・「あーあ、案の定雨が降ってきた。やれやれ、初日から雨かよ。まあ、天気予報通りかぁ・・・」僕のテントの横にはダンロップのテントが既に張ってあり、結構大きないびきが聞こえていた。やがて、その住人が目を覚ましたので、声をかけてみた。何でも既に涸沢に行き、戻ってきてここにテントを張っているのだそうだ。メガネをかけ、お腹が出て、いかにも日本人という風貌のその人は、東京から来たと言っていた。「年は35才前後かな。この年齢の人が1人で来るのも珍しいなぁ。」などと思っていたら、奥さんがテントの中にいることをずいぶん後になってから気がついた。
- ところで、23年前にはなかった施設が出来ていた。水場もその一つだ。ポンプで水をくみ上げるのだ。大きな棒状のレバーがあるので、初めは、そのレバーを手前に引くだけで水が出ると思っていた。しかし、いくらやってもチョロッとしか水が出ない。「があぁ、壊れてるのかぁ?どないしよう。」しかし、説明書きを見直すと、「レバーを前後している間だけ水が出る。」と書いてあるではないか?つまり、手動ポンプっていうことねぇ。アホー!昼飯は、その水を使っての、フリーズドライ食品の五目ご飯と卵スープだ。お湯をかけるだけのチョー簡単な食事だ。
- 雨は降ったり止んだりだった。そんな時、大きなトラブルに見舞われたことに気がついた。今回の登山のために買った、カード程の大きさのラジオの電池が切れかかっているのだ。否、と言うよりは、ほぼアウトに近い。「やべぇ。上高地なら単4の電池は売ってるかな?いや、とりあえず徳沢園で聞いてみようか?」750円也の生中のビールジョッキを注文するついで、聞いてみることとした。「あのぉ、つかぬこととをお伺いしますが、単4の電池って売ってます?」すると、若い女性の店員は実に愛想なく、「単3ならあるかもしれませんが、単4はありません。」・・・まあ、そうだろうな。ラジオは諦めるか?がっくし。それから、ここ徳沢では携帯電話は圏外になっていることも初めて知った。「やばぁ、緊急の仕事のが入っていたらどうしよう?」
- 「ああ、そうだ。」突然、僕は大声をあげた。オリンパスのボイスレコーダーを持ってきていたが、その電源も確か単4だったはずだ。そうなのだ、ボイスレコーダーは殆ど使いそうにないので、この電池を使うことにした。「オッケー、ラジオの復活だ。良かった、良かった。」ラジオがないと、天気予報が聞けなくて危ないし、情報が入らないので、まさに浦島太郎になってしまうからなぁ。それに何より、一人きりのテントの中では、ラジオは寂しさを紛らす必須道具だからねぇ。
- 3時10分過ぎ、僕は78年の思い出をたどるべく、梓川河畔にやって来た。梓川の上流に向かう細い道は、横の木々が茂ってしまって、途中から進めなくなってしまっている。そこで、強引に河原に降りてみることとした。梓川を流れる水は異常なまでに少なくなっている。78年もかなりの水不足の年だったが、それよりはるかに少ない水量だ。石には藻が生えている。あの時、タチゲが好んで座っていた「タチゲ岩」は、いくら探しても、いくら探しても見つからなかった。当たり前の話だ。あれから、23年の年月が経っているのだ。あの登山の思い出は、このところ毎日のように思い出している。しかし、臨場感の薄れた思い出になりつつあった。何というか、人事のような印象にもなりつつあった。だが、この梓川を見ていると、あの頃のことが、本当に色鮮やかに思い出され、僕は涙が出そうになった。そこには、20才の頃のタチゲがいた。明神、前穂のシルエットの上には、北斗七星が沈んでいった。僕等は眠い目をこすりながらいつまでも星空を見上げていた。あいつと星を見ている、そんな、どうでも良いようなことが、僕にとってはとても幸せなことだった。・・・あれから23年の月日が流れた。しかし、僕等の心は今でもあの頃のままだ。
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- 水が少なく、藻さえ生えてしまった梓川。こんな梓川の姿は後にも先にもないんじゃないかなぁ。
- 晩飯は午後4時過ぎに早々ととることとした。メニューは、ラーメン、トムヤムクンスープ、ブルーベリー紅茶だ。これまた、チョー簡単な食事だ。
- それにしても、人が少ない。ここ徳沢は北アルプス登山の前線基地のはずじゃないのか?隣には、男女混成のやや大きなパーティがテントを張ったが、依然としてガラーンとしている。「もしかしたら、ブームが去って、登山客が激減しているんじゃないのかなぁ?」
- 夜は、まるで晴れそうに無かったが、とりあえず撮影の用意だけはしておいた。念のために、寝酒用に、500mlのビール(550円)も買っておいた。
- 午後9時半頃、ふと気がつくと星が出ている。大慌ててで、撮影機材をかついで、梓川が見える徳沢の入口まで出かけた。ガスが出ているのだろう。そのために、異常になほどに暗く、しかも、まるで遠近感がない。とても恐ろしい。しかし、すぐに濃いガスにすっぽり覆われてしまった。それでも、わし座辺りだけに星が出ているので、とりあえず撮影してみる。しかし、どうもペンタ67のシャッターの調子がおかしい。バルブ撮影になっていないような気がする。ミラーアップはしているものの、シャッターが開く音がしていないようだ。何でかなぁ?(案の定、シャッターは切れておりませんでした。)
- 午後11時半頃、またも星が見えているので、再度梓川へ出かけた。しかし、明神、前穂の上空にはガスがあり、山から結構上の方でないと星が見えない。「あーあ、残念。」などと思っているとあっという間に雲に覆い尽くされてしまった。更に、またもペンタ67のバルブのシャッターがおかしい。「ホンマにやれやれだ。この明神、前穂に沈む北斗七星を撮るためにわざわざ徳沢に来たのにねぇ。・・・ここでもう1泊してみるかぁ。・・・いや、いや、山頂で星を見た方がずっと良いはずだ。明日は予定通り蝶へ行くことにしよう。」
- それにしても、78年の登山記録を見ると、「この徳沢からでもおよそ1.500mもある前穂が、どういう訳か、特に夜間はとても小さく見えるのだ。誇張でなく、まるで2〜3mしかない砂山のように思えてしまうのだ。」と書いてある。しかし、今日見る限り、やっぱ、明神・前穂はでかいぞぉ。きっと、月明かりのない状態で、すっきりした星空をバックに見るとそんな風に見えるんだろうなぁ。本当は、そんな風景を見ることも今回の登山の大きな目標だったんだけどね。でも、天気が相手じゃ、仕方ないねぇ。
- 落胆のうちに、12時過ぎ就寝することとなる。明日は、横尾経由で蝶ヶ岳登山ぢゃ!頑張るぞぉー!
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- 2001年8月11日(土)
- 午前5時前起床。キャンプ場から100m以上も離れた「公衆トイレ」でウンチを放出。軟便だが、下痢ピーにはなっていない様子。「よし、よし。」それにしても、23年前、あれほど汚かったトイレは、簡易水洗になっていた。「時代は変わったんだなあ。」
- 「おおー、晴れてきているがな。」いつしか、ガスが切れ初め、明神、前穂がその姿を鼓舞し始めた。78年の時のような、恐ろしいまでの紺碧の空ではなかったが、それでも、これからのことを考えると心うきうきしてしまう。
- 8時16分、徳沢を後にした。まずは4km近く離れた横尾へと向かう。あれっ、ザックのバランスが少し悪い。それに左腰が痛い。(これは、後で分かったのだが、ウエストバックのプラスチックの止め金部分が腰に当たっていたのだ。)
- 歩いていると、屏風岩がだんだん大きく見えるようになってきた。横尾への道は梓川沿いのほぼ平坦な道で、それほどの疲労感はない。午前9時13分には横尾に着いてしまった。見ると、涸沢方面に向かう方向には橋があり、その横には実にみすぼらしい小さいキャンプサイトがあった。「やっぱり、徳沢でテンパったのは正解だったねぇ。」横尾山荘には登山相談所なるものがあったが、ここで悩んでしまった。「ここで登山届を出すのだろうか?あるいは、もっと先に登山届を出すところがあるのだろうか?」更に蝶ヶ岳に向かう道が今一つ分からない。「あれっ、もっと手前に分岐があったんだっけ?」トイレの手前にあった手洗い場でタオルを濡らした後、行ったり来たりしていたら、結局出発は9時30分になってしまった。
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- 横尾から穂高の方面には、この橋を渡るらしい。
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- 横尾山荘はでかいし、何か山小屋というイメージではない。
- 蝶ヶ岳登山口は、槍へ向かう方向にあった。しかし、登山届は、やはり横尾山荘で出すらしい。しかし、戻るには体力がもったいない。初めて登山届をしないまま登山することとなってしまった。「良い子の皆は真似しちゃ駄目だよ。危ないからねぇ。」
- 横尾からの登山道は、予想通りの急勾配だった。しかも、道の状態はかなり悪い。予想通りと言うべきか、それ以上にと言うべきか、この道を利用する人は圧倒的に少ない。ヒザの調子がとても悪かったので、急勾配でも短いルートをとりたいと考えての選択だった。付け加えるなら、徳沢からの長塀山ルートは、急勾配の上、実に長いのだ。肉体的にも精神的にもいやになるのだ。78年の時の、あの苦痛がトラウマになっていたのもかも知れない。それ故、長塀山ルートを選ばなかったのかも知れない。
- しばらく歩くと、カウベルをつけた50才を越えた位のおじさんに抜かれた。初めて会う登山客だ。このおじさんも「しんどい、しんどい。」と言っていたが、さすがに荷物がそれほど大きくないので、ふと気がつくと、姿が小さくなっていった。僕は、登り初めから登山をやめたくなるほどのしんどさに見舞われていた。
- そこからそれほど遠くないところに槍見台があった。確かに名前の通り、槍ヶ岳が見えている。ここで、ザックを置いて休む。既に結構疲れている。水筒には、徳沢の水に溶かしたアクエリアスが入っている。これは、アイソトニック飲料なのだが、最近アミノ酸も追加され、疲労回復には良さそうだと思って持ってきたのだ。更に飴を舐めてエネルギー源とした。
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- わずかに槍ヶ岳が見える槍見台。ここと、あと一ヶ所ほどでしか、槍ヶ岳は見えないのだ。
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- これは、1999年に三股から蝶ヶ岳に登った時の写真。ザックはモンベル製。(モンベルはゼロポイントというブランド名をつけている。)設計が古かったり、価格が安かったこともあり、結構しんどさを感じていた。この年もこのザックを使っていたが、2003年にはノーフェイスのバッドランド75Lのザックに買い換えた。体感的に随分楽になった気がしている。
- 僕を抜いていった登山客は、その後、50才台と思われるの男性2人のパーティと、40才くらいの女性だけだった。下りのパーティにも数組しか会わなかった。その中には、若いアベックがいたが、今朝5時に常念岳の方から来たとのだ話していた。男性は結構山に慣れている感じの筋肉質の体形だ。しかし、その男性のかなりのスピードに一緒について歩いている女性には、ただただ感心した。
- 道は、途中から、少し勾配が緩くなった。しかし、それでも疲れ切った身体には相当きつい。15分から20分歩るくと、ザックを下ろして10分ほど休憩をとる。そうでもしなければ、とても身体が動かないのだ。休んでいると、意識が薄れてきた。「やばい、やばい、こんなところで寝込んでしまったら、疲労凍死だってありえるぞ。」と思いつつも、眠りに誘われてしまう。と、今度は頭の中に、気味悪いイメージが次々に浮かんでは消えていく。それは、コンピューターグラフィックで作ったような不気味な男の顔だったり、得体のしれないものだったりする。意識が戻りかけたとき、今度は幻聴が聞こえてくる。何もいないのに、何かの気配にハッとする。それは、動物なのか人の気配なのかすら分からない。
- 毎回そうなのだが、このまま登山を中止して帰ろうかとすら思うようになる。それほどきつい。このペースで登っていて、いったい何時に蝶ヶ岳に着けるだろうか?ここで、仮に遭難しても、これだけ人の行き来が少ない登山道では、見つけてくれる人がいるのだろうか?身体の疲労以上に精神的に疲労してきていた。ふと、自分が実に馬鹿げたことをしていると思えてきた。「ヒザの調子があれほど悪かったんだ。仕事も忙しいうえに、毎日重い鞄をもって歩きづめだ。相当疲れがたまっていたじゃないか。それなのに、登山だぁ?しかも、こんなきついルートを登るなんて何て馬鹿げたことしているんだ。」
- 勾配はやがてまたきつくなってきた。最後にあった下山者が、「ここまで、1時間で下って来たから、登りだったら、うーむ・・・まあ、ある程度計算できるんじゃないかなぁ?」と教えてくれた。「しかし、今の僕のペースなら、倍の2時間でも無理だろうなぁ。」やがて、ガレて非常に歩きにくい急勾配となった。恐らく、頂上が近いのだろう。しかし、あまりにもきつい。
- 死ぬ思いで「横尾別れ」と呼ばれる所にに着いたのが、14時48分のこと。「やったー。着いたぞぉ!」しかし、その喜びもつかの間、一気に奈落の底に突き落とされた気分になった。「あ、あれっ、蝶ヶ岳ヒュッテは?えっ?まるで見えんぞ。?こっ、ここは、どこだー!」この分岐点はヒュッテに割と近い場所にあると思い込んでいたのだが、実はかなり遠かったのだ。しかも、時折ガスが辺りを
- すっかり覆い尽くしてしまう。落胆のうち歩いていると、若いアベックが話をしているが見えた。既にヒュッテかテントに泊まり、人に邪魔されないこんな離れた所までやって来ているのだろう。「クゥラー、死刑に処す!死刑!絶対に死刑!」
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- 初めは多少晴れていたが、あっという間にガスが覆った「横尾別れ」付近より稜線を見る。
- ホンマに死ぬほど疲れてキャンプ場に着いたのが、15時36分のこと。登山タイム6時間1分。エライ時間がかかったと言うべきか、よくぞこの時間で登って来られたというべきなのか?しかし、ともあれ生きて着いたのだ。ヒザの調子は思っていた程ひどくない。そうは言っても、もともと特におかしかった左ヒザが何ともないはずもなく、妙な歩き方でないと歩けない。ザックを置いて、テントを張る場所を確保してから、ヒュッテにテンパイ料を払いに行った。1泊500円だ。「あのー、2泊なんですけど、1泊ずつ払ったほうが良いですか?」と聞く。と、かなり忙しいそうであったので、「まあ、いいです。」とのこと。ラッキー。しかし、後で領収書を見るとちゃんと2泊分とられていた。「やっ、やられたー!世の中そんなに甘くないのね。」
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- 完全にガスに覆われ始めたキャンプサイト。
- 僕の隣には汗臭いおじさんが、アホほど疲れた様子でテントを張っていた。(自分もアホほど汗臭いですが、ほっほっほっほっ。)おじさんは、グランドシートまで敷いてからテントを張っている。(実は、このおじさん、Wさんと言って、私の誘惑もあってか、同じ場所に私と一緒に3泊もする人なのである。そして、このグランシートを敷くことは重要なのだ。岩場でそのままテントを設置すると、テントの底の部分が痛んでしまうからだ。私のテントも穴があいたことある。)
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- 「監督」と呼んでいたおっちゃん。Wさんだ。
- 向こうのテントには、岡山弁だろうか、方言丸出しのチョー田舎モン(失礼。でも、私も田舎者。田舎者は好きなのである。)のねーちゃんがいる団体さんがいた。漫画の話をしているが聞こえてきた。「美味しんぼって言う漫画の中で、山岡士郎のおとうさんの海原ソーザンがねぇ・・・」などと言っている。あんた、そら、海原雄山でっしゃろが。しかも、その話を聞いている仲間は、その漫画を知らないので、「へぇー、そうなんだ。」とか言っている。テントから出て行って、「そら、ちゃいまっせ。」思わずと言いたくなる衝動に駆られた。
- 僕はテントを張ると、まずすぐに服を着替えた。今年の蝶ヶ岳もかなり暖かいが、それでも、ほったらかしにしておくと風邪をひく可能性が大きい。
- 再度ヒュッテに行って、1リットル150円の水を5リットル買う。更に、山価格700円の500mlのビールも買ってきた。
- 食事は、フリーズドライのご飯だが、湯を入れて30分ほど待たないといけない。先にスープを飲んで待っていると、いつの間に寝込んでしまったようだ。気がつくと、既にご飯は冷え始めていた。横尾別れに着いた頃までは、時折晴れ間もあったが、その後は、穂高連峰も槍ヶ岳もまるでその姿が見れないほどガスにすっぽり覆い尽くされていた。あの、ようやく回復したラジオで天気予報を聞くが、どうも、芳しくない。一端関東付近まで、南下した前線は、明日、東北まで北上するらしい。明日は、天気が良くなるか、それともまだ回復に時間がかかるのか微妙な感じだ。
- それからもずっと蝶ヶ岳はガスの中だった。時折雨も降っている。夜になると、更にすることもないので、ラジオを聞きながら、シュラフに潜り込んでいた。そのうち、ビールを飲んだせいでトイレに行きたくなってしまった。「テントが多くて、ロープに引っ掛かりそうだよなぁ。」テン場は結構な混雑状況だからねぇ。78年に濃霧の恐ろしさは嫌というほど味わっていたが、逆に慣れてしまっていたので、目印を頭に焼き付けながら歩くと、何とか無事テントに帰ることが出来た。それにしても、今年の蝶ヶ岳は暖かいぞぉ。ホンマにおかしいぞぉ。
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- 2001年8月12日(日)
- 辺りが騒がしくなったので午前4時前に目が覚めてしまった。しかし、相変わらずガスにすっぽり覆われたままだった。それでも、殆どの人が縦走するため、テントをたたんでキャンプサイトを後にしてしまった。
- 天気はずっと悪かったが、撮影の用意だけはしておこうと考えた。しかし、スチールカメラはレンズに露が付いているし、ビデオは内部で結露している。仕方ないので、ガスコンロに火をつけ、これで暖めた。スチールカメラのレンズの露がすぐとれたが、ビデオの結露はいつまでたっても解消しない。警告音が出っ放しで、テープを入れてもすぐに吐き出してしまう。「くそっ、まあ、とりあえず、EOS 5でこの悪天候の外の景色を撮っておこうか。」と、テントの入口のファスナーを開けて、身体を乗り出した時だ。「あれっ?何か変な感じだぞ。・・・あー、溶けてるよぉ。」気がつくと、身体を乗り出した時、熱くなっていたコンロの足の部分が、僕の足に触れてしまっていたのだ。冬山仕様の防寒着のズボンは何箇所か溶け、更に下にはいていたトレーパンも少し溶けてしまった。「あーあ、この防寒着、高かったんだぞ。」この服、今から20年近く前に鹿児島で買ったのものだが、確か、その当時でも3万円台の後半だったような気がする。外側がゴアテックス、中綿がシンサレートで、当時としては最高の組み合わせだった。
- ところで、昨日、隣で緑色のアライのテントに潜り込んだまままるで姿を現さなかったおじさんは、今日はここで沈殿するのだと言っていた。7月には槍や穂高を大縦走をしたが、今回は、その縦走した山を、反対側から写真に撮りに来たのだそうだ。7月の時は、あまりにも天気が良すぎて、雲一つなく、まるで写真にならなかったと、そのおじさんは苦笑した。うーむ、天気の良すぎるのだめなんですねぇ。何事も程々が良いのでしょうねぇ。
- それにしても、このおじさん、チャンバラトリオの南方英二氏のようなちょっと特徴のあるしゃべり方をする人だ。
- もう一つ、近くにテントが張ったままになっていたが、この中からは、サングラスをかけた青年が出て来た。三重から来たという青年は、骨肉腫か何かの病気を患っていて、(といっても良性のものでしょう、当たり前のことですが。)右頬がボーンと腫れ上がっていた。右目も変形していて視力があるかどうか分からない状態だった。軽自動車を作る会社に勤務していて、その会社のクラブ活動として登ってきたのだそうだ。テントの中にはもう一人いるのだが、ズブの素人のため疲れ果ててしまっているので、今日は沈殿して体力の回復を図りたい言っていた。思えば、うちの会社でも、とてもバイタリティーのあるとある部長が、恐らく骨肉腫になり、顔の右側の骨を切除している。多分右目も義眼だと思う。また、子会社の、ある部長も肉腫らしき病気になり、片方の頬が腫れ上がり、口も半分はうまく開かない状態になっている。もし、自分がそういった病気になったなら、彼らの様に明るく振る舞うことが出来るだろうか?僕はそんなことを考えながら、会話を交わしていた。
- 午前8時頃、ヒュッテのトイレで大を放出。暗くてヘッドランプがいるかと思っていたが、結構明るい照明があり無用だった。しかし、ちょっと下痢ピー気味だなぁ。大丈夫か?また、山でビールを飲むと気圧の関係か、とってもオナラが出る。夕べもシュラフの中でいっぱいこいてしまった。うーむ、「屁染のシュラフ」なんちって。あー、こわっ。
- 午前9時頃、とりあえず雨が上がっているので、ガスの中、妖精の池へ向かってビデオカメラとEOS 5だけを持って行ってみた。まず、78年ビバークした窪地を通ったが、チングルマは、半分枯れかかっていたが、それでも何とか咲いていた。岩桔梗なんぞも咲いている。
- 妖精の池では、他の登山客の話のように蚊の攻撃が凄まじかった。明らかに地球は温暖化しているのだ。雨が降って草が濡れて倒れていたこともあって、ヤンマの姿はまるで見つけることができなかった。99年に初めて見た、あの、おたまじゃくしのような、山椒魚のような生き物は今回も健在だった。ホンマにあの生き物は何?おせーて、おせーて。(その後の調べで山椒魚らしいことが分かりました。)
- その後、三股ルートを少し降りたところの御花畑にも行ってみた。コバイケイソウは、殆ど枯れていたが、ただ1株だけは見事に咲いていた。荷物がないことと、下り坂だったので、あっという間に着いてしまった。しかし、これが重い荷物を背負っての登山となると、実に長く感じるんだよなぁ。
- 11時24分、ビールを飲んで昼寝を決め込んだ。天気が悪いと、昼間のテントの中でもそれほど暑さを感じず、割と快適に眠ることが出来る。しかしながら、年をとってから鼻の調子が更に悪くなっているうえ、ビールを飲むと、鼻がつまってくる。このため、目が覚めてボケーッとしていたら、隣のおじさんが「よう寝てたねぇ。」と言う。つまり、大いびきをかいて寝ていたのだろう。ところで、このおじさん、京都からきたのだそうだ。御年57才。荷物はカメラ(EOS 5とレンズ)が重いので大変しんどかったと話していた。ザックの重さは、25kgあるのだそうだ。しかも、僕にとってはトラウマにも近い、あの「きついきつい長塀山ルート」を登って来られたのだそうだ。その登山時間、7時間。疲労のため、昨日は殆ど寝込んでいたとのこと。ホンマにお疲れさんでした。
- 晴れ間も一瞬出ていたが、午後2時過ぎ頃からは雨も少し落ちてきた。この時間帯になると、登山客が多くなってくる。若いアベックがいたが、男性の方は初めての登山だが、女性は以前ここからのパノラマを見て感動したので、再びやって来たのだと話してくれた。
- また、東京から来た男性のパーティがテントを張ろうとしていたでの、一言老婆心ながら言ってしまった。「その場所は、雨が降らなければ最高の場所ですが、雨が降れば湖になりますよ。」過去に、何度も水没した場所だ。と、おじさんは、「俺が降らないって言ってんだから、大丈夫だ。」とべらんめい調で言うと大声で笑った。
- それにしても、今年の蝶ヶ岳は異常だ。とにかく暖かい。成長がかなり遅いはずのハイマツがかなり伸びてしまって、登山道を歩く登山者を隠すほどになっている。また、これまで殆ど見たことが無かった、ホシガラスが、異常に多く、ハイマツの松ぼっくりをさかんに食べている。更に、どしたことか、鳩がいるのだ。恐らく、暖かいので、ここまで登ってきたのだろう。餌は、登山客の落としたわずかの残飯があるので生き延びているのだろう。
- そんな時、三股ルートから50才位の夫婦が登ってきた。「お疲れさんでした。ちなみに、そこに鳩が出迎えてくれてますよ。」と僕が言う。すると、完璧に疲れ果てているはずなのに、ご主人の方が、「えっ?ハット(鳩)しました。」と、チョーオヤジギャグを発した。恐るべし、オヤジ!どんなに疲れていてもオヤジギャグを言うのが、ホンマモンのオヤジというものだ。あっぱれ、真性オヤジ。
- ところで、京都のおじさんから、コーヒーをおごってもらった。コーヒー自体は、フリーズドライなのだが、これに、チューブに入った練乳を入れるのだ。これが、結構うまい。次の登山から真似してみようかなぁ?ただ、腐ったりしないのかなぁ?ちょっと心配ではあるなぁ。
- 午後5時49分、辺りは依然としてガスの中だった。ラジオを聞くと、今夜は曇り、明日は午前中は晴れるが、その後は一端曇った後、まずまずの天気が続くと言っている。うーむ、よう分からん予報だな。やっぱし、ペルセウス流星群を見るのは無理かなぁ。残念だなぁ。ちなみに、実を言うと、ペルセウス流星群のことは、はなっからあきらめていた。極大日が今朝だったのか、明日の朝なのか、それすら覚えていなかったのだ。しかし、三重から来たお兄ちゃんが知っていて、明日の明け方が極大日だと教えてくれた。かーっ、恥ずかしー。それでも天文ファンか?
- 21時28分、用を足しにヒュッテに行ったが、依然ガスに覆われていた。それでも慣れていることもあり、ライトをつければ歩くことは十分可能だった。
- ビールを飲んでいるが、昼間寝ていたこともあって、ちょっとうつらうつらしてもすぐに目が覚めてしまう状態だ。そろそろ、背中も痛くなってきたしなぁ。
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- 2001年8月13日(月)
- 夕べは何度も目が覚めてしまった。目が覚めるたび、テントのベンチレートの穴から外を見てみるが、何度見てもガスの中だった。
- 午前2時過ぎ、またも目が覚めてしまったので、外を見てみた。「まっ、どうせ駄目だろうけど、念のため、念のため。・・・う、うわー、うそぉー!星が出てるよー!」完全に晴れているわけではなかったが、星空が広がっている。慌ててテントの外に出てみる。キャンプサイトはまだ深い眠りの中にあった。僕はいつもの場所に行き、星を眺めていた。ガスが覆うことも多く、あの驚異の星空が、空一面に広がっている訳ではない。しかし、これまでの天気を考えると、よくぞ晴れてくれたものだと思わずにいられなかった。まさに奇跡の星空だ。カメラはというと、昨日の反省から、タオルなどでくるんでスタッフバックに入れておいた。これが功を奏して結露することはなかった。少しして、三重県のあのお兄さんもテントから出て来た。彼は、星にはそこそこ詳しそうな人だった。ガスが晴れると下弦の月がまぶしいほどに輝き出す。うまく淡くガスがかかると、月の回りにはきれいな同心円状の虹がかかった。それは、まるで、同心円グレーティングをかぶせたように見事に円形の虹がかかるのだ。そのイメージが恐ろしくシャープなのだ。そのうち、晴れ間の方が多くなってきた。ペルセウス流星群の流星が結構飛んでいる。飛ぶたびに「流れたー!」と歓声を上げる。薄明が迫るころになると、流星は文字通りバカスカ流れるようになった。瞬間HRなるものがあれば、軽く100を越えていたのではないだろうか?梓川上空にはガスがあふれていた。もし、このまま御来光を迎えることが出来れば、23年ぶりに、雲海に浮かぶ穂高連峰がモルゲンロートに染まるところを見ることが出来るかも知れない。頼むよ、雲海よ消えないでくれ。お願いだ。僕は祈るような気持ちだった。
- ただ、とても心配だったのが、やはりペンタ67の調子だ。またも、バルブの際に、ミラーアップするものの、シャッターがおりていない気がする。それに、桐灰カイロをつけていたが、すぐに消えてしまって、気がつくと、105mmのレンズには、露がベッチョリついていた。あわてて55mmレンズに変えて撮影をしてみた。この1枚だけは何とか撮れたような気がするのだが・・・(後で見るとまさにその通り。67で撮った天体写真はこの1枚しか成功していなかったのだ。)
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- 予想通りに、ペンタ67で唯一撮れた星のある風景。
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- 本当に美しい。雲海に浮かぶ穂高連峰と槍ヶ岳。
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- 昇るオリオン座。
- ふと、山の方角に目をやると、既に槍ヶ岳の肩の小屋や、奥穂と涸沢の間にある穂高山荘の明かりが輝いている。山頂に向けて登っているクライマーのライトも見えている。
- 東の空には、木星と金星がギラギラと輝いていた。そして、その南側にはオリオン座が輝いている。いつしか、東の空がうっすらとオレンジ色に染まり始めた。「もうすぐだぞ。」
- そして、5時過ぎのこと、御来光を見ることが出来た。すぐさま反対側に目をやると、予測した通り、雲海に浮かぶ穂高連峰がモルゲンロートに染っていた。勿論、槍ヶ岳もモルゲンロートに染まっている。三重県のお兄さん達は、ペルセウス流星群を見た後、予定通り常念岳に向けて行ってしまった。かーっ、しぶすぎる!代わって京都のおじさんが起き出して写真を撮り始めている。この光景を、この奇跡の光景を、23年ぶりに僕は見ることが出来た。僕は信じられない光景を目の前に、子供のようにはしゃぎまくっている。そんな時、買っばかりのEOS 7を持ってきたという若者に会った。京都のおじさんと僕は同じく今や古臭くなったEOS 5だ。実にうらやましい。「えーい、いっぺん襲って、ガメたろか?」
- やがて、オレンジ色の山々は白く輝き始めた。この時間、分単位で山は姿を変えていく。昨夜は殆ど寝ていないのでかなり眠たい。しかし、せっかくのこの天気を無駄にしたくなかったので、京都のおじさんに声をかけた。「蝶槍に写真を撮りに行こうと思っていますが、一緒に行きませんか?」本当は、一休みしてから行くつもりだったのだが、成り行き上、すぐに行くことになってしまった。
- 天気は良好。梓川の上空を覆っていたガスは、少しづつ上に上がって行き、アクセントをつけるように穂高連峰の中腹にたなびいている。思えば、これは、99年の時見た風景とほぼ同じだ。撮影を繰り返して歩いているうちに、女性2人に会った。彼女等は、かなり不安定なガレた石だらけの小高い場所に腰掛けてコーヒーを作っていた。話しかけたところ、ラッキーにもそのコーヒーをご馳走になった。レギュラーコーヒーなのでとてもうまい。京都のおじさんのコーヒーもうまかったが、これもとてもうまかった。それから、わずかに行ったところに、いわゆる「横尾別れ」があった。横尾へ下るルートだ。ヒュッテからはとても遠い。また、ここから見ても、このルートはガレていて、しかも、かなりの急斜面だ。よくぞ、この道を27.5kgの荷を背負って登ってきたものだ。更に少し行くと、三角点があった。しかし、何度考えてもこれが山頂だとは思えない。「あっ、雷鳥だ!」突然発せられた京都のおじさんの声に振り向いた。気がつくと確かにそこには雷鳥がいた。お母さん雷鳥と、その子供たちだ。慌ててビデオを回す。撮影を終えて歩き出したら、コーヒーをくれた女性2人が先を歩いているのに気がついた。「山頂に雷鳥がいましたよ。」とは言ってみたものの、さすがに彼女らも引き返す元気は無いようだ。残念に思いながら、また歩き出した。「あっ、雷鳥がまたいる!」またも、京都のおじさんの声。何と、またも、お母さんとその子供の雷鳥がいた。女性達は、子供の雷鳥を見て、「かわいい。かわいい。」を連発していた。
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- この雲が良いねぇ。あ、この光景、1999年にも見たぞい。
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- ほれ、これが、1999年の蝶ヶ岳から見た穂高連峰。
- その場所からわずか先に、蝶槍があった。そこで、男女混成のパーティに会った。京都のおじさんは、その女性が結構年に見えたらしく、「お母さんですか?」と聞く。それには、彼女はかなりショックを受けていた。確かにそんな年でないですぞ。ふと気がつくと、男性の中に、朝会ったEOS 7のお兄ちゃんがいた。京都のおじさんは、その彼に、前ピン、後ピンの説明をしていた。
- 蝶槍を後にする頃には、穂高連峰や槍にかかっていたガスが、山頂付近まで上ってきてしまった。写真的には最悪の状態だ。何と、良い天気の時間が短いことか。
- 昨日、あまり寝ていなかった僕は、かなり疲れていた。山頂の標高は2664.3m。何故かキャンプサイト付近の標高は2677mだ。少し登りになる道を歩いていると、すぐに息切れしてしまった。ようやく着いたヒュッテの横には、老夫婦が休んでいた。「今日の御来光を見られましたか?本当にきれいでしたねぇ。」と声をかけた。すると、おじいさんの方が、「いや、たいしたことはなかったですねぇ。私は、もっとすごい風景を見ましたから。」と冷ややかな言葉を返えしてきた。「きっと、穂高連峰か槍の方に登られて、そこからの景色の方がすごかったんだろうね。」などと僕は独り言を言う。と、今度は京都おじさんが、「いや、穂高の景色は、ここからが最高だ。」と言う。おじさんによると、穂高などに登っていると、意外に景色は良くないのだそうだ。
- 結構疲れ果ててキャンプサイトに戻ると、京都のおじさんと、ヒュッテに行ってみた。咽が渇いているし、腹が減っていたのだ。おじさんと同じく800円也のビールジョッキと、おでんを頼んだ。ジョッキは、凍らせてあるらしく、おじさんのジョッキの底からは、氷の塊が落ちてきた。おでんは、ちょっと独特の味だが、味がしみ込んでいてそこそこうまかった。(400円だったかな?)時間がまだ早いので、ヒュッテはガラーンとしていた。そこで、テーブルを占拠して、しばしの極楽を味わった。そうこうしているうちに、早々と登ってきた登山客が数人現れたので、キャンプ場に戻ることにした。
- ビールを飲んだのと、昨晩あまり寝ていなかったので、ひどく眠たくなってきた。だが、興奮していたのか、結局寝ることは出来ない。「くぅー、眠いですぞ。」
- 昼頃だったか、登山標識の横で寝転んでいる青年が目に入ってきた。結構疲れている様子で、長い間ひっくり返ったままだった。「早くテンパる所を確保しておいたほうが良いですよ。すぐに張る場所がなくなりますよ。」と声をかける。京都のおじさんも全く同意見だった。そこで、彼はザックをなどをおいて、2つテントを張る場所を確保した。
- 話を聞くと、数人のパーティで来たのだが、途中から自分だけが先行して登ってきたのだそうだ。それにしては、後続が遅すぎるぞ。僕の頭に、いやな予感が走った。78年には、登山中に完全に身動きできなくなった女性を見つけたが、僕等は死ぬほど疲れていていて、何もすることが出来なかった。僕はそのことをひどく後悔していた。勿論、その女性の仲間達が救助に向かい事無きを得たのだが・・・また、93年にも、辺りが暗くなり始めたにもかかわらず、女の子が2人が歩いていた。出発が遅れたのと、一人がズブの素人なので、ペースが上がらなかったのだと言っていった・・・誰か体調をくずしたり、ケガをしたりしているのではないか、人事ながらひどく心配になってきた。「ちょっと、下まで行ってみますわ。」とりあえずあの御花畑まで行ってみることにした。そこで、待ってみるがなかなか登って来ない。その間、そこで出会った人に声を掛けまくってみた。虫眼鏡で花を拡大してみている、柔道の山口香似の特徴のあるおばちゃんにとしばし立ち話。それでも、パーティは登ってこない。しんどいけど、もっと下まで行ってみるか?と思っていると、そのパーティが登ってきた。「いやー、沢で水を入れようとしたら、すっごく時間がかかちゃいましてねぇ。」何ぢゃあ、心配して損した。話を聞くと、先発で登ったのは、「Aちゃま」というらしい。先程携帯電話で何とか連絡が入ったのだそうだ。
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- Aちゃまご一行。
- 後続のパーティがテントを張り始めたのが、午後2時頃。2時40分頃には結構な量の雨が降ってきた。その後、雨は上がったが、ずっと曇ったままだった。
- 手持ち無沙汰のこともあり、午後5時頃、ビデオカメラを持って、あの窪地へ行ってみた。大好きなチングルマなんぞを撮って早々キャンプ場に戻ってきた。
- 僕のテントの近くには、アベックがテントが張っていた。テントはダンロップのV3と言う商品。名前を聞いていないので、とりあえずV3さんと呼ぶことにした。「いやあ、絶対サンセットを見られますよ。ほら、空が明るいでしょう。あっ、ちょっと青空も見えてきた。太陽は大キレットに沈むんですよ。」自分に言い聞かせるようにV3さんに言った。天気さえ良ければ穂高連峰が見えるはずの稜線で、怖い話もしてあげた。かっかっかっ。
- 何時頃だったか、御花畑で会ったおばちゃんと再会した。おばちゃんは、ヒュッテに泊まっているのだそうだ。案の定、中は超満員で、部屋の隅に場所を確保したものの、トイレにも行けそうにないと嘆いていた。
- 辺りが少し暗くなったころだったが、稜線でAちゃまのパーティとも話をした。その時、こともあろうに、無数の蚊の攻撃にあった。明らかに温暖化していると言わざるを得ない。78年にも、長塀山付近では蚊がずいぶんいたが、刺されることはなかった。しかし、今年は、明らかに刺されているのだ。Aちゃまのパーティの一人の腕に無数の蚊が止まり始めた。まるで、話題の映画のパールハーバーのイメージにそっくりだったので、「おっ、パールハーバーだ。」と言う。すると、ひどく受けた。
- 結局、サンセットは見ることが出来なかった。「あーあ、大嘘つきになってしまいましたねぇ。」とV3さんに謝った。「でも、星空は期待できますからねぇ。もし夜中晴れたら起こしましょうか?」というと、テントに戻った。ラジオを聞きながらボケーとしていた。ヘッドランプをつけていては電池がもったいないので、真っ暗な中、じっとしている。と、テントの外で、「あっ、寝ちゃっているよ。」との声。「えっ?僕のことか?すると、今の声はV3さんか?おーい、僕は起きてるよー!」
- 午前3時過ぎだったか、テントの外を見ると、「がー、晴れてるよ!」早速撮影の機材を取り出した。ペンタ67は、これまであまりにも不調だったので、EOS 5で撮影することに決めていた。最近、フィルムメーカー各社は、色を忠実に再現するとかで、天体に使えるフィルムがすごく少なくなっている。今回は、プロビア400Fというリバーサルを使うこととした。
- あっ、そうだ。とりあえず声をかけてみるか?「V3さーん。起きてますか?」と、「はーい、起きてます。」との返事。絶対寝てると思っていたのでびっくりしてしまった。空は、雲一つない快晴。星は月光に負けることなくギラギラ輝いている。ペルセウス流星群の流星もそこそこ飛んでいる。
- いつしか、Aちゃまのパーティも起きだしてきた。しかし、写真を撮っている場所でライトをつけたり、コーヒーか何かを作るためにストーブをつけてくれるものだから、「こりゃ、かなわん。」とばかりケルンの丘の方に退散した。まあ、天体写真を撮らない人にとっては、その行為は全く自然のことなのでしょうけどね。
- あれっ、京都のおじさんも起きて写真を撮りだしているじゃないか?梓川の上空には昨日ほどではないが、雲海が発生している。穂高連峰の山小屋の灯や、槍ヶ岳の肩の小屋の灯もはっきり見えている。「あっ?槍ヶ岳を登っている人がいるよー。」
- 空が完全に明るくなったころ、穂高や槍の方を見ると、空がパステルカラーというのか、微妙な色に染まり実にきれいだった。
- 午前5時過ぎ、2度目の御来光を拝むことが出来た。しかし、昨日も充分に堪能しているので、多少慣れてしまって感動が薄らいでいる感も否めない。
- 午前6時頃だったか、知りあった人達とアドレスの交換をした。何だ、京都のおじさんは、Wさんって言うんだ。ふーん。V3さんは、YさんとIさんと言う名前で、静岡の富士市から来られたのだそうだ。将来的には結婚をしたいと言われていた。で、Aちゃまは、Aさんといって、横浜から来た人だった。写真を撮ったので後日送ることとした。でも、ビデオ編集の方は、アホほど時間がかかるからなあ。完成を待っていたら、来年になっちまうかなぁ?
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- V3さん達。実に仲が良い。その後結婚され、お子様が出来ている。
- ところで、昨日、「こっつぁんち」に携帯で電話をしてみたが、いっぱいで泊まれないとのこと。そんなこともあり、今日山を下りることとした。Wさんは、午後3時頃に山を下りて横尾に泊まるとのこと。Aちゃまのパーティは、僕と同じく長塀山ルートを下るとのこと。で、V3さんはどうするんだっけ?あれっ?忘れちまったぞい。まあ、年寄りは物忘れが仕事ですぢゃ、許して下され。
- パッキングをしていると、「うへー、エライいっぱい入っとるなぁ。そら重いはずだ。」とWさんが言う。まあ、確かに、普通の人が持ってこない物がずいぶん入ってるからなぁ。それにしても、天気が良くて、良かった、良かった。これが暴風雨だったりすると、まともにパッキングができないからなぁ。
- バタバタしながらも蝶ヶ岳を出発したのが、8時27分のこと。Aちゃまのパーティは先に行ってしまったので、1人だけの下山だ。Wさんからもらったブドウ糖でエネルギーを供給した。更に、Wさんからはアミノバイタルというアミノ酸ももらっていた。
- 「ありゃあ?」何と、あの窪地でAちゃまのパーティは高山植物を撮影していた。しばし、彼らの後をついて歩いた。やっぱり、荷物の大きさが違ううえ、若いので速いわ。途中年配のパーティが降りていたが、先に失礼させてもらった。長塀山近くになって、御花畑の中を歩くこととなった。「あれっ?こんなところ歩いたことないんですけどねぇ。」と、すぐに行き止まりになった。やっぱり、間違いだったんだ。それにしても紛らわしいなあ。
- 長塀山山頂でようやく休憩をとった。山頂を示す板は、かなりの部分がはがれていて、標高が分からなくなっていた。木々も1993年の時より更に成長してしまっているようだ。1978年には、木々の上から穂高連峰や槍が見えていたが、今では全く見えなくなっている。
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- 長塀山山頂。もう、ここから穂高や槍は見られませんねぇ。木々の中に入っていけば少しは見えますけどねぇ。
- ここで何を思ってか、僕は彼らに別れを告げてスパートをかけた。先が長いので、あまり長い時間休みたくなかったことも一つの理由ではあったが。しかし、まるで予想もしていなかったことだが、意外にも速く歩けるのだ。あれほどヒザの調子が不安だったのに、スイスイ歩いている。途中、何度か休んだが、それとて、回数も時間もちょっとだけだった。
- 結構下ったところに、「蝶ヶ岳まで3km」という看板を見つけた。しかし、これは何度見ても絶対におかしい。この速いペースでこれだけ下っているのに、(2時間10分だったかなぁ?)3kmと言うことはないだろう。下りはまだしも、登りでは、「蝶ヶ岳まで3km」と言うこの標識を見てホッとする人も多いのではないだろうか?しかし、実際に歩くと地獄が待っている。あー、くわばら、くわばら。
- 本当に自分でも想像していなかったのだが、歩くペースはあまり落ちずに、かなりのスピードで歩き続けていた。ヒザの調子が悪かったはずじゃないのか?
- ただ、登山の時もそうだったが、今年の登山客は挨拶をしない人がかなりいて、とても残念だった。本当にしんどそうな人には意識して声をかけないようにしている。しかし、そこそこベテランとおぼしき40才前後の男性に挨拶した時のことだ。充分余力があるように見えたこともあり、声をかけたのだが・・・しかし、その人は、だまったまま、こちらをにらみつけるように見上げた。「何だよ、喧嘩でも売るつもりか?」かなり不快な思いをしたが、「しょうがない、この人は所詮この程度の人なのだろう。」と無視して先を急ぐことにした。
- 快調に飛ばしていたが、ゴールが近くなったところで、勾配がきつくなり、ペースが落ちてきた。少しヒザが笑う状態にもなっていた。また、勾配がきついと、僕のザックの大きさでは、バランスをとるのがかなり難しくなるのだ。
- 物音にハッとして、見上げると、「ありゃあ、ついに来ちゃったよ。」自分では思いっきり差をつけたつもりのAちゃまのパーティがそこまで来ていたのだ。万事休す。「さすがに、若いと速いわ。」負け惜しみを言って、道を譲った。それでもあとを必死でついていった。何とかあまり差をつけられずに徳沢にゴール!思ったより体調が良かったので、半ばタイムトライアルをしてしまった感がある。結構疲れた。「あーっ、時間は?・・・えっ?3時間25分?すっげー。」初めて来た1978年の時は、はっきりした下山タイムの記録がないものの、タチゲが体調をくずしたのでかなり時間がかかっていた。93年は、同じくタチゲのペースが遅く、6時間もかかってしまった。それから考えてみても、驚くべきタイムで下って来れたと思う。
- 徳沢では、まず缶ジュースを飲み、それから、売店で、確か400円のソフトクリームを食べた。Aちゃま達のパーティもさすがに疲れているようだった。そののびている姿をパチリ。しかし、ひょうきん者のAちゃまは、ポーズをしている。たいしたもんだ。
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- 徳沢のテン場で疲労困憊で死んでいるパーティ。
- 少し休むと、上高地に向けて歩き出した。何とか、Aちゃま達のパーティに負けじとスピードを出して歩いた。Aちゃま達のパーティは、どうやら2つに別れて歩いているらしい。
- ところで、ここでも、マナーの悪い人がかなり増えていてがっかりした。道いっぱいに横になって歩き。、他の人の邪魔をしている。人が来てもなかなかよけない。また、犬を連れて歩いている人がいたが、本当はこれもいけない。何故ならば、犬はどこでもウンチをしてしまうからだ。小の方は、病気がなければ、腎臓の糸球体で濾過されて、無菌なのだが、ウンチはバクテリアだらけなのだ。このバクテリアで高山植物がやられることもあるのだそうだ。
- 明神では、また缶ジュースを飲んで疲れを癒した。余裕をかまして、ちょっと休んだだけでまたスタートだ。
- Aちゃま達のパーティだが、何でも、バンダナを巻いた男性とその彼女は、小梨平で更にテンパるそうだが、あと人は、風呂に入ってから帰るのだそうだ。本当は、僕も風呂に入りたかったのだが、時間に余裕がない。
- 小梨平のキャンプ場についたのは、徳沢を出発してどれくらい経った頃だろうか?初めは1時間20分と記憶していたが、それは、ちょっと速すぎることから、記憶間違いだったのかも知れない。ともあれ、ザックの大きさから考えれば、相当な速さで歩いたことは確かだ。
- トイレの中で、濡らしたタオルで身体を拭き、服を着替えた。「うへぇ、汗臭ぇい!」それにしても、小梨平のキャンプ場の混雑ぶりといったらなかった。もう殆どテンパる場所がないほどだ。呼吸を調えると、バンダナのアベックに別れを告げてバスターミナルに向かった。
- 河童橋から見る景色は、雲がかかっていて8/10の時と同じだ。壮大な穂高連峰や、焼岳はまたも見ることが出来なかった。
- 「うわー、何じゃこらあ?」バスターミナルが近くなって僕は思わず大声をあげた。とんでもない長い列が出来ている。3列に別れているが、どれもまるで万博を思い出すような行列だ。しかし、ぼやいていても仕方ないので、僕は沢渡方面に行くタクシーの列である、一番左端に並んだ。だが、なかなか前に進まない。疲れてしまったので、ザックを下ろす。すると、今度はほんの少しずつだが、前に進む。その度、ザックをかついで数歩歩く。これが、実にきつい。ある意味、今回の登山の中でもっともしんどいことだったかも知れない。そのうち雷が鳴り始めた。「やばいぞー、このところ大気の状態がかなり不安定だからなぁ。」
- 僕の前後には陽気な関西人のおっちゃんと、その家族、そして、何故だか、愛知県に住んでいるという九州のカップルがいた。その人達とおしゃべりしていることでいくからは気分転換になったが、やはり、かなりしんどい。「はぁー、こんなすごいものかついで、山に登ったんですか?」「いやあ、登っている時より、今が一番きついですわ。はっはっはっ。」僕は苦笑した。
- 実は、この長い行列は、国道158線で、交通事故があったからだということがそのうちに判明した。何でも、3台がからむ大きな事故らしい。そのため、タクシーやバスは何時になったら来るのかまるで分からないと、関係者が説明をしている。
- バスターミナルが目の前に近づいてきた時、クール宅急便の車がやって来た。しかし、その車を無視して自分勝手に歩く人の多いこと。運転手さんはかなり困っている様子だった。「良い年こいて、状況をわきまえろよ。ちょっとは待つことが出来ないのか?」僕は無性に腹が立ってきた。と、僕の近くにいたあの陽気な関西人のおっちゃんが、交通整理をし始めた。「いやあ、こうせんと、僕等も先に進めませんからなぁ。」おっちゃんは、照れ笑いをしながらそう言った。
- ようやく、バスターミナルの建物のヒサシの下に入った時、大雨が降ってきた。「これは、ラッキーだったと言えるんでしょうねぇ。」これほど長い行列が出来てしまったことは、アンラッキー、雨に濡れなかったのはラッキー?ヒサシの外の人を見ると、傘をさしている人が実に多い。「へぇー、ちゃんと傘を用意しているんだ。」しばし感心していると、突然携帯電話に会社から連絡が入ってきた。得意先の対応で困っているのは分かるが、回りがうるさいのと、電波状態がイマイチなので、肝心なところが聞こえない。しかも、列は少しずつ前進していて、落ち着いて話ができない。明日もう一度こちらから連絡を入れることで、とりあえず事態は収集した。「あー、明日会社に出ないといけないかもなぁ。トホホ。」
- それから、どれくらい時間がたったのだろうか、ようやく、本当にようやく、タクシーに乗ることができた。僕は、愛知県の九州のカップルと相乗りすることになった。「あー、ホンマに、疲れた。・・・あっ?えっ?うそぉー。」タクシーの運転手さんを見て本当に驚いた。何と、行きと同じ運転手さんじゃないか?そんなことってあるもんなですねぇ。その確率たるや奇跡に近いんじゃないかな?その運転手のMさんは、初めは僕のことを覚えていなかったが、そのうちに思い出してくれた。
- 「いやあ、この交通事故なんですけどねぇ、壊れた車は、前と後ろが目茶苦茶なんですけどね、相手の車がないんですよ。おかしいんだよなぁ。」Mさんは言う。「でも、3台のからむ玉突き衝突だって聞きましたよ。」「いや、でもねぇ、相手の車がいないんですよ。」
- Mさんは物知りだ。「釜トンネルは人間の手で掘られたものですよ。でも、朝鮮の人を強制労働させて、結構死人もでてますよ。それから、北海道でトンネルの崩落事故があったでしょう。あれから、釜トンネルもコンクリートで補強してるんです。」と話してくれた。また、乗鞍スカイラインは、もとは、第二次世界大戦の時、飛行場を作るために作られた道だったと教えてくれた。だから、戦車も使って作られた道なのだそうだ。勿論、最終目的を果たさずまま終戦を迎えてしまった。更に、この交通渋滞を何とかするために、一時は上高地までケーブルカーをつける話も合ったが、予算がなくてなくなってしまったと教えてくれた。
- 「あっ、交通事故現場だ。・・・うへぇっ、前もぐじゃぐじゃ、後ろもひどいなぁ。」しかし、確かに、玉突き衝突だとすると、壊れ方に多少疑問を抱かざるを得ない。進行方向と逆を向いたまま停まっているしなぁ。すると、Mさんが、現場検証している警察官に窓越しに声をかけた。「単独ですか」「ええ、そうです。」えっ、そうなんだ。Mさんによると、事故直後に見た時既に、相手の車がなかったし、何故かライダーが交通整理をしていたのだそうだ。「はーあ?とすると、もしかしたら、無茶な運転をしてきたライダーを除けようとして、急ハンドルを切って橋の欄干にぶつかり、その反動で、一回転して停まったのかもしれんなぁ。」何にせよ、迷惑千万な話である。また、それまで何事もなく運転していたドライバーは、一瞬にして病院のベットで横になるハメになってしまった。しかし、これは、人事ではないのだ。僕も気をつけなければ。
- 後部座席に乗っていたアベックの男性の方がたばこを吸い出した。と、我慢していたMさんも堰を切ったようにたばこを吸い出した。「いやー、うちの会社は、運転中は禁煙なんです。見つかったら、始末書もんなんですよ。」と話す。しかし、しばらくして、「あっ、しまった。見つかった。今走っていた対向車、うちの会社のタクシーなんです。やばいなぁ。」と頭を抱える。おーい、頑張れ、Mさん。
- そうこうしているうち、梓駐車場に着いた。九州のアベック達は、梓第一駐車所に車を停めていたし、僕の場合も、キーを梓第一駐車所で管理している可能性が高かったので、第一駐車所まで行ってもらった。アベックには挨拶もそこそこに、管理人に車のキーが来ていないか聞いてみた。しかし、第二の方にあるのだそうだ。失敗だ。落胆していると、望月さんがトランクからザックを下ろそうとしくれていた。「ありゃあ、ザックのこと忘れていたよ。」疲れていたこともあって、思わずザックを置いていってしまうところだった。Mさんに丁寧に挨拶をした後、今度は、あのアベックの姿を探したが、既に見えなくなっていた。このアベックのおかげでタクシー代は折半となったので、もう一度きちんとお礼をしておきたかったんだけど・・・
- 梓第二駐車場に着いたが、愛車は最初に駐車したままの状態だった。動かされる心配もしていたんだよな。僕の車は、リモコンキーを操作してロックを外さないと、盗難防止のホーンが鳴るようになっているからねぇ。駐車場には、お母さんと、その幼い子供、そして、おばあちゃんがいた。初めは、「こんな駐車場が目の前にあったら生活しにくいだろうなぁ。」などと思っていたが、実はこの駐車場を管理している人の家族だった。「交通事故の渋滞で大変だったでしょう。」と冷やした桃をくれた。「どうもありがとうございます。」とは言ってみたものの、「皮を捨てるところもないし、手を拭けないしなぁ。」かくして、その桃は助手席にポーンとおいたまま、出発だ。
- 駐車場からは、交通量はかなり多いものの、思っていたほどの大渋滞ではなかった。割とすいすい進める。「九州のアベックは、Mさんにいろいろ聞いて、回り道をするように言っていたが、これなら、このまま長野自動車道に入ったかも知れないな。」「あ、そうだ。お土産を買わんとなぁ。」ふと気がつくと、まだ土産を買っていないことに気がついた。しかし、いつも買っている高速道路の梓サービスエリアに行くには、反対方向に戻って大回りをしないといけない。「くそっ、どっかないかな?」だが、道の反対側には土産物屋さんは結構あるのだが、こちら側にはまるでない。そのうち、ようやく、チンケな?土産物屋さんを見つけて入った。店員の一人はドラえもんのような体格をしている。「痩せないと身体に悪いぞ。」
- 辺りがすっかり暗くなってきた頃、ようやく松本近くまでやって来た。しかし、ここで、雷を伴った大雨が降ってきた。前が異常に見づらい。ワックスがフロントグラスにこびりついているのだろう。ギラギラ乱反射している。しかも、ワイパーもビビッている。
- 「あー、腹が減ったぞー。咽もカラカラだ。」しかし、またも、道のこちら側にはその手の店がない。「いや、そのうちあるよ。」などと思っていたら、いつの間にか、インターチェンジに入ってしまった。ガビーン!ショック!
- 高速道路は、結構な渋滞だ。まあ、それでも、盆休みの真っただ中、もっとひどい渋滞も考えていたから、気分的には少しは楽だ。しかし、雷と大雨の中の運転はひどく疲れる。多少すいていると思われる小さなサービスエリアで、やっとジュースを飲んだ。しかし、大きなサービスエリアには、とても入れないだろうと寄らなかったので、食事は出来ないままだった。時折眠気に襲われる。それでも、緊張感が持続していたのだろう、やばい状態までは陥らなかった。
- 茨木のマンションに戻ってきたのは、翌午前1時過ぎのことだった。やはりとても疲れていた。頭も足もフラフラだ。しかし、そんな中、車から数度に分けて荷物を部屋へと運んだ。この時、ヘルスメーターに乗って体重を計ってみる。体重60.4kg、体脂肪率18.0%。それは、このところの平均的な数値から4kg減だった。まあ、登山直後だし、今日はまるで食事をとっていなかったからねぇ。それから、コンビニに行き、弁当など食料を買ってきた。
- そして、ようやく寝たのが午前3時頃。とにかく疲れましたねぇ。
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- 2001年8月14日(月)
- 目が覚めたのは、8時過ぎだっただろうか。疲れ切った身体を押して、会社に出た。しかし、驚いたことに、もともと非常に硬い筋肉がつきすぎている右太ももが、若干の筋肉痛だったくらいで、あとは殆ど異常がないのだ。今までのひどい時は、2日間はまるで歩けなくなるほどの筋肉痛に襲われていた。それが、「少し痛いかなぁ。」と言った程度なのだ。これは、いったい何が原因なのか?今回の登山では、アミノ酸を多くとっていた。これが、良かったのかも知れない。アミノ酸をとることで、疲労を回復し、断裂した筋繊維を修復してくれるのだ。(アミノバイタル)
- 会社に行って、女の子から昨日の電話の内容を確認した。実は、上高地では、話の内容が今一つ分からなかったが、ちょっと内容を確認したら、その女性が病院に電話を入れてくれる予定だったのだそうだ。完全に僕の勇み足だった。しかし、ここまで来たらやはり直接訪問して説明したほうが良いだろうと、その病院に出かけた。とにかく暑かった。そして、坂道を登るのがしんどかった。
- 仕事を終えて、自宅に戻る時だった。左ヒザの外側に激痛が走った。それは、どんどんひどくなっていき、特に下り坂では、痛みのために飛び跳ねるような状態になってしまった。しかしながら、痛い部分は、ヒザそのものではないようだ。左ヒザの外側の靭帯のようだ。「そう言えば、下山の時、左足首は空手の足刀のような感じで曲がっていたからなぁ。」重いザックをかついで、急斜面を下ると、足首に急激な負荷がかかることがある。こともあろうか、もともと調子が悪かった左ヒザにそれが集中してしまったのだ。「やばい、歩けなくなるかもしれん。」マンションに戻ると、あとはひたすら足を休めることにした。本当は、明日は、会社に出て残った仕事を片づけようかとも考えていたが、そんなことは完璧に中止ぢゃ。歩けなくなったら仕事どころの騒ぎではないぞ。
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- 後記
- 痛めていた左足は、その後、1日半完全に休めたおかげでとりあえず大事には至らなかった。しかし、その後も痛みを始め、力が入らない状態は同じだ。夜などは、灼熱感を伴ったしびれが続いているのだ。暇が出来たら大きな病院で診てもらわなくっちゃ。(ちなみに民間の整体の施設に行ってみましたが、身体がねじれているとのこと。これも不調の原因か?)
- 撮った写真だが、35mm版のネガのものは、すぐに現像プリントがあがったが、67版や、リバーサルは結構時間がかかった。ネガは、やっぱり富士のリアラが一番使いやすいようだ。感度はISO100あり、粒状性も、色の再現性も良い。一方、コニカのイップレッサだが、粒状性は抜群に良いが、色が青が強く出過ぎでちょっと見苦しい。また、ブローニー版でもリアラを多く使ったが、これは、何故か青が強く出るのだ。リバーサルは、プロビア400Fを使ってみたが、これも、青が強く出てしまう。特に天体写真では、使えるフィルムが異常なまでに少なってしまった。ヤレヤレだ。
- 撮った写真は、パソコンにも取り込んだ。35mmの方は、ニコンのLS-2000というフィルムスキャナーで取り込んだ。しかし、ブローニー版は、そのままではどうしようもなかった。そこで、新しくエプソンのGT-8700Fというフラッドベッドスキャナーを購入することとなった。透過式ユニットがついて解像度もリアル1600dpiなのに、3万円以下なのがすごい。これは、すぐに2400dpiの後継機種が出る予定があるからなのだろう。
- ペンタ67は、殆ど経験がない状態で使ったので、失敗も多かった。まず、バルブで撮った時、1コマ以外は、全て駄目だったこと。理由は、調べてみても今のところ判明していない。また、ネガフィルムはISO100ものしか手に入らなかったので、光量が少ない写真は失敗が多かった。ボケ具合が分からなかったので、ちょっと前ピンにしただけのつもりだったのに、思いっきり背景がボケていたり、その逆の場合もあった。次回は、三脚に固定してスローシャッターを切ることにしましょう。
- ザックの重さは、マンションに戻った翌日に、ザックをかついだ時と、何もかついでない時の体重を計り、その差を計算して求めた。その結果、ザックとウエストバック、そしてカメラの重さは26.4kgと算出された。それに、登山中は、水筒に水がいっぱい入っていたし、食料もある程度食べた。それは少なくとも1kg以上はあっただろう。それを加味すると、身に付けていた荷物の総量は27.5kgはあったことになる。いや、そんなことはない、もしかすると28kgを越えていたかも知れない。
- 今回はとにかく人に声をかけようと初めから決めていた。その結果、京都のWさん、横浜のAちゃまのパーティ、富士市のIさん、Yさん達と知りあいになれた。良かった、良かった。
- 思い出をたどった今回の蝶ヶ岳登山だが、思いっきり感傷に浸れたのは、あの梓川河畔を歩いている時だけだったかも知れない。何故なら、当たり前のことだが、やはりタチゲがいなかったからだ。そして、今年の蝶ヶ岳は暖かくて本当におかしかったことも理由の一つなのかも知れない。ハイマツも78年当時から比べるとかなり成長したように思う。そして、今まで殆ど見たことがなかったハイマツの実をついばむ数多くのホシガラス。更には、始めて体験するキャンプサイトでの無数の蚊の攻撃。自然は目に見えておかしくなっていた。そして、人の心も目に見えておかしくなっていた。
- 2001年9月11日、テレビを見ていると突然ニュース速報に変わった。アメリカ同時多発テロの映像だった。民間機を乗とった犯人は、乗客を乗せたまま、世界貿易センタービルに突っ込んだ。その後、もう一機が突っ込んだ。そして、ペンタゴンにも他の民間機が突っ込み、炎上した。ホワイトハウスを狙った4機目は、乗客と格闘したらしく、途中で墜落した。貿易センタービルは、その後わずかの時間に2棟とも全壊した。六千人以上の人が亡くなったらしい。そして、首謀者と思われる、ウサマ・ビンラディンに向けて報復活動が始まりつつある。世界大戦の匂いがじわじわしてくる。世の中に悪魔が降りつつある。ノストラダムスの大予言は、ある意味当たっていたのかも知れない。地球は病みに病み、明らかに異常気象や、汚染が進んでいる。人々の心は荒み果て、人の迷惑などまるで意に介さない人が極端に増え、殺人事件は1日何件も起こっている。いよいよ、地球はお終いなのかも知れない。いや、もうお終いにすべきなのかも知れない。
- 本当におかしくなってしまった地球を思いつつ、ここで5度目の蝶ヶ岳登山記録の筆を置く。といっても、ワープロだから、「筆」はないか?・・・(2001年10月21日、パワーマックG4(350MHz AGP)にて作成。ワープロソフトは、EGWORD11使用。最終的には、2002年6月19日、パワーマックG4・クイックシルバー933MHz、EGWORD12(OS X用)で修正を行った。)現在はMacPro( 2.4GHz 6コアIntel Xeonプロセッサ2基(12コア)にて編集。
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- ちなみに、この登山の記録は、Final Cut Proというアップル社のビデオ編集ソフトを使ってDVDに残すことが出来ました。しかし、その完成までには、数百時間、否、1.000時間くらいかかったのではないでしょうか。途中まで作っては「いや、これはおかしい。初めからやり直しだ。」の繰り返しでしたから。しかも、ナレーションの入力の仕方がイマイチ分からず、Macに付属していたちんけなマイクを使いましたから、ノイズなどが結構入りました。「映画監督のすごさが分かる。」そんな経験でした。結局オーサリングなしで、淡々と流すDVDになってしまいました。
- このFinal Cut Proですが、現在はX(テン)というバージョンになりました。しかし、これはいただけない。改悪といって良いと思います。頭にくることに、ビデオ編集、DVDオーサリング、モーションソフトなどを統合したソフト、Final Cut Studioは、現在発売しているMacには使えません。これって、どうゆうこと????こんな高額なソフトを使い続けてきたのに、これはないでしょう。アップル社さん、エエ加減にしちくりー。
- 更に、アップル社はブルーレイは絶対採用しないらしいので、これからは大変です。ウィンドウズのソフトを使ってオーサリングなどをしないといけなくなるでしょうねぇ。(既に購入。)
横尾近く?から屏風岩を見る。
雲海と穂高連峰、槍ヶ岳、そしてアブ衛門。
明るいのは金星と木星だ。
この雲も良いねぇ。何かCGみたいにも見えますねぇ。
雲海に浮かぶ穂高連峰。良いねぇ。
コニカのインプレッサというフィルムで撮った。粒状性はとても良いが、発色がねぇ。(指定の現像液を使っていたら違う結果も・・・)