「貧相アブ衛門」は本名ではない。当たり前。私は単なるアホである。
(2007年の蝶ヶ岳とTOA130Sと3Dソフトでの架空の女性の合成。アダムスキー型円盤もShadeというソフトで作成)


  • かなりいい加減なHP。随時手直しします。


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  • 1998年燕岳登山
  • 1998年 燕 岳 登 山 記 録
  • あこがれのコマクサに会いたい

 
実際に撮ったコマクサ

  •  コマクサ、それは、山を愛するする者ならば、誰しも憧れる可憐な高山植物だ。
  •  思えば、僕がその花にあこがれを抱いたのは、初めての北アルプス登山を行った1978年のことだった。
  •  登山のガイドブックにはコマクサは、「高山植物の女王」と紹介されていた。漢字で書くと「駒草」となり、その形が馬の横顔に似ていることからつけられた名前だ。しかし、そんな名前の由来からは想像もつかないほどの可憐さがあった。何故か、高校生の時、憧れていた一つ下の後輩のYさんにイメージがだぶった。受験勉強に集中しようとして、本気で好きになった「T」のことを忘れようと、Yさんに興味を持ったふりをしていた。しかし、それが、いつの間にか本気で憧れるようになってしまった。彼女は、色が白く、まるでお人形さんのような娘だった。

 

  • これがYさんですよ。色が白くてお人形さんみたいな娘でした。松江市には彼女のような色白の人が結構いましたねぇ。

  •  また、その頃、(もしかしたら、もっと前の中学時代かも)夢の中で自宅の裏庭に、とても色が白く、とても可憐な妖精が現れた。その妖精とコマクサのイメージがとても似ていた。夢の中で、その妖精が僕に何かを言おうとしていたのだが、どんなに思い出そうとしても思い出せないでいる。何かの忠告のような気もして、未だに気になって仕方ない。
  •  だが、本物のコマクサには出会うことは容易ではなかった。その昔は、アルプスの山々のいたるところで見られたとのことだが、薬になるということで乱獲されてしまった。また、その可憐さ故、採って帰る不届き者もいた。その結果、コマクサは極一部でしか見ることができない、希少価値の花となってしまった。その「極一部の場所」というのが、常念岳とか、大天井岳とか、今回登山を考えている燕岳などだ。
  •  97年に一人で北アルプスを登ることを考えた時、当初は燕岳を第一候補にしていた。しかし、麓のキャンプ場まで来た時、燕岳の登山道入り口には、車では行けないという情報が入った。その結果、急遽、燕岳登山をあきらめて、3度目の蝶ヶ岳登山を敢行することになった。しかし、後日、その情報は間違いであることが分かったのだが・・・
  •  また、燕岳は、風化花崗岩の奇岩があることでも有名だ。唖然としてしまうその不思議な奇岩の群れ。いつかは、その奇岩と星空を一緒に撮ってみたいと思いをはせていた。
  •  1998年5月7日
  •  今日、ようやく届いた社用車で仕事に行こうとすると、偶然にもアウトドア用品店の「コージツ」を見つけた。そして、仕事の帰り、何故か道を間違えると、その「コージツ」の前に出てしまった。「こりゃ、ここへ寄れという神のお告げだなあ。」と勝手な理由をつけて寄ってみた。「ありゃ、テントがそこそこ置いてあるじゃないの?」去年、さんざん探したのに、結局まともな店を見つけられず、買いそこねてしまっていた。そんなこともあって、衝動買いをするハメになってしまった。最初は、1人用を買おうと思ったのだが、2〜3人用でも、わずか250gしか重くないので、2〜3人用を買った。「えーっと、メーカーはとっ?・・・ありゃあ、アライ???おい、おい、ヘルメットか?」36.960円の出費。痛いのお。(後で知ったのだが、アウトドア用品のカタログにも、アライのテントは載っていた。ちゃんとしたメーカーのようだ。いい加減きわまりない私は、アライという有名メーカーすら知らなかったのだ。

  •  1998年5月10日
  •  なんと、何を思ってか、5/9に鳥取県の烏ヶ山(からすがせん)に登ってきた。その登山タイムは、現状の体力としては、まあまあの1時間15分。しかし、「蝶ヶ岳讃歌」の中に書いてある、初めての烏ヶ山登山時のタイムは、“1時間足らず”となっている。うーむ、もしこれが本当ならば、大変な老化だな。下山タイムは、1時間3分と平均的なものだった。だが、完全に膝にきてしまった。しかも、翌5/10は完全に筋肉痛になってしまった。「うーむ、良い教訓になりましたぞ。」足の衰えが予想以上だったことも分ったし、本番の燕岳登山の1週間くらい前には、もう一度大山辺りの登山をして、足に負荷をかけておくことが必要だとだと考える。また、烏ヶ山のように急斜面の多い所では、クライミングスラックスは、汗でくっついて大変な体力の浪費になる。また、急斜面では迷わず3点支持を使った方が良い。その方が、安全で且つ時間が短縮できると思われる。
  • 烏ヶ山山頂を望む。思えばこの山の登山が、あの78年の蝶ヶ岳登山の大きなきっかけとなったんだよね。

  •  1998年6月2日
  •  中国地方は、平年より6日も早く梅雨入りした。今年の春は、ここ100年でもっとも暑い春だった。やはり、このおかしな天候は、エルニーニョ現象のせいだろうか?しかし、ニュースでは、エルニーニョは既に収束に向かっていると言っている。果たして、今年の夏は冷夏か?ふつうの夏なのか?はたまた、猛暑になるのか?とにかく、燕岳に登る時だけでも、好天であって欲しい。1993年の、あの奇跡の夏のように。

  •  1998年6月15日
  •  体力の衰えをひどく感じてしまったので、今日から運動を再開することにした。約9分間のランニング。そして、ダンベル、スプリングによる筋トレを行った。

  •  1998年6月16日
  •  昨日の筋トレのせいか、それとも、ここ2週間以上続いている体調不良のせいか、今日はものすごく身体がだるくなってしまった。座っていることすら、しんどいのだ。おまけに、なんだか呼吸も苦しいのだ。やはり年なのだろうか?

  •  1998年6月22日
  •  先週の土曜日にT大学附属病院のウェットラボで出勤したので、今日は、振替休日だ。身体がとても疲れていたのか、本当に久しぶりに、昼前まで寝ていた。というより、眠ることができたというのが、正しい表現だろう。このところ、睡眠時間が充分でなかったうえ、熟睡できた記憶がないほどだったからだ。
  •  話は変わるが、T大学のウェットラボの際に、運動量が少ないのに、アホほど食べてしまった。特に、残り物の寿司を無理して食べたのが、良くなかった。腹がボーンとでてしまった。実にまずい。これでは、今持っているズボンもはけなくなるのでは?それに、完全なオヤジ体型になっていくかもしれない。おーこわっ。今日から食事量を制限して、運動も再開しましょうね。

  •  1998年6月25日
  •  本日大変なことが起こってしまった。本当に実に大変なことが起こったのだ。
  •  この日、Y大学のウェットラボの手伝いをしていた。そして、夜9時20分頃、狭山にある“和食のさと”に食事をとるべく入った。かなりの雨が降ってきていた。店に入る直前で、車にバッシャとモロにはねをあげられた。ズボンはびっしゃり濡れてしまった。思えば、これがケチのつき始めだったのかも知れない。
  •  午後10時頃、食事を終えて車に戻った。雨は依然として降っていた。「あれぇ、ロックがあいている。ロックし忘れたなぁ?」との声に、「いやぁ、きちんとしたはずですよ。」と私。「ん?なんだ?ガラスの破片が座席に散乱しているぞ。」この時、初めて車上荒らしにあったことが分かって、Y課長、T君、僕の3人はただ呆然と立ちつくした。僕は、カードやキー、免許証などに加えて、出張道具一式をカバンごと盗られた。他の2人もカバンを盗られた。特にT君はたまたま持ってきていた実印まで盗られた。警察に来てもらい、その後狭山南交番で盗難届を出した。ホテルに戻ったのは、午前1時。昨日も寝不足でかなり眠たい。「くそー。」ただただ頭にくるぞ。「くそー。」

  •  1998年6月26日
  •  朝6時5分の新幹線に乗って自宅に戻った。K大のウェットラボの2日目の手伝いはキャンセルさせてもらった。
  •  盗まれたカバンには、名刺や手帳、そして、自宅のキーや車のキーも入っていたので、自宅での2次盗難を恐れて、あわてて自宅に戻ったわけだ。この日、自宅のキーはすぐ交換した。クレジットカード、キャッシュカードはすべてストップさせた。免許証は再交付した。いろんなところへ電話をした。2時間少々しか寝ていないので、身体はだるくて、頭はボーとしていた。とにかく疲れ果ててた。この手間は耐え難いものであった。また、この盗難で、最終的には10万円以上の出費となるであろう。金銭的にも大変な痛手だ。おまけに、免許センターやOY警察の対応の横柄さには、感情を逆撫でされる思いだった。関係ないかもしれないが、ワールドカップで、日本はジャマイカにも負けて1勝もあげられず惨憺たる結果に終わった。本当にすべてが最悪の日だった。

  •  1998年6月28日
  •  午前中は結構いい天気だったが、午後からは強く雨が降ってきた。梅雨も本番だからね。しゃあないわな。
  •  今年の梅雨はごく普通の梅雨なのだろうか?しとしとと小雨が降ることも多いが、そうでなく、晴れ間の見える日もそこそこある。
  •  そういえば、梅雨入りしたばかりの頃に、空を見ると、薄いのやら、濃いのやら、適当に墨を筆につけて、ぺたぺた塗ったような雲が空全面を覆っていたことを思い出した。その時、なぜか、僕は大学1年の時の梅雨空を思い出していた。特に感動するわけでもなく、特に悲しいわけでもなく、18歳の僕は、ただ田んぼに降りしきる雨を見ていた。佐世保では、何故かそこいらじゅうの低い山にも、雲がたれこめていた。それは、海に近いためだろうか。松江にいた頃にはそんな光景を見たことがなかった。
  •  ところで、今日、ホームセンターの「タイム」に行ってみたら、浄水器が置いてあった。高松時代に購入したアルカリイオン浄水器は、今の水道の蛇口に合うアタッチメントを無くしたので、悪戦苦闘してみたものの、結局は取り付けられないので、ほこりをかぶったままだった。「マンションの水はまずいし、なんか汚いしなぁ・・・いっちょ買っておきますか?」てな訳で、東レの浄水器を買って帰った。「待てよ、この浄水器についているこのアタッチメントって、もしかしたらアルカリイオン浄水器の方にも使えるんじゃないか?」「ありゃあ、付くじゃないの?」かくして、買ってきた東レの浄水器は使わないまま、アルカリイオン浄水器の復活をみることになった。思い起こせば、93年に行った2度目の蝶ヶ岳の前に、僕はこのアルカリイオン浄水器を買ったんだ。それは疲れやすい身体を何とかしたかったからだった。
  •  この日から、アルコール類を摂取することを控えることにした。贅肉をいくらかでも落とすこともできるだろうからね。

  •  1998年7月3日
  •  昨日から大阪に来ている。昨日はME関西の販売会議と、新たにIOLを販売する業務に就いた者のために、ウェットラボを行った。そして、今日は、O大学附属病院のウェットラボの手伝いだ。ここは機材が3台セットのため、大変疲れてしまう。
  •  部屋の中にずっといたので、しばらくは気づかなかったが、外は実に良い天気だった。雲一つなく、すさまじい太陽の照りつけで、くらくらするほどだった。「待てよ、まだ梅雨明け宣言は出てないよな。でも、この天気なら出してもいいよな。」

  •  1998年7月4日
  •  ようやくO大学のウェットラボが終わった。2日間立ちっぱなしだったことや、くそ重い機材を運んだことで、左足がとても痛くなった。軽い肉離れではないかと思うほど調子がおかしい。おまけに身体も極限まで疲れ果ててしまった。
  •  いつものことだが、岡山駅からの連絡が悪かったので、半ばヤケクソでタクシーを拾った。本屋に寄った後、歩いて家路に向かっていると、思わず声を上げてしまった。「あっ、北斗七星だ。」しばらくして、その驚きはさらに高まった。「この北斗七星、あの時、徳沢の梓川河畔で、穂高の上に輝いていた北斗七星と同じだ。」僕はふと20歳の夏の日を思い出していた。タチゲと2人、明神、前穂の上に輝く北斗七星を見ていた。その時タチゲは、「北斗七星が描く巨大なスプーンが、まるで穂高の大きなかき氷を、すくっているようだ。」と言っていた。この北斗はまさにその時と同じものだった。感傷にふけっていると、更に、中学時代の思い出が甦ってきた。あの頃、僕の一番好きな星は、北斗七星だった。季節ごとに傾いていく北斗七星に、僕は人の一生を重ね合わせ、とても悲しい気持ちになっていたよね・・・

  •  1998年7月7日
  •  O大学のウェットラボで、公休日の土曜日に出勤したので、今日は振替休日とした。といっても、普段通りに出勤したのだが・・・
  •  ところで、事実上梅雨明けしたと思われる今日、雲がかかっていたものの、本当に珍しく新暦の七夕に星空を見ることができた。私の頭は、既に多少モウロクはしかかっているが、今まで7月7日に星空を見た記憶はない。たぶん・・・
  •  実は、今日はいろいろな出来事がある日だった。午後7時前だったか、珍しく電話がかかってきた。どうせ、どっかのセールスかなんかだろう、と思って受話器をとると「アドビシステムです。」とな。会社にフォトショップ5.0Jのアップグレード版を届けてくるように依頼していたのだが、何と、その会社の住所を書き忘れていたらしい。だめだ、こりゃ。頭がプリオンで一杯。私は、ヤコブ病です、はい。
  •  また、ここ数日、ニコンのフィルムスキャナーLS-2000で、以前の蝶ヶ岳登山の写真をスキャンし直していたのだが、ようやく今日ほぼ完了して、CD-Rに焼き付けることができた。マルチサンプリング機能とイメージフィックス機能を使ってスキャンして、自動レベル補正やコントラストやシャープさを調整したので、思ったよりはるかに時間がかかった。もっとも、イメージフィックス機能のおかげで、今までのスキャナーよりは比べようもなく早く完了したと思われるのだが・・・

  •  1998年7月10日・11日
  •  K医科大学のウェットラボの応援のため高松に行って来た。結構な雨が降っていた。岡山県北部には大雨注意報すら出ていた。一時のあのクソ暑さはいったいどこへ行ったのだろう。それにしても、気象庁は偉い。四国までは梅雨明け宣言が出されているが、岡山はまだだ。それで良かったのだ。前線はまた南下してきているのだ。
  •  1998年7月13日
  •  どうしたことか、フォトショップ5.0Jが今日になっても届かない。パソコンショップの店頭にはもう並んでいるというのにだ。代わりにといっては何だが、「マラソン」というゲームソフトと「ブレードプロ」というロゴを作るソフトを買ってきてしまいましたぞ。アホー!
  •  それから、分かっていることではあったが、マッキントッシュMT-300がなかなか届かないのがこれほどつらいとは・・・よく考えたら、パソコンは3ヶ月経つと結構安くなる。だから、今までなら、新製品が出てもすぐ飛びつかず最低3ヶ月以上待っていた。しかし、今回はまさに血迷ってしまっていた。5月下旬に新発売のアナウンスがあって、7月7日に発注。1ヶ月と少々の我慢しかできなかったわけですな。まぁ、最近の僕ちんって短気なだわね。

  •  1998年7月16日
  •  ようやくのことで、フォトショップ5.0Jが届いた。もう少し遅ければ、確認の電話を入れるところだった。セーフ、セーフ。
  •  うーむ、ヒストリーパレットはなかなか良いですぞ。雑誌に紹介されているのを見た時は、「確かにあれば便利な機能だろうけどねぇ。」てなぐらいにしか思っていなかった。しかし、実際に使ってみるとこれは「チョー、便利でおますぜ、だんな。」それにひきかえ、12bitが扱えるという点に関しては、期待はずれじゃー。8bitに変換しないとフィルターは使えないし、レイヤーも使えない。これでは、12bitのメリットがない。まぁ、しかし、ものは考えようで、容量を喰わないで済むから良いとしよう。そうだ、これで良いのだ。ボンボン、バカボン、バカボンボン♪
  •  よーく考えてみると、フォトショップは、93年の冬から、バージョンは2.5J?(もっと古いジャージョンだったような気もするが。)の時から使用しているのだが、未だ、アルファーチャネルなど、ほとんど使ったことがない機能があることに気が付いた。レイヤーについても、かなり時間がたってから使えるようになった。思えば、購入したソフトは数知れず、その全機能をマスターするには、私のオツムでは時間が足りなすぎるのだ。

  •  1998年7月18日
  •  30歳代最後の日、私は日頃の疲れからバテバテの日を送った。天気は、快晴。紫外線が見えるような、陽射しのきつい日だ。だが、梅雨は明けていない。明日からはまた雨になるのだそうだ。
  •  今日、何となく、Power Macintosh MT300が届くような気がしていた。しかし、来ませんぞ、だんな。少々待ってみた後、盗難にあって再発行をお願いしていた「デオデオカード」と「中国銀行のキャッシュカード」を郵便局に取りに行った。キャッシュカードがないのは大変不便だったので、嬉しいことには違いないのだが・・・ 結局、この日は恋しいマシンは届くことはなかった。あーん、MT300ちゃん、何で来ないの!
  •  ところで、先日、神戸営業所のT氏と電話で話す機会があった。その時、MT300が販売中止なったという話を聞いた。「えーっ?マジ?」と思ってみたものの、何とか平静を装っていた。昨日マックファンやマックピープルを買ったが、特にそんな記事は書いてない。そこで、インターネットで通販のサイトを見てみた。「ありゃ、グラフィックスコンフィギュレーションの方は、“突然完売”とか書いてあるぞ。やはり、PCIバスが3つとも埋まっていたのがまずかったのかなぁ?」
  •  それにしても、ここ数年、僕は人との関わり合いが少ない生活を送っている。唯一、深いつき合いをしてくれていたT氏とも、96年の夏を最後にどこかに行くということはなくなった。体力的に自信をなくしている彼を登山に誘うことはほとんど不可能になっていた。
  •  星空を見るにつけ、僕は、鏡ヶ成のキャンプ場の汚い炊事場で、みんなで食事を作っているシーンを思い出していた。
  •  夜食のにぎりめしを作りながら、観測を待っていた。あたりが暗くなって星達がギラギラと輝き始めている。下界では見たこともない恐ろしいほどの星の輝き。僕らは子供のようにはしゃぎ回っている。そこには、ラリがいる。グビタがいる。ボーゲがいる。マサイ氏がいる。そして、タチゲがいる。そんな時、突然流れ星が流れた。あり得るはずもないのに、その流星に照らされて、あいつ達の顔がはっきり見えたような気がした。そして、その顔はみんなとても無邪気な表情をしていた・・・
  •  あーあ、タチゲ、君は明神と前穂の上に輝く北斗七星をもう一度見てみたいと思わないのか?手を伸ばせば届くと思うほど、近くで輝いていた蝶ヶ岳からのカシオペアをもう一度見てみたいと思わないのかい?テントの臭いが懐かしくはないかい。

  •  1998年7月19日
  •  40歳の誕生日は雨の朝だった。全英オープンゴルフを朝4時まで見ていて、且つ、8時に目が覚めたので、結構身体がだるく、そして眠たい。天気予報では雨が降るであろうとは聞いていたが、せいぜい小雨がよいところだろうと思っていた。しかし、結構降っている。
  •  何となく、この3連休の間にMT300が届くような気がしていた。しかし、10時になっても届かない。12時になっても届かない。「やっぱ、今日はだめだな。」
  •  
  •  諦めて、伸びてきて少々うっとうしくなってきた髪を切りに、近くの安い散髪屋に行って来た。ひげを剃られる時に、顎を切られるし、めっぽう荒っぽい扱いをされるし、おまけに、とんでもない髪型にされた帰ってきた。とりあえずシャンプーしましょうね。そんでもって、今までの髪型に戻しましょう。濡れた髪を乾かしていると、「ピンポーン」とインターホーンが鳴った。「えっ?来たのか?」いや、本当に来ましたのです。MT300スタンダードコンフィギュレーションちゃんが。搭載メモリー320MBのマシンが。(時代ですなぁ。今じゃ、私のメインパソコンは32GBのメモリとなっています。)僕は、喜びのあまり、思わずシャドウボクシングをしてしまった。昨日見たK-1グランプリの影響もあるのかな。影響されやすい性格なんだわ、僕ちんて。
  •  ふと考えたら、天気が良ければこの連休は、天体写真を撮りに行くか、あるいは、登山に行っているはずだった。燕岳登山の本番前には一回は大山辺りを登り、身体に登山のしんどさを思い起こさせる必要があると考えていた。天体写真はいつでも撮れるが、登山の予行演習は絶対しておく必要があるのだ。しかし、この強い雨では如何ともしようがない。明日天気が良ければ大山に行ってみようか?

  •  1998年7月20日
  •  全英オープンゴルフ何ぞを見ていたら、朝の5時まで起きていた。ありゃありゃ。それでも8時過ぎに目が覚めるものだから、今日も、身体がだるくて、とっても眠い。しかし、幸か不幸か天気は回復していない。「まっ、やめ、やめ。」かくして大山行きは中止となってしまった。

  •  1998年7月21日
  •  相変わらず天気はかんばしくない。広島営業所にいるO氏に電話をかけた際、緑井はものすごい雨で、道が川になっていたとの話を聞いた。大阪毎日放送の天気予報では、「93年の、いつ梅雨が明けたか分からなかった年は例外として、7月28日が過去梅雨明けの一番遅い年だった。しかし、今年はその記録を更新するかもしれない。」と言っている。「7月初めの、あのクソ暑い天気はいったい何だったんだー!」

  •  1998年7月26日
  •  まだ、梅雨は明けない。結局は雨は降らずじまいだったが、予報では大雨の可能性もあったので、予定していた大山登山をまたもあきらめてしまった。
  •  O大学のウェットラボの際に痛めた左足太股は、未だに完治していない。また、肺の調子もおかしく、呼吸が苦しかったり、咳き込んだりしている。
  •  また、今日は眼鏡を買いに行った。度が少々弱いながらも、そこそこ調子よく使っていた眼鏡を、あの盗難事件でなくしたからだ。今残っているものは、K眼科に併設されている眼鏡屋さんで購入したものだ。しかし、こいつは、無理を言ってかなりきつく合わせてもらったせいで、かけるとクラクラして気分が悪くなる代物だった。コンタクトはずして楽な気持ちでかけるはずの眼鏡なのに、気分が悪くなってはどうしょうもないと思ったのだ。それにしても、3万円弱の出費、痛いのぉ。実に痛い。

  •  1998年7月28日
  •  瀬戸町にあるN病院でウェットラボを行った。ここは、T大学の派遣病院で、N先生が勤務されている。しかし、1台セットといえ、一人で運送し、セットするのは実に大変なことである。恐ろしいほど汗をかいたうえ、O大学のウェットラボで痛めていた左足の太ももを更に痛めてしまった。とにかく力が入らないのだ。
  •  ところで、昼間、見る見るうちに快晴になり、死ぬほど暑くなった。「やった、とうとう梅雨明けだぁ。」と思っていたら、夜になったらまた曇っていた。いつになったら、梅雨は明けるんだ。

  •  1998年7月31日
  •  今日は仕事で、島根県の仁多町や出雲、そして、松江の方へ出かけていた。久しぶりに結構いい天気になってきた。と、ラジオから「気象庁は、本日中国地方は梅雨が明けたと思われると発表しました。」というニュースが流れてきた。例年より12日遅く、あの梅雨明けが特定できなかった93年を除くと、2番目に遅い梅雨明けだったらしい。といっても、一番遅かったのは僕が生まれる前の話なのだが。
  •  ところで、仕事の帰りに高速道路を走っていると、危うく大事故に巻き込まれそうになった。片道1車線の脇にある、わずかのスペースに停まっていた車が、ウィンカーは出していたものの、目の前で本線に入ろうとしたのだ。急ブレーキを踏み、クラクションを鳴らしまくったので、その車は本線に出る寸前で止まった。しかし、こっちは半ロック状態になって車が振られた。もう少しでもブレーキを強く踏んでいたらどうなっていたか分からない。とにかくとんでもない人だ。こんなところで、車を停めるのだけでも信じられない行為なのに、後方を確認もせずに発車させるとは、殺人未遂行為にも等しい。以前住んでいたエリアで味わった、怒りや人間不信と言う感情が、まざまざとよみがえってきた。ノストラダムスの大予言で、1999年に恐怖の大王が降ってくるというのがあるが、これは、環境破壊もさることながら、人間の思考が破壊されることを言っているのではないかと思えてしまう。とにかく、最近は、何をどう考えたら、そんなことが平然とできるのかと、首を傾げる人が実に多くなってきているのだ。ガオー、どないなってるん、この世の中?

  •  1998年8月1日
  •  ふと気がつくと、もう8月になっている。実に早い。子供の頃の時の流れとは、明らかにそのスピードが違っている。
  •  昨日、梅雨明けしたのだが、明けたとたんに妙な天気になってしまった。今雨は降っていないものの、いつ土砂降りになってもおかしくない様相だ。気温は相当に上がっているので、実に蒸し暑い。
  •  当初の予定では、今日から鏡ヶ成にテンパり、大山を登山するつもりでいた。しかし、梅雨明け直後で、しかも、夏休み中ということで、テント持ち込みでは、泊まれない可能性が高いのではないだろうか。また、身体が疲れているので無理はしたくないという、毎回の同じような言い訳めいた理由で断念してしまった。おーい、実に優柔不断だぞ!
  •  その代わりと言っては何だが、頼んでおいた眼鏡をとりに行った。クラクラする前の眼鏡をかけて少々離れた眼鏡屋さんまで出かけるため、車やバイクでは危ないと判断して、歩いて行くことにした。しかし、痛めている左足の調子はますます悪くなっている。力が入らないし、時より結構な痛みが走るようになってしまった。こんな調子で燕岳に登れるのだろうか?練習のため大山に登るなどというのは、馬鹿げた行為なのだろうか?

  •  1998年8月2日
  •  やはり、無理をしてでも燕岳登山の予行演習をしておくべきだと、鏡ヶ成に向かった。少々寝不足気味だが、あまり贅沢は言ってられない。天気は、途中までは晴れ間もあったが、鏡ヶ成に着いた時には、ほとんどベタ曇りになっていた。
  •  「よっしゃぁ!」と気合いを入れて烏ヶ山に登り始めたのが、正午ジャストだ。曇っていて気温が低いので結構調子よく登れる。痛めている左足は、時より痛みが走るし、力が入らないが、意外にも、思ったほどは気にならない。
  •  最初は快調だったが、勾配がきつくなり始めると、足が動かなくなってきた。それよりも、もっと深刻な問題が起こってきた。肺の辺りが苦しいのだ。あるいは横隔膜の辺りだろうか?呼吸がしにくい。ここ数ヶ月に渡って呼吸が苦しかったので、「俺、気胸になっちまったのかな?」と、会社の人間に漏らしていたぐらいだった。しかし、登山ではその苦しさは更に倍加した。
  •  今回の登山では、前回5月の時のタイム、1時間15分を切ること、否、できることなら1時間以内で登ることを目標にしていた。しかし、その目標達成は無理かもしれない。身体のだるさの方は、予想より少ないのに、呼吸が苦しいのだ。足の動きもずいぶん悪くなってきていた。
  •  「あっ、最初のピークが見えてきたぞ。」この時、すでに45分が過ぎていた。やっぱり1時間以内の登山は無理か?それでも、何とかできるかもしれないと、最後のあがきをする。と、何やら大勢の声がしてきた。何だろうと思っていると、お隣にある山頂のピークの、あの一枚岩を相当な人数がちょうど下っているのだ。「だめだ。もう1時間以内に登るには、後2〜3分程度しか残っていないんだよ。」かくして、その20人もの団体さんが下るを待ってから、最後のピークを登った。そして、ようやく登頂。落胆しながら時計を見ると、「ありゃ、1時間6分かよ?じゃあ、あの待ち時間がなければ、ほぼ1時間で登ったことになるなぁ。」
  •  下山途中、その団体さんに話しかけてみた。O理科大とか言っていたが、どうも顔が大学生には見えない。恐らくO理科大学附属高校じゃないのかな。今日は鏡ヶ成で泊まると言っていたので、ここでは幽霊が出たことがあるとか、UFOがよく出るとか余計なことまで教えてあげた。
  •  登山道入り口近くまで下ってきた時、雨が降ってきた。下山時間は登りと同じで、ほぼ1時間。膝が笑っているわい。年だね。キャンプ場には、人はまばらにしかいなかった。なんだ、人がいっぱいで泊まれないと思っていたのにぁ・・・炊事場の水道で汚れた手とタオルを洗った。そして、自販機へ。コカコーラを飲んだ。のどが渇きすぎていたので、初めはのどを通りにくかったけど、実においしかったですぞ。
  •  雨は大降りになってきていた。車の近くで汗でグチョグチョになった服を着替えた。気温が低いのに恐ろしいほどの汗の量。燕岳の登山の時にはもっと汗をかくだろうから、登山中の服装や、着替えなんぞも再度検討した方がいいかな。
  •  天気はすぐに回復し始めた。どうやら通り雨だったらしい。それにしても、ここ鏡ヶ成には想い出がありすぎる。初めて来たのは、高校1年の時。あれ以来何度ここへ足を運んだのだろう。今じゃ、キャンプ場は整備され、アスファルトの道路まである。炊事場も立派なものになってしまった。木造で今にも崩れかけそうだった鏡ヶ成橋も、コンクリート製のものになった。黒い土のせいで、すぐに真っ黒けになってしまった草原は、土が入れ替えられ芝生が植えられた。あの時、みんなで記念写真を撮ったトーテンポールも今はない。何よりも、かつて神戸大学天文研をして、「恐怖心すら覚える異様な星空」とまで言わしめた一級品の星空は、常時輝く水銀灯のせいで今では存在しないのだ。本当にいろいろなものが変わってしまった。しかし、それでも僕にとって、ここは心のふるさとなのだ。そして、あの頃の“T”や“S子ちゃん”がいつまでも僕を待ってくれる場所なのだ。青春のかけらが、至る所に落ちている場所なのだ。
  •  帰りは、高速代がもったいなかったので、国道180号線を走った。新見の、いつもの大華楼という中華料理屋で飯を食った。この時、左足が結構痛くなっているのに気がついた。「やっぱりな。」しかし、これで良いのだ。本番でこの状態が初め起こってはまずいのだ。確かに練習をしておいても痛くなるかもしれない。しかし、こうして予行演習をしておけば、大きなトラブルには至らないですむのだ。
  •  ところで、昨日フィルムを買っておいた。その数計9本。これくらいあれば、何とかなるでしょう。また、ビデオテープも3本買った。その時初めて気がついたのだが、ビデオテープは今じゃ40分用というのが出ているんですな。ビッツラしましたぞ。また、スチールカメラはEOS 5をメインで使おうと思っているのだが、日付がフィルムに焼き付かなくなってしまっていたので、本日ようやく電池を替えておいた。うーむ、我ながら対応が遅いですぢぁ。

  •  1998年8月3日
  •  本日大変ショッキングな出来事が起こった。
  •  インターネットで、パソコンの通販価格を久しぶりに見ていた時の話だ。「あっ?MT300が30万円を切っている?ありゃりゃ、間違った価格が載ってるよ。馬鹿だね。クレームになるぞ。」しかし、念のために他のショップの価格も見てみた。「うそぉっ!」他のショップも同じように30万円を切っているではないか。信じれんわい。 5万円ぐらいの値下がりなら、別にショックでも何でもなかったのだが・・・しかし、何でMT266の方はあまり値下がりしていないの?MT266とMT300は殆ど変わらん値段になっちまったぞ。信じれん。

  •  1998年8月7日
  •  燕岳のガイドブックを見ていた。「あれ、確か、駐車場のことが書いてあったはずだぞ。」しかし、穴があくほど見ているのにその記述が見あたらない。おかしい。実におかしい。殆どあきらめかけていた頃である、もう一冊買っていたガイドブックが、偶然見つかった。ほほ、確かに駐車場のことが書いてある。良かった、良かった。(山と渓谷社の“フルカラー特選ガイド23 槍・燕岳を歩く”という本でした。)
  •  しかし、そんなことより大変なことが世間?では起こっていた。天候が極めて不順なのだ。ここ岡山でも、今日はとんでもない夕立ちがあった。なんと、北陸や東北は今だに梅雨が明けていないだ。「確か、エルニーニョは収束して、代わってラニーニャ現象が起こって、暑い夏になるかもしれないとか、言っていたような気もするんだけどなぁ。」燕岳登山までもうすぐ。しかし、天気はもつのだろうか。あー、とっても心配。とりあえず、明日は、食料を購入して、車を掃除して、ザックにとりあえず荷物を詰め込んでみましょう。

  •  1998年8月8日
  •  今日は、服なんぞを買いに出かけた。コージツにも寄って、フリーズドライ食品や、でっかいウエストバックを買った。なんたって、今まで持っていた大きめのウエストバックは、東京時代に風魔プラスワンで購入したもで、かなり痛んでいたからね。

  •  1998年8月9日
  •  いよいよ食料を本格的に買い出しに出かけた。米は重いが、やはり必要だろう。ビタミン剤も必要だ。それから、胃薬もいるぞ。
  •  それから、車も洗車しておいた。水垢がとれないので、簡単にワックスがけができ拭き取りも簡単という“オーリ”を使って磨き上げた。こいつは、深夜のテレビショッピングで宣伝しているものだよーん。「あれ、黒い雲が来ているぞ。」それから数分後雨が降り出してきた。耐久性のあるワックスを更に塗り込むつもりだったが、あきらめざるを得なかった。「本当に天候不順なんだな、今年は。北アルプスは大丈夫かな。」昨日、ザックカバーや、スタッフバックも買っておいたが、これは正解だろうね。
  •  ところで、ビデオカメラのバッテリーが2個見つからないのは困っている。去年予備に買ったものが見つからないのだ。実におかしい。あんなもん、捨てるはずないしなぁ。車の中や、スチールの棚など探しまくったみた。だが、ない。ここ、数日探しているのだが、結局見つからない。「あーあ、結構高かったのになぁ。くそっ。」半分あきらめかかっていると、ありゃ、観測用具の入っているプラスチックの箱の上で、服の中に埋まっていた1個のバッテリーを発見した。やったー!・・・しかし、もう一個はいずこ?
  •  いや、待てよ。バッテリーにつけてある番号を見ると、3番と4番は新しいぞ。「あっ、そうだった。」当初から持っていたバッテリーは、大きいのが3つと思い込んでいた。しかし、大が2個と、小が1個だったのだ。つまり、これで、すべて見つかったわけだ。あーあ、年ですなぁ。何と記憶力のいい加減なことか。アルツハイマー君と呼じくり。
  •  本当は、今日中に、すべての用意を済ませておくべきだったのだろうが、根性なしの私は、事切れた。うっ、うっ、がくっ。

  •  1998年8月10日
  •  いよいよ出発前夜だ。しかし、今回は初めから一人で行くことが決まっていたため、楽しいと言うより、むしろ、不安や面倒くささの方が大きいかもしれない。用意もまだかなりいい加減だ。テントも、今日初めて家の中で組み立ててみる始末だ。とりあえず荷物を用意してみたが、絶対こんな量の荷物を全部もって登山するなど不可能だ。明日どこかのキャンプ場で、テンパってみた後、ザックに入れる荷物を考えてみることにしよう。それにしても、恐ろしくいい加減だねぇ。

  •  1998年8月11日
  •  夕べ、結構遅くまでバタバタしていたので、結局6時半に起きた。当初は6時には出発することも考えていたが、またも机上の空論に終わってしまった。
  •  起きてからも、バタバタの連続だっため、去年の蝶ヶ岳登山の時の出発より更に遅くなってしまった。9時40分、洗って干しておいた、登山靴を最後に車に入れた時だ。大声を出してしまった。「なんじゃ、こりゃあ?」なんと、登山靴のソールが両方ともはがれかけているのだ。「うわぁ、どうすりゃいいんだ。」あわてて部屋に戻り、少し残っていた接着剤でとりあえず片方の靴のソールだけに塗ってみた。「いや、いや、こんなんじゃだめだ。途中で絶対はがれてしまう。」そこで出した結論が、やはり、コージツに行って新しい靴を買おう、ということだった。「よし、考えてたった仕方ない。行こう。」
  •  「何?えっ?」コージツに着いたのが、既に10時を過ぎていたのだが、店が開いていない。「うそっ、11時開店だって?」そんな時間まで待っていられない。もう行くぞ。しかし、しばらく走ってから考え直した。「やっぱり靴がなけりゃ、とんでもないことになってしまう。買いに戻ろう。」この時点で、出発を明日に延ばすことすら考えていた。11時5分前になってようやく店員が来た。あわてて靴を見る。よし、これにしよう。ゴアテックスを使っているし、思ったほど高くないし。しかし、予定外の出費が16.065円。あー、あー。
  •  早島のインターから高速に入った。朝、岡山、山陽の間が事故で通行止めになっているとラジオで言っていたが、どうやらそれも解除されたようだ。しかし、本当に予定外の時間を食ってしまった。昨年の蝶ヶ岳登山の際と比較して約2時間の遅れかぁ。
  •  ところで、今回の山行も去年と同様、テープレコーダーに途中の記録を録音することにした。これだと、実に簡単に、正確、且つ、臨場感のある記録が取れるのだ。

  • ♠11時53分、兵庫県に入った。天気は晴れているが、にわか雨の可能性もありそうな様相だ。

  • ♠12時30分、兵庫県の小野市に入った。天気は依然として良好。

  • ♠12時51分、初めて休憩をとる。しかし、食事はお預けとした。
  •  池田あたりを通過するあたりでは、排気ガスが相当気になるようになってきた。大阪の空気はきちゃないのぉ。

  • ♠向日市あたりから渋滞に突入した。1時34分には完全に止まってしまった。

  • ♠1時36分、とりあえず、京都市内に入った。10数kmの渋滞になるみたいだね。

  • ♠2時20分、竜王に入る。空は曇っている。

  • ♠2時43分、事故渋滞に突入した。ほとんど動かない。レッカー車が路肩を走っていった。トラック数台の事故だったようだ。それにしても、トイレに行きたいよー!震えがきとるやないの? 何とか  してよ。ギャオー!

  • ♠3時52分、岐阜県内のサービスエリアで子キジをを打つ。シュワッチ!ふっかぁあつ。
  •  ところで、この時点で、麓のキャンプ場でテンパルことをあきらめた。豊科付近に着いたときには真っ暗でしょうからね。ビジネスホテルを探すしかないでしょうね。

  • ♠4時35分、もう少しで中央自動車道に入る所まで来た。

  • ♠5時26分、天候が大変怪しくなってきた。いつ土砂降りの雨にたたられてもおかしくない。

  • ♠5時29分、恵那山トンネルに突入。何と、トンネルを出たのが7分後。後半70km/hぐらいになっていたが、速い時は90km/h程のスピードを出していたからなぁ、実に長いトンネルだよね。ここを 初めて通ったのは13年前の、あの日航ジャンボ機が墜落した年で、「こっつぁんち」に初めて行く時だったよね。あの時はバイクだったから、鼻の穴が排気ガスで真っ黒けになってしまったよね。
  •  「あっ、高速道路の脇にススキが・・・ああ、もうまるで秋じゃないか?」結局、今年の夏はこのまま天候不順のままに終っちまうのかなぁ・・・

  •  駒ヶ根が近くなってきたが、名古屋へ向かう反対車線は大変渋滞している。ノロノロとしか動いていない。
  •  とうとう6時になってしまった。青空も見えているが雲がかなり広がってきている。
  •  長野自動車に入る頃には、晴れ間が多くなってきた。いや、あたりが暗くなってきたので、そう見えただけなのだろうか。
  •  「あっ、しまった。とんでもないミスを犯してしまった。」長野自動車道に入ったのは良かったのだが、何を思ってか、途中で間違えたと思って、塩尻でいったん降りてしまった。しかし、地図を見ると、その間違いが間違いだったことが分かったのだ。また、戻ってきて、高速に乗った。6時55分のことである。 バッカじゃないの?ぶって、ぶって、みんな私が悪いのよ。
  •  豊科インターを降りると、高速道路と平行した県道を走った。田んぼの中の道である。「こんな所に、ホテルなんかあるんかい?松本でホテルを探した方が良かったんじゃないのか?」不安がよぎる、よぎる。「いざとなったら車の中で寝ないとなぁ。しかし、それじゃ、疲れがとれんしなぁ。」
  •  ついに、穂高タウンホテルというビジネスホテルを発見。シングルはもう空いていなく、ダブルの部屋に一人で泊まることにした。本来のダブルの料金よりは安いが、それでも8.400円とられた。ホテルの方が疲れがとれるから、正解だね。チェックインした後、部屋には入らず、そのまま車で、飯を食いに出かけることにした。7時28分のことである。とにかく腹が減りましたぞ。
  •  ホテルでは、ビールをかっくらいながら、エッチビデオを見た。これぞ、幸せの極み。テントの中で寝たんでは、疲れもとれないから、ビジネスホテルに泊まったのは正解ですぞ。しかし、広すぎる部屋は、逆にちょっと落ち着きませんなぁ。
  • うーむ、若いぞ、アブ衛門。まだ結構スリムだし。ちなみに、一見カジュアルな?格好をしていますが、この服装で登山をします。おほほ。

  •  1998年8月12日
  •  朝、5時半頃に起きた。それから、朝シャンをして7時にホテルを出た。もっと早く出ることも考えていたが、昨日のフロントの人の話しぶりからこの時間にした。あんまり早くても気の毒ですからな。そして、車の横でパッキング開始。「何とか早くすませてしまおうっと。93年の蝶ヶ岳登山の時には、パッキングに2時間もかかってしまったからなぁ。」
  •  何とか8時12分にパッキング終了。やはり時間のかかりすぎだな。フム、フム。天気予報はかなり悪い。梅雨前線がまだ存在しており、新潟方面では大雨警報が出ている始末。ここも、初めは晴れ間もあったのだが、そのうち雨が降り出してきた。雲もかなり黒い雲が押し寄せてきており、大雨が降りそうな気配だ。
  •  
  • 日差しもあるが、この黒い雲は危険極まりない!
  •  
  •  国道147号線を北上し、「北穂高」という標識を左折だ。細いが舗装された山道を走る。途中、前も見えないほどの土砂降りとなった。道は、一部で川のように激しい水の流れとなっていた。霧も出ている箇所もある。そして、恐ろしいことに雷までが鳴っている。「こんな状態で登山なんか出来るんかぁ?」
  •  9時ジャスト、中房温泉の駐車場に着いた。雨は相変わらず激しく降っている。駐車場の横には、増水した川が激しい濁流となって流れている。駐車場は、それほど広くなかったが、この雨のおかげ?で停められたのかもしれない。ある意味で、この雨はラッキーだったのかもしれない。ふと気がつくと、川のあちら側にも駐車場があった。しかし、こちらも結構車がとまっている。気温は低く、半袖では寒い。いったん小降りになったので、カッパを着るのをやめようとも考えたが、寒いので防寒の意味もあって着ることにした。
  •  登山道入り口までは、アスファルトの上り坂を結構歩かなければならない。これだけで少々気分がめいる。中房温泉の売店に着いた時には、雨があがっていた。ラッキー。初めは全く見えなかった近くの山の姿が見えてきた。ホントにラッキーだ。水場と書いてある所で、蛇口をひねって水筒に水を入れようとした時、隣にいた人が、「だめ、だめ。」と声をかけてきた。「そりゃ、お湯だよ。」
  • 「え?じゃ、飲めないのかな?」仕方なく、売店横の自販機で缶のお茶を2本買って、水筒に入れた。暑くなったので、上のカッパだけは脱いだ。登山届けを出して、いざ出発!「あれっ?通行止め?」登山道と思われる所に、そんな風に書いてある。どういうことだ?しかし、下山者もこの道を降りてくるので、ここしかないと、歩き出す。出発時間は9時56分。
  •  ザックは、今までの北アルプス登山では最軽量と思われる重さに仕上がった。(帰ってから計ったところ、ザックを含めた荷物の重さは推定26.5kg)この登山道はアルプス三大急登に数えられる程の急斜面だ。やや細めの丸木で作った梯子が大変多い。しかし、昨年蝶ヶ岳で出会った「軟弱おじさん」の話のように、それほどきつさを感じない。去年の三股から蝶ヶ岳に登るルートでは、わずか20分登って、「力水」に着いた時点で、休憩をとり、既に息も絶え絶えになっていた。しかし、今回は実にスムースに登れるのだ。そこで、第1ベンチで休憩するのをパスしてしまった。ただ、一端あがっていた雨は再び強く降りだし、雷もまた鳴り始めていた。
  •  だが、そうこうしているうち、今度は雨がまたも強く降ってきた。うーむ、こんな天気の中、本当に登るの?やめよっかな?・・・しかし、ここまで来てやめるわけにはいかないよね。気合いを入れて出発。9時23分のことである。
  •  
  • 中房温泉の駐車場。強い雨がやまない。どうしようかなぁ。
  •  
  •  1回目の休憩をとったのが、第2ベンチだ。11時30分のことである。ということは、1時間半も一気に登れたんだなぁ。偉いぞ、アブ衛門。アンタは偉い!
  •  約10分休んでまた歩き出した。しかし、次第に身体がきつくなってきた。第3ベンチでも休憩をとることになる。激しく降る雨の中、半袖で登っている僕を見て、ある年輩者が「寒くない?」と聞いてきた。「いやー、カッパを着ると中から濡れますからね、今のところ、動いている間はカッパなしの方が良いみたいです。」というと、「若いね、私も昔は全然平気だったけど、52を越えてからは、身体を冷やすとしびれてきて動かなくなってきたからね。」としみじみ話してくれた。僕の荷物は結構大きいらしく、出会う人が口々に「大きい荷物ですね。」と声をかけてくれた。妙な優越感にひたっていたの良いが、時間がたつにつれ、ひどくしんどくなってきた。後から来る登山者に次々に抜かれていった。「こんなすごい天気の中、どうしてこんなきつい思いをして山を登ってるんだろう。今からでもやめて帰った方が良いんじゃないか?家でビールを飲みながら、ナイターでも見ている方がなんぼか良いだろう。え?そうだろう?」登山の際には毎回聞く悪魔のささやきが、この登山でもやはり聞こえてきた。途中下山者から聞いた話では、昨日までは何とか天気はもっていて、特におとといは最高の天気だったそうだ。くそっー!ぐやぢいー!
  •  午後2時30分、息も絶え絶えにようやく合戦小屋(かっせんごや)に着いた。とにかく疲れた。標高も高くなっていることもあって、とても寒くなってきた。山菜うどん(800円だったかな?)を食べて空腹と寒さを癒した。ずぶ濡れになっている半袖のポロシャツの上に、ゴルフ用のいい加減なカッパを着ることにした。そして、出発。もう登山客も少なくなっている。
  •  いい加減登るのが嫌になっていたが、もう登るしかなかった。キャンプ場は狭いのであまり遅く着けば、テントを張れないという事態にもなりかねない。2時47分、疲れきった身体を押してまた歩き始めた。しかし、小屋で水筒に水1リットルを補充したところ、ザックのバランスが極端に悪くなり、右に傾き始めた。それは谷側に傾くことになるので、相当気を使わなければならなかった。しかも、バランスの崩れたザックを担ぐということは、想像以上に体力を消耗することになるのだ。 
  •  合戦の頭というベンチにようやくのことで着いた時、先に休んでいたおばちゃん連中が突然大声を上げた。「山が揺れている。こわい、こわい。」僕はというと、身体の方がフラフラしてその地震すら感じることができない。(後にラジオのニュースで、ちょうどその時間に上高地で震度5弱の地震が会ったことを知った。)
  •  午後4時23分、ついに燕山荘(えんざんそう)近くのキャンプ場に着いた。寒い。そして、本当に疲れた。空いていたスペースにザックをおろして、燕山荘に向かった。普通だったら、荷を降ろせばその反動で、宙に浮く感じになるのだが、なまった身体で頑張ったものだから、足に相当負担がきていた。荷を降ろしても、身体は鉛のように重く、そして、足が痛いのだ。93年の蝶ヶ岳登山の際に、タチゲが腰が痛くて痛くてたまらんかったと言っていたが、それに近い状態だったのかもしれない。太ももの付け根の外側が猛烈に痛いのだ。従って、頑張ってみたところで、のろのろとしか歩けない。小屋の受付で、Hさんという女性にテントを張る手続きをとった。手が震えてうまく字がかかけない。その料金1泊400円。「トイレは、キャンプ場専用のものをお使い下さい。」「はい、はい、分かりました。・・・えっ?そんなん、どこにあるの?」いったん返事をしておきながら、「しまった。ちゃんと聞いておけば良かった。」と反省することしきり。
  •  それから急いでテントの設営にかかった。身体が疲れきっているので、その動作の鈍いこと、鈍いこと。「ああ、自分の部屋の中で一回テントを張る練習をしておいて良かったなぁ。」寒さで身体がガタガタ震えてきている。しばらくして、ようやくテントを張って中に入ることができた。「これで一安心だ。」ホッとしていると、とんでもないことに気がついた。キープドライには一応気をつけていたつもりだったが、結構濡れているものがあったのだ。まず、シュラフだ。パッキングする時に、厚手のものの方を急遽選択したのだ。かさばるため、ザックの中に入れることをあきらめて、防水加工してあるスタッフバックに入れて、ザックの上部にロープでくくりつけていたのだ。しかも、せっかく買ったザックカバーを持ってくることを忘れたので、もろに雨が降りつけていた。途中、「一番上のはシュラフでしょう?大丈夫ですか?」と、登山客に聞かれたのだが、「防水加工のスタッフバックに入れてあるから大丈夫でしょう。」などと答えていた。また、服はスタッフバックないしは、ビニール袋に全部入れていたつもりだったが、そうではなかったのだ。その結果、一部濡れている服もあった。うーん、大失敗。しかし、今回の登山では、怪我の功名があった。大きなウエストバックをお腹側に付けていたので、それが邪魔になって、大きく足をあげられなかった。そのおかげで、必要以上にハイペースにならかったし、筋肉痛もある程度押さえられたのではないかと思われるのだ。
  •  山はガスに包まれていた。そして、雨は相変わらず降り続いている。それでも、ガスの中、あこがれの風化花崗岩が幻想的にちらりと見ることができて感動した。
  •  それにしても、こんな天気なのにキャンプ場はテントで一杯だ。僕の後方では“ろう学校”の人がいて、これが少々うるさい。しばらくて、小屋に水なんぞを買いに行った。1リットル200円。それを5リットル買うことにした。しかし、ここで対応してくれたお兄ちゃんの、テキパキした態度のは良いのだが、その反面、まるでマニュアル通りに動く機械のようにも感じる。もしかしたら、マクドナルドあたりで長い間バイトをしていたんじゃないかな?
  •  暗くなってから、トイレに行きたくなってきた。しかし、混雑している小屋に行くのも何だなぁと思っていた。そこで、キャンプ場専用のトイレを探してみた。稜線へ出て見たが分からない。そうこうしているうち、我慢できなくなってきた。「あっ、何じゃ、この小屋みたいなのは?あ、これがトイレか?」しかし、針金で作った柵があり、そのトイレには行けないのだ。仕方なく、その場で放出。ゴメンちゃい。後で考えたら、その柵が“月の輪熊”避けなのだと気がついてゾッとした。
  •  
  • この写真は、8/14に撮ったトイレの写真。このトイレの右側に熊が出るらしい。熊の侵入を防ぐための針金の柵が見えている。
  •  
  •  11時半頃だったか目が覚めてしまった。あの“ろう学校”の人たちが声を上げて笑ったり、すぐ足元で、動くので、ジャリジャリと音がしてうるさくて目が覚めたのだ。また、ビールなんぞを飲んでいたので、またトイレにも行きたくなっていた。外に出てみると、曇っていたものの、雨はあがっていて、町の夜景が飛び込んできた。それはそれは美しい光景だった。蝶ヶ岳から見た大町あたりの夜景も美しかったが、この夜景はその比でないのだ。小さな光が無数にきらきらと輝く姿は、まるで宝石をちりばめたようだった。

  •  1998年8月13日
  •  山の朝早く、朝の4時頃から目が覚めてしまった。雨は相変わらず降り続いていた。テントは、新しいこともあって、外からの浸水はないのだが、何故か内部に水がたまっている。実は、後で気がついたのだが、それはフォールドキャリアに小さな穴が空いているらしく、そこからせっかく買った水が漏れているらしいのだ。
  •  7時42分、写真を撮りに行こうとテントの外に出たら、またも雨が強く降ってきた。このまま雨があがらなければ、何の景色も見ることなく、この旅は終わってしまうのかもしれない。そんな不安が何度も脳裏を過ぎっていった。しかし、ラジオで聞いた天気予報では、明日から天候回復の可能性もあるようだ。奇跡を信じて待っていよう。
  •  それにしても、困ったことに、ビデオカメラや、スチールカメラが結露を起こしていた。ブタンガスヒータで長い時間熱して、ようやく使いえる状態になるほどだ。また、濡れた服を乾かすためにヒータを使ったりしていたので、途中でガス欠になるのではないかととても心配だ。ボンベは1個あれば充分と思っていたが、だんだん不安になってきた。
  •  7時50分過ぎ、雨は強烈に降ってきた。する事もないので、濡れて波打ってしまったガイドブックを見ていた。「何々、登山道入り口は標高1.460mで、燕山荘の標高が2.700mか?距離でいうと5.5kmで、標高差1.240mなんだね。よう登ってきたもんだね。」足はまだ痛かったが、昨日よりはましで、何とか歩ける状態に回復してきた。
  •  10時頃、雨が殆どやんだので、稜線を歩いてみた。ガスの中に風化花崗岩の奇岩が幻想的浮かび上がっていた。しかし、憧れのコマクサは見あたらない。何やら枯れかかった植物があったので、それがコマクサではないかという気もしてきた。今年は、春先が異常に暑かったらから、コマクサはもう枯れてしまったのかもしれない。落胆しながらもう少し行くと、本来の登山道から下に外れたところに、人が歩いた跡があった。何だろうと行ってみると・・・「あった、あった。あったよ。」大声を上げる。そこには一輪のコマクサが咲いていた。燕岳は、まるで学校の校庭のような砂が一面に広がっている。まさかそんな植物など生えるはずもないと思える過酷な環境下に、コマクサは咲いていたのだ。僕はこの花が見たいがために、こんなにしんどい思いをしてここへ来たのだ。嬉しかった。本当に嬉しかった。長年憧れていた女性にでも会ったような気分だった。しかし、そんな感傷に長くは浸ることはできなかった。大雨が降ってきたのだ。雨に濡れることを心配してカメラも持たずに来ていた。もしかしたら、この可憐な姿をカメラにおさめることなく、僕の記憶の中だけに留めておくことになるのだろうか?ひどく不安になってきてしまった。
  •  11時55分、雨が更に強烈に降ってきた。先ほどは雷も鳴っていた。本当に明日は天気は回復するのだろうか?
  •  午後1時頃、小屋に水を買いに行った。雨でシンサレートの入った(外側はゴアテックス)防寒服はまたも濡れてしまった。ヒータをつけるとその服から、猛烈に水蒸気が発生した。
  •  午後3時前、雨が一端あがったので、写真を撮りに行った。最悪の場合、コマクサの写真を撮れないまま山を下りることも考えざるを得なかったからだ。コマクサの写真とガスの中の奇岩を何とかカメラに収めることができた。しかし、その後大雨が降ってきた。カメラはスタッフバックに包んでいたので、何とかセーフだったが、服はまたもずぶ濡れになってしまった。本当に“ヤレヤレ”だ。
  •  
  • 雨が降り続けていた。隣のテントに誰がいるのか、そんなことなど知るよしもなかった。この写真は雨が一時的にやんだ時撮ったもの。
  •  
  •  強い雨が降り続いていた。小降りの時に外に出るが、すぐに大雨。すぐに服がずぶ濡れに。この登山では、傘の重要性をとても感じました。
  •  1978年の蝶ヶ岳登山の時から、山では風が強いから傘は役に立たないと思っておりました。傘は絶対あった方が良いですぞ。
  •  
  •  何時頃だったか、ちょっと変な年輩のおじさんが登ってきて、僕の隣の本当に狭いスペースにテントを張った。結構疲れている様子で、ちょっと話をしただけで、後は全く顔を合わせることもなかった。考えてみれば、こんな雨なので、外に出ることも殆どなく、テントの中でひたすら沈殿している。従って、人と話す機会もほとんどないのだ。
  •  妙な人たちといえば、若者の先輩後輩とおぼしき人達もそうだ。初めてテントを使うらしく、大騒ぎだ。「なんだ、おめぇーがテントの使い方を知っているのかと思ったぞ。知らねぇのかよ、もう撤退だ、撤退。山を下るぞ。」「そんなこと言わないで下さいよ。今一生懸命してんですから。」そのあげく、ついに近くの人に「すいません、どうやって張ったらいいですか。教えて下さい。」と聞く始末。うーむ・・・僕は大雨が降っていたので、テント中でじっとしていた。それに、こういう人たちには、あまり簡単に手助けしてしまってはかえって良くないだろうと思っていた。山をなめてもらっては困るという気持ちと、苦労した方が良い想い出にもなるだろうし、次回の時に役立つだろうという気持ちで傍観していた。夜は夜で、残飯をフライシートの下に置いていて、見回りに来た小屋のスタッフに、「熊が出ますから、テントの中に入れて下さい。」と注意されていた。世話のやけるやっちゃのぉ。
  •  午後6時25分、ついにやけ酒をかっくらうことになった。ビールの次は月桂冠じゃ。ちょんわ、ちょんわ。ラジオで聴くと、雨のため広島のナイターは中止になったとのこと。岡山でも雨が降り出してきていた。しかし、大阪の甲子園では雨はまだ降っておらず、高校野球は続いていた。ということは、明日になっても雨はあがるどころか、ひどくなる可能性が高いのではないか?クソー、ぐれてやる。そう言えば、隣のおっちゃんは、夜テント中でうなされておった。絶対危ない人ぢゃ。危険、危険。絶対危ない人じゃ。
  •  しかし、酒をかっくらっても、濡れた服、濡れたシュラフでは、寒くて、寒くて目が覚めてしまう。桐灰カイロを身体に入れて震えながら耐えていた。昨晩より格段に寒かった。

  •  1998年8月14日
  •  朝7時頃だったか、雨はあがっていた。そんな時、隣のおっちゃんの声が聞こえてきた。「どこから来たの?」どうやら、近くでテンパっていた娘さんに声をかけているようだ。「へぇー、近くに若い女性がいたんだ。」この雨で全く気がつかないでいた。僕もテントの外に出て声をかけた。「おはようございます。」なんと、このおっちゃんも写真を撮りに来ていたのだという。そのうち、「じゃあ、写真を撮りに一緒に行きましょう。」なんてことになった。ラッキーなことにその若い女性も一緒に行くことになった。雨はとりあえずあがっていたものの、ガスの中だった。
  •  あのおっちゃんは、Sさんという名前で、なんと御年60歳。その歩くことの速いこと、速いこと。そこで、僕は“モンスターSさん”と呼ぶことにした。そして、女性はAさんという名前で、S大の4回生だ。驚いたことに、一人で来たのだということだ。すごい、すごすぎるぞ。
  •  モンスターSさんは本格的な写真家で、マミヤのセミ版を使っていた。三脚はリンフォフのステッカーが貼ってある。僕はといえば、キャノンのEOS 5とパナソニックのビデオカメラ3CCD-1を使って写真を撮った。
  •  昨日見つけた、コマクサが咲いている場所を教えてあげた。その他にもコマクサが咲いている所はあった。しかし、何でも今年は、コマクサは6月中旬には咲き始めたとことで、もう枯れ始めているところが多かった。北燕岳の近くにはコマクサの群生地があるとガイドブックに書いてあった。しかし、よく分からない。
  •  ところで、Aさんは何かに似ていると最初から気になっていた。ずっと考えていたら気がついた。「ねぇ、ねぇ、Aさんって、アライグマに似てません?そうだ、ラスカルちゃんと呼ぼう。」というと、どうやら彼女はあまり気に入ってない様子。「それなら、おこじょ君ってのはどう?」と聞く。これまた、あまり気に入っていない様子。そのうち、彼女が歩く姿を見ていたら、決定的なイメージが浮かんだ。そうだ、ペンギンだ。ペンギン。それ以来、僕は彼女の気持ちはそっちのけで“ペンギンさん”と呼ぶことに決めたのだ。めでたし、めでたし。(何がめでたい?)
  •  
  • コマクサの群生地から北燕岳を望む。この写真はガスが晴れてきた帰りに撮ったものです。
  •  
  •  次に北燕岳山頂まで行ってみた。初めはガスっていたが、時より青空が見えてくるようになった。そして、山々がその姿を現し始めた。隣にいた人が、「ここまではさっきから100回も見ています。これ以上は晴れないかもしれません。」と言っていた。しかし、僕らは「もうちょっと頑張ってみましょう。」と待ってみるとにした。すると、どうだろう。見る見るうちに雲やガスが消えて、素晴らしい光景が現れ始めた。僕らは、まるで子供のようにはしゃぎ回った。奇跡は起こったのだ。93年のあの蝶ヶ岳の時以来の、2度目の奇跡が起こったのだ。
  •  それにつけても、こうやって晴れると、ここ燕は、実に絶好の被写体となるポイントとなるところが多いのが分かる。燕岳の光景は、他の山には全く存在しないものだった。全く独特な光景なのだ。どっこから取ってきて敷き詰めたような、一面の砂礫。奇妙な形の風化花崗岩の群。ここに咲いている高山植物も殆どが乾性のもので、蝶ヶ岳に咲いていたものとはまるで違う。
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  • 見よ、この鮮やかな光景を。雲の影もおもしろいでしょう。
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  •  途中、モンスターSさんは写真をもっと撮りたいから、後で行きますとその場に残った。そういう訳で、しばらくはペンギンさんと二人で歩いた。78年、初めて蝶ヶ岳を登った時にも、こんなふれあいを夢見ていた。しかし、その後、そんな機会には巡り会うことは全くなかった。半ばあきらめていた。しかし、今ここにペンギンさんがいる。なんだか、とても幸せな気分にひたっていた。
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  • 岩の穴から、燕山荘が見えている。
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  •  あの夢の中で見たコマクサにも似た妖精は、ペンギンさんだったのだろうか?それとも、こんな巡り会いをさせてくれたSさんが、山の神様だったのだろうか?ちなみに、ペンギンさんはモンスターSさんのことを鉄人と呼んでいた。モンスターより、超人より、鉄人の方がイメージがぴったりかもしれない。
  •  テントに戻ってしばらくしたら、鉄人Sさんが帰ってきた。時間が時間なので、みんなで昼飯を食べることにした。僕とペンギンさんは、持ってきたフリーズドライ食品だ。鉄人は、タッパにぎっしり入れらた、ケーキのようなものを食べていた。それから、プラスチックの円筒形の容器に入っている、怪しげな飲み物を飲み始めた。「Sさんの体力はおかしいですよ。本当は中身は機械が詰まっているんじゃないですか?それに、その怪しげな飲み物が気になりますね。それって、何なんですか?」と、からかいながら聞いてみる。匂いからウィスキーだということは分っていたのだが・・・とにかく恐るべき体力の人だ。
  •  天気はその後もずっと良かった。ジリジリ音を立てて肌を焼いているのが分かるほどの陽射しだった。空がとても青い。すっかり濡れた服やシュラフをテントの上に乗せて乾かすことにした。鉄人はというと、テントをひっくり返して、テントの中まで干していた。僕はテントのそばで、息も絶え絶えに登ってくる登山客にできる限り声をかけた。「お疲れさんです。もうちょっとですよ。頑張って下さい。そこの稜線に出たら、すごい景色が待っていますよ。」そして、登山客は、稜線に出るとハンで押したように、「うわー、すごい。」と大声を出した。それが、あまりにも予想通りの反応だったので、鉄人さんもペンギンさんも笑い出してしまった。
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  • テントの前のペンギンさん。
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  •  乾かしていたテントがようやく乾いた頃に、鉄人さんはおもむろに荷物を片づけ始めた。「えっ?連泊されるんじゃないんですか?」「いや、大天井の方へ行こうと思って。」「えっ?嘘でしょう?」ペンギンさんの方は口説いて、連泊してもらうことにしたのになぁ。どうやら、気持ちは変わらないようなので、ペンギンさんと一緒に途中まで見送ることにした。鉄人さんのザックをちょっと持ってみたが、25kgはありそうだった。その荷物を背負っているのに、何も持っていない僕らよりはるかに速く歩くのだ。ちょっとよそ見をしていたら、あっという間に視界から消えてなくなってしまった。探していると、もうずっと先から手を振っている始末。途中、槍ヶ岳とガスが絶妙にマッチしている光景があった。「あのガスがもうちょっとかかったら、良い絵になるぞ。」と、シャッターチャンスを待っていると、ガスは消えてしまい、今度は登山客が視界に入ってしまって構図がとれなくなってしまった。どこまでも着いて行っても仕方がないので、この辺りで鉄人さんとはお別れをした。確か、3時半頃じゃなかったかな。普通はこんな時間から出発はしないもんだが、鉄人さんのスピードだったら無事に目的に着けるだろう。
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  • S鉄人さんとペンギンさん。
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  •  4時半頃だったか、燕山荘の方から、「丸い虹が出てる。」という子供の大声がした。僕にはそれがブロッケンの妖怪だとすぐに分かって、カメラを持って走っていった。確かにそこにはブロッケンの妖怪が見えていた。僕は、こんな絶好のチャンスを独り占めするはいけないと思い、「ブロッケンの妖怪が出ています。見たい方はこちらに来て下さい。」と大声で周りの人に教えてあげた。中にはブロッケンという言葉すら知らない人がいたので、「ドイツのブロッケン山で、この奇妙な光景がよく見られたことからそう呼ばれるようになったんです。」と教えてあげた。よく考えたら、その知識は小学生の頃見た百科事典に書いてあった内容なのだ。年をとると、最近のことは忘れるのに、昔のことはよく覚えているもんだね。あっ、そうだ、彼女にも教えてあげなくっちゃ。そこで、大声で呼んだ。「ペンギンさーん、ペンギンさーん!」彼女は恥ずかしいと言いながらも、その呼び方に反応してしまう自分が悲しいとも言った。ところで、ブロッケンはその後もずいぶん長い間出ていた。
  • このブロッケンは、かなり長い時間見えていた。
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  •  ところで、ペンギンさんのゴアテックスのテントのファスナーが壊れてしまっていた。閉めても閉めても、開いてしまうのだ。とりあえず直したのだが、またすぐに壊れてしまった。高いテントなのになぁ。
  •  ペンギンさんはテントの中に入ったまましばらく出てこなくなった。まあ、こんな40歳の男じゃ一緒にいてもつまらないだろうなと、僕は一人で写真を撮りに行った。朝から昼にかけて撮りに行った時には、フィルムが途中でなくなってしまったこともあったので、撮り残したシーンや、夕方のシーンも撮っておきたいと思ったのだ。
  •  そう言えば、あのおかしな先輩後輩は、夕方、小屋の近で見かけた。「えー?帰らなかったんだ。あるいは、どこか違う山に行ったのかと思ったんだけどな。」それにしても、彼らの格好は、とても山に登る格好には見えない。2人とも、バンダナを頭に巻き、ズボンは半ズボン。荷物もザックといよりは、ピクニック用のリックという感じだ。べらんめい調の先輩と、何を言われてもうまく流す後輩。確かに良いコンビなのだろうけど、山はなめない方が良いですぞ。と、彼らはキャンプ場の方にやってきた。「え?これからまたテンパるの?場所空いてないぞ。」と思っていると、「間違えた。こっちじゃない。」と言いながら、山を下りていった。「おい、おい、これから山を下りたら途中で暗くなっちまうぞ。大丈夫か?」彼らも、今回のことを教訓にして良いアルピニストとなって帰ってきて欲しいものですね。
  •  テントに戻ってからしばらくして、ペンギンさんが来てくれた。何でも、疲れてしばらく熟睡していたのだそうだ。
  •  その後、燕山荘の野外にあるテーブルで、ワインを二人で飲んだ。何だか、夢を見ているような気がした。まさか、この燕岳で女子大生とロマンチックにワインを飲めるなんて、想像だにしなかったことだ。その後、ソーセージの詰め合わせとビールを買って、キャンプ場に戻ってきた。「僕のテントは散らかっていてとても入れませんよ。」そんな訳で、彼女のテントに入って、おしゃべりをした。「まあ、女の子の部屋?に入って・・・まあ、危ない。」何だか、僕の方が照れてしまう。と、突然、お腹がグルグルとなった。こんな時に鳴らなくても・・・別に下痢をしていたわけではないが、ガンタ飯など消化の悪いものを食べていたので、調子がおかしくなっていたのだろう。ペンギンさんに胃薬を貰うはめになった。かっちょわるー!
  •  ソーセージの皿を返しに行った時だったか、小屋のスタッフが、ちょうど携帯電話で返事をしていた。「はい、ええ。僕が見回った時は姿は見えませんでしたが、荒らされた跡がありました。ええ、はい、はい・・・」電話が終わったそのスタッフに聞いてみた。「やっぱり出るんですか、熊。」「ええ、ホントに困っていますよ。でも、月の輪熊は、自分から襲うことはありません。普通は人の気配を感じたら自分の方から逃げますよ。」「星の写真を撮ろうと思っているんですけど、やめた方が良いですかね?」「いや、それは大丈夫でしょう。」今までの情報をまとめてみると、「何頭かの月の輪熊が残飯の味をしめて、キャンプ場に出るようになった。何とかキャンプ場に近寄せないようにしたのだが、1頭だけが、その後も来続けている。そのため、念のためにキャンプ場の周りを針金の柵で囲んだ。」ということらしい。いくら自分から逃げるからって言たって、夜中に突然熊に出くわすなんてとんでもないことだぞ。かくして、小屋の近くだけで写真を撮ることにした。ガスがかかっていたが、時折、素晴らしい星空になった。僕は、近くにいたおばちゃん連中に声をかけた。「小屋の上から、白鳥座にかけてある雲のようなのが、天の川ですよ。あれが、織り姫様でこちらが彦星です。小熊座の一番暗い星が5等星で、それがあれだけ明るく見えていますから、かなり暗い星まで見えていますよ。」おばちゃん達は、誰かに間違ったことを教えて貰ったらしく、「じゃあ、さっきのは天の川じゃなくて、本当の雲だったんですね。」などと話していた。マニュアルカメラのオリンパスOM-1に35mmのレンズをつけて固定撮影で何枚か撮ったが、さすがに熊が怖くて、奇岩と星空を一緒に撮るという夢はあきらめてしまった。だって一人じゃ怖いもん。(ヒグマは確かにどう猛だが、日本で起こっている熊の事件は、殆どは「月の輪熊」によるものです。突然人間に会った「月輪の熊」も人間が怖くて攻撃してくるのです。)
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  • 燕山荘の上に輝くいて座と銀河。
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  • 小屋の横から昇るさそり座。

  •  1998年8月15日
  •  御来光を撮ろうと、辺りがまだ暗いうちにスチールカメラやビデオカメラの用意をした。天気は、初めはまずまずだった。しかし、東の空が赤くなってきた頃から、急に天気が怪しくなってきた。粘ってみたが、結局御来光を拝むことはできなかった。
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  • 一時はご来光が見られるのかと思ったんだがなぁ。
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  •  ペンギンさんと朝の6時に出発すると約束していたのに、少々遅れてしまった。ご来光を待ちすぎたのと、パッキングに、またも手間取ってしまったからだ。パッキングは今回大変勉強になった。シュラフは無理をしてもザックに入れること。三脚はザックのサイドに付けること。マットもザックの上には付けずに、なるべくザックの背を高くしないこと。そして、ザックカバーは必ず携帯すること。また、カッパはゴアテックスの良いものを用意する方がベターだ。更に、できることなら傘も用意しておくと、雨の日の行動には大変便利だ。
  •  6時35分ようやく燕岳を後にした。結局ペンギンさんと一緒に下山し、穂高駅まで車で送ることにしたのだ。
  •  登山中は激しい雨の中だったので気がつかなかったが、登山道からは結構良い景色が見られた。「へぇー、こんな風景だったんだ。」と感心することしきり。
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  • 実は、登山道から槍ヶ岳が見えていたんですね。
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  •  合戦小屋近くになって、登山道に大きな糞を発見。「こりゃ、間違いなく熊のだな。おー、こわっ。」
  •  合戦小屋で一回目の休憩。うどんを食べようと思ったが、まだ用意ができないということで、あきらめた。ラッキーなことに、ゴミ捨て場があったので、捨てさせて貰った。しかし、本当に捨てても良かったんかな?
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  • 合戦小屋で、ペンギンさんをパシャリ。
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  •  その後は、前回の蝶ヶ岳の時と同じように、つま先を痛めてしまったので、ベンチごとに休むことにした。それにしても、こうして下山しいる最中でも、この道は相当な急斜面であることに驚かされた。よくぞ、こんな所をこんな荷物を担いで登ってきたものだ。
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  • 第2ベンチで。もう結構バテています。
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  •  結構足に限界がき始めた頃、ようやく登山道入り口の売店に着いた。10時42分のことだった。ということは、4時間7分かかったことになる。この荷物ならまずまずのタイムかな?売店でアイスクリームを買うことにした。そう言えば、78年に蝶ヶ岳を下山した時、まず何をおいてもかき氷を食べたいと思ったことを思い出していた。
  •  しかし、1.000円札が入らないので、売店の人に言って何とか出して貰った。と、今度はスプーンが1個しかない。「アイスクリームの数だけ用意しているんですがね。」と言いながら、もう1個出してくれた。ペンギンさんはクッキー入りのものを、僕は抹茶入りのもを食べた。ペンギンさんを見ると、汗でTシャツが濡れてレースのブラジャーが透けて見えていた。僕は思わずドキッとした。そうだよな、ペンギンさんは22歳の女性だもんな。
  •  ふと気がつくと、みんな中房温泉の方に行っている。「あれぇ?ここは温泉の泊まり客しか入れないと書いてあったのにな。」そこで、売店のおじさんに聞いてみた。「ここの温泉に僕らでも入れるんですか?」「ええ、入れますよ。」ありゃ、と思ったものの、車の中にしか着替えはないし、これだけ下山者が中房温泉に行ったら、混雑して入れないんじゃないのかな? かくして、下の国民宿舎で温泉に入ることに決定した。
  •  駐車場までの道のりは、疲れきった身体には結構きつかった。ようやく車に荷物を積むと国民宿舎に向かってスタートだ。
  •  国民宿舎には、途中、何度も抜きつ抜かれつを繰り返していたカップルも偶然来ていた。「車のナンバーを見たんですが、広島からですか?いやー、僕らも広島からなんですよ。」「いや、今は岡山なんです。2年前までは広島にいたんですけどね。」そう言えば、昨日、鉄人が出た後にテンパっていたカップルが、「ほじゃやけん」と広島弁をしゃべっていた。そこで、「広島からですか?」と聞いたところ、「いえ、岡山です。生まれてずっと岡山にいます。」とのこと。いやー、狭いもんですね、日本って。ほにょにょにょ。
  •  風呂の中では、筋肉痛の足をマッサージしてみた。この程度のダメージですんで良かったなぁ、というのが本音だ。左足を痛め、呼吸がしにくい状態が続いて、本当に燕岳に登れるのか、不安だったことを考えると、本当によくやったよな。
  •  風呂から上がってペンギンさんの足の裏を踏んでマッサージした。これ以上やると、僕は変態と呼ばれてしまうかもしれないので、やめておくことにしよう。がっはっはっ。
  •  ペンギンさんは、山を下りたらまともな食事がしたいと言っていた。それは、僕とて同じこと。そこで、町に着いたらどこかで食事をすることにした。
  •  車に乗っている最中、音楽テープをかけていた。彼女は、河村隆一はナルシストだから好きじゃないと言った。今度はキロロの“長い間”と“未来へ”をかけた。特に“未来へ”は岡山からこちらへ来る車の中でも聴いて、後頭部を殴られたような衝撃があった曲だ。彼女はキロロの曲なら知っていると、テープに合わせて口ずさんだ。そんな何でもないシーンが僕にとってはとても幸せだった。若い女の娘がサイドシートで歌を歌っている。それだけで本当に幸せだった。
  •  食事をしたいと思っているのに、さすがは盆休みの真っ最中、見つける店、見つける店すべての駐車場が満杯だ。そんなこんなで、結構走ってしまった。そのうち、妙な土産物兼レストランを見つけたので、そこに入ることにした。2階がレストランになっていた。そこで、2人とも釜飯定食を食べることにした。ペンギンさんとデートしているような気がして、何だか妙な気分になっていた。
  •  会社への土産物を買うと、出発だ。結局ペンギンさんを、松本まで送らせてもらうことにした。道は混んでいて思いの外時間がかかった。かえって迷惑かけてしまったかな。ゴメンね。松本駅に着いたのが、午後3時12分、とっても混んでいたんで、挨拶もそこそこにお別れとなった。ありがとう、ペンギンさん。そして、再見。(ツァイチェン)来年の5月の連休に、“こっつぁんち”に一緒に行こうと話したけど、本当に来てくれるかな?やっぱ、無理かな? 
  •  長野自動車道は、ことのほか混んでいた。ようやく中央自動車道に入ったのが、午後5時16分だった。しかし、その後は多少の渋滞はあったものの、思ったよりスムースに進め、夜中の1時過ぎには岡山のアパートに戻ってこれた。

  •  1998年8月16日
  •  昼過ぎに、痛い足でバイクに乗って、撮った写真を現像に出しに行った。そして、6時前に、その出来上がっているはずの写真をとりに行った。しかし、とんでもないことが起こっていた。ペンギンさんが一人で写っている写真が、ラチチュードが良くなくて、焼き直ししたそうだ。すると、何故か機械が壊れてしまったので、今日渡すのは無理だと言われた。「おい、おい、痛い足でここまで来たのにそれはないだろう。」と思って、とりあえずその失敗した写真を見せてもらった。すると、特におかしいというほどでないのだ。「別にこれで良いですよ。もともと、ラチチュードが狭い状態で撮ったものですから、これはこんなもんでしょう。」と何とか無事にもらって帰ることができた。
  •  急いでいたのは、早く見たいというのと、休みのうちに少しでも多く、フィルムスキャナーでスキャンしてパソコンに取り込んでおきたかったからだ。しかし、つい昨日までのことを撮った写真なのに、何故かとても昔の出来事だったように思えてしまった。あれは夢だったんだろうか?いや、現実に僕は燕岳に登り、憧れのコマクサに会い、風化花崗岩の奇岩も見たのだ。そして、Sさんとペンギンさんとも出会ったのだ。それは、紛れもなく現実にあった出来事なのだ。そうだ、それは現実にあった夢だったのだ。

  • 追記
  •  ★Sさんのことを、僕は初めモンスターとか超人と呼んでいた。その後、ペンギンさんが鉄人と呼ぶようになったので、僕もずっとそう呼んでいた。しかし、帰りの車の中で、「Sさんって、鉄人って言うより仙人じゃないかな?」と思い始めた。ペンギンさんに言うと、「そちらの方がイメージにあっているかもしれないですね。」との反応。そこで、僕はそれ以来、Sさんのことを、仙人さんって呼ぶようになった。

  •  ★ニコンのフィルムスキャナーLS-2000の調子がおかしくなってしまった。1回スキャンするごとに、フォトショップを終わらせないと、パソコンがフリーズするようになってしまったのだ。ものすごい時間の無駄だー。困っていると、何とニコンから、新しいバージョンのソフトを送ってきてくれた。何とタイミングの良いことか?新しいソフトは確かにフリーズすることもかなり少なくなったし、色調も良くなっていた。めでたし、めでたし。

  •  ★下山後、4日間は足が大変痛かった。特に2日間は、右足がパンパンに腫れ上がり、曲げることもままならなかった。人間の足があれほど硬くなるとは信じられないほどだった。

  •  ★8/18になって、陽に焼けていた顔や耳の皮がぼろぼろはげてきた。特に耳の皮が、あんなにぼろぼろになるとは考えもしなかったことだ。その後、今度は手の甲や腕の皮が実にみっともなくはげてきた。すごい紫外線だったんですね。

  •  ★8/30にはバイクで大山までツーリングしてきた。もう秋の気配がする気候はツーリングには実に快適でだった。何故かアルプス登山した後は、ここ大山に来たくなるんだよなぁ。やはり、ここが心のふるさとだからなのかな?

  •  ★しばらくして、ペンギンさんにポストカードを送った。そうこうしているうちに、ペンギンさんから手紙が来た。そして、仙人さんからもポストカードが送られてきた。しかし、仙人さんに僕が送ったポストカードは、何を血迷ってか、ありもしない宛先に送ったことに気がつき、再度手紙を送り直した。あきまへんなぁ。完全にぼけてます。

  •  ★この登山の食料品を買ったのは、すぐ近くにある“ビッグバーン”というスーパーだったが、何と、8月18日、突然つぶれてしまった。客は結構入っていたんだけどな。どーしてかなぁ?その後、「ふじうら」というスーパーが出店すると看板が出ていた。

  •  ★そう言えば、S仙人さんが、「変な夢を見ることがあるんですよ。こないだも、山の危険な所で寝ていたら、熊に頭をガブリとかまれたまま、谷に引きずり込まれかけるという夢を見たんですよ。」なんて、話していたのを思い出した。とすると、テント中でうなされていたのは、そんな夢を見ていたのだろうか?

  •  ★キロロの音楽テープがひどく歪んでいたり、ちゃんと操作したはずなのに、B'sがテープの反面しか録音されて事態が起こっていた。高松時代に購入したミニコンポのパイオニア・セルフィーは、殆どご臨終が近かった。ある時、全くテープに録音されない状態となってしまった。綿棒にクリーニング液をつけて相当強くこすったおかげで、一時は息を吹き返した。しかし、寿命はそう長くなかったようだ。それに、音質が初めから今一つだったしね。仕方なく、9/6にアイワのCD・MD・テープがついているミニコンポを買うことになった。確かに痛い出費なのだが、5万円以内で収まった。オーディオはずいぶん安くなったんですなぁ。

  •  ★ビデオを編集しようとしたら、編集用のデッキ(何と、2台ともS-VHSなんだな、これが。リッチだね。)の方が故障しているのに初めて気がついた。コンセントを入れても電源が入らないのだ。仕方なく、デオデオに修理に出した。16.000円とちょっとかかるらしい。なんやかんやと金がかかりますなぁ、ホンマに。

  •  ★なんやかんやとすごい出費だったが、何とかやっていけたのは、車を乗り換えるのをあきらめて、10年車検を通したからなのだ。本当は、三菱のディアマンテに乗っていたはずなんだけどなぁ。(もちろんそれとて中古車の予定でしたがね。)

  •  ★9/22に人間ドッグに行って来た。前日、1食しか食べていなかったこともあったが、体重が60.5kgまで減っていた。確かに、バンドの穴を一つきつくしないと、ズボンが下がる状態になっていたからなぁ。一番重い時が65kg程あったから、「よし、よし。」と喜んでいたら、あっという間に63kg位に戻ってしまった。何だかなぁ・・・
  •  1998年9月6日午前1時一応の完成をみる。初め、マイクロソフトのワード6.0というワープロソフトで作成を続けていたが、画像を取り込んでいるうちにトラブルが多発した。そこで、急遽、EG WORD8.0に切り替えて作成し直した。こちらのワープロソフトの方が速いし、トラブルが発生しない。ちなみに、マイクロソフト社のオフィス98は9/4発売で、アップグレード版も店頭で発売していた。それを知っていたら、マイクロソフト社に直接アップグレードを頼むんじゃなかった。またしても、アホー!
  •  9/7に会社に出てみると、オフィス98が届いていた。会社のウィンドウズマシンと互換性がばっちりになったのは喜ばしいことだ。
  •  Power Macintosh MT300スタンダードコンフィギュレーションをメインで使用して作成。1998年10月1日に修正を行った。更に、1999年7月19日に誤字を修正して最終的な仕上げを行う。(EG WORD9.0.1)

  •  ★現在はMac Pro 12コアというタワー型のマッキントッシュパソコンに、ワード2011を使って編集。
  •  
  • S仙人にペンギンさんとのツーショットを撮ってもらった。後ろの山は槍ヶ岳なんだけど、山頂付近が雲に隠れていますね。
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  • この不思議な光景をバックに。いつかきっと、この光景を再び見に戻ってくることだろう。再見!僕の青春は終わらない。

 
  2000年に二度目の燕登山を行いました。でも、女子大学生とはお近づきにはなれませんでした。当たり前ぢゃーああああ。このエロおやじがぁぁぁぁ!



 

燕山荘。
 
風化花崗岩の奇岩達。
 
燕岳は実は蝶ヶ岳より高いのだ。
 
燕岳、それは極めて個性的な山だ。
 
青い空をバックにそびえる奇岩達。
 

大きな荷物はヘリで荷揚げするのだ。当たり前か。従って、シーズン中のアルプスは、ヘリコがひっきりなしに飛んでいて、結構うるさい。
 

憧れのコマクサ。この時期は枯れているものが多い。もっと早い時期に登山できれば良いのだが、それは無理。
 

ペンギンさんと燕岳。
 
カシオペア座とテン場。
 
この登山で知り合ったS仙人さんは、その後、大病をいくつもされましたが、2023年現在、復活されて、沢登りまでされています。さっすがー、仙人だけのことはありますね。「ペンギンさん」は、この何年後かには、結婚されたと、S仙人さんから聞きました。時は流れたー。(2023年10月27日追記)