1979年7月24日(火)〜7月30日(月)にかけて、命をかけた大山星見縦走
 
 1978年夏には、あり得ないほどしんどい思いをして、北アルプスの蝶ヶ岳星見登山を行いました。
 1979年も、個人的には、再度、北アルプス登山がしたかったのですが、正直、お金も体力もないことも分かっていました。それは、タチゲも同じようでした。
 そんな時、タチゲから、バクも大山だったら登りたいって言っているよ、との話を聞いたのだと思います。記録が残っていないため、この辺りが少々曖昧です。
 
 北アルプス登山と違って、2人から3人になり、荷物も分散できるし、しかも「たかだか大山だからな。」と、正直舐めていたところもあったのかも知れません。私の強引な?提案で、大山登山後、縦走して、大川寺方面に降りて、それから、歩いて、心の故郷と思っている鏡ヶ成に行こうと考えていました。
 
 ザックですが、タチゲと私は、1978年に蝶ヶ岳に行った時に使った、76Lの特大のキスリングがあるので良かったのですが、バクは、ザックを持っていませんでした。そこで、1977年に私が購入したフレームザックを貸すことにしました。しかし、耐重量が確か、10kg台だったような・・・重い荷物を積み込んだら、壊れるかも・・・
 
 この年の夏は、なかなか梅雨明け宣言が出ませんでした。
 


 
 7月24日(火)
 
 汽車とバスを乗り継いで、博労座に行きました。その日は、博労座に近い「下山キャンプ場」でテンパる事としました。
 時間があったので、大川寺にも行ってみました。牛の像は、この時もありましたね。
 

牛の供養のために作られたと思われる、この像は、この頃も既にあったのです。(ここより下の方にある博労座は、その昔、牛馬の日本三大市があったそうです。その供養のため作られたのではないかと。)ちなみに、眼鏡が壊れて、ピントがボケた写真になってしまいました。
 
 しかし、この際、私の眼鏡のフレームが緩んで、レンズが外れてしまいました。どうやって修復したのかは分かりませんが、何とかなりました。時計用のドライバーを持っていたのか、接着剤で留めたのか?その辺りは記憶がありません。
 金門にも寄りました。写真を見てびっくりしています。現在の金門の風景とはかなり違っています。両サイドの岩場の先には堰があったのです。草木も今ほど茂っていません。
 

金門から少し降りると、賽の河原があります。写っているのは、体力抜群の「バク」です。
 

あれぇー、現在の金門とは、随分景色が違っていることに気がつきました。大きな岩と岩の間には、現在はない、大きな堰があったのです。(黄色い矢印の箇所)今回、この記録を作るため、写真を整理して初めて気がつきました。
 

金門から見えるこの岩場では、ロッククライミングの練習をしている人がいましたねぇ。
 

これは、2023年11月に撮った金門の岩です。岩と岩の間にあった堰は見当たりませんね。地球温暖化のせいなのか、1979年の時と違って、随分草木が生い茂っていますね。
 
 下山キャンプ場では、「忍法テント歩きの術」とか言って写真を撮りました。しょうもないことで笑い転げる事が多かった時代です。
 

これが「忍法テント歩きの術」ぢゃ。単に後ろの木の上に立っているので、テントの上に立っている様に見えるだけぢゃ。完全なるアホぢゃ。
 


 
 7月25日(水)
 
 ようやく登山開始です。現在の様な階段地獄はありません。しかし、私のキスリングは33kgほどありましたし、後の二人もかなり重たいザックをかついでいました。中学生の頃だったと思いますが、柔道をやっていた「バク」の体力は、とんでもないものでした。しかし、そのバクでさえ、根を上げる程つらい登山になりました。
 

体力抜群の「バク」ですら、重い荷物をかついでの登山は、きつかったようです。ちなみに、手前のキスリングは、私の物で、約33kg程ありましたよ。
 
 ようやく6合目に着きました。まだ薄いガスがかかっていましたが、大山北壁が見えています。その険しさにぞっとします。あの上の縦走路を歩くことが出来るのかって。
 

 6合目避難小屋に着きました。もうバテバテです。写っているのは、前が「バク」で、後ろが「タチゲ」です。
 キスリングが空いているので食事をしたのでしょうか。あるいは、単にパッキングをし直しただけなのでしょうか?
 

これは、左側が「バク」で、右側が、私です。北壁が、薄いガス越しで見えています。これは、怖いぞぉー。
 
 実は後で知ったのですが、この日が梅雨明けでした。
 
 ちなみに、登山中、何故か私は鼻血を出して、それが全く止まりませんでした。持っていたハンカチの全部が赤く染まりました。
 やがて、大山山頂に、息も絶え絶えに着きました。大山山頂小屋は、現在の鉄筋の立派なものではありません。かなり老朽化したモノでした。
 確か、他の登山客も泊まっていたと思います。キスリングを、ある部屋に置いて、その辺りを散策しました。
 辺りが暗くなってから、先に一人で外に出ていた「タチゲ」が叫びました。「蛍がとんじょる。」「否、そんな訳ないだろう。ここは、1.700mを超える独立峰の山頂だぞ。」と言いながら、私も外に出てみました。「あ、えっ、嘘だろう。」そこには確かに蛍が飛んでいました。しかも、時間が経つにつれ、数がどんどん増えて無数の蛍が飛ぶのが見えました。
 「ちょっと、縦走路の方に行ってみよう。」危険ではないところまで歩いてみました。
 「え?え?何だ、これは?これは、現実なのか?」大山南壁から下を見ますと、三ノ沢、二ノ沢辺りでしょうか、無数の蛍の光の大群がジワジワ昇ってくるのが見えました。それは、「美しい。」を通り越して、恐怖すら感じる光景でした。こんな光景を見たのは人生初でした。まるで、「風の谷のナウシカ」に出てくるオウムの光の大群の様にも思えました。
 

とても、あの、神々しい光景を再現することは出来ません。適当?に作った想像図ですが、あの光景とは、だいぶイメージが異なります。
 
 「よっしゃ、写真に撮るぞ。」と小屋に戻りました。しかし、キスリングを置いていた部屋には鍵がかけられて入れなくなっていました。何と言う悲劇でしょうか。この信じられない光景を写真に収めることが出来ませんでした。
 ところで、小屋には、山小屋の主が(割と若い方だった。)連れてきた、子猫がいました。すごく人なつこい猫ちゃんでした。「宇宙戦艦ヤマト」に出てくる、佐渡先生のお供の猫ちゃんのイメージが重なり、「ミーくん」と名付けて可愛がっていました。しかし、夜、寝ようとしても、私の寝袋に入って来ようとして、喉を「ゴロゴロ」ならします。それが、ずっと続くので、さすがに眠れないと、思って追い払ってしまいました。
 ちなみに、小屋にはビールの箱が山ほどありました。どうやら、ボッカの人が人力で上げているようでした。従って、生ぬるいのに400円もしました。
 

この方は、全く知らない登山者です。ベルトを緩めていたので、後日、タチゲが「ここはトイレではありまへん。」とギャグをかましていました。それにしても、とんでもないビールの量ですね。
 


 
 7月26日(木)
 
 朝、「タチゲ」が目を覚ますなり、大声を上げました。「うわぁぁぁ!」「起きたら、あの子猫がシュラフに入っていて、潰したのかと思ったわ。」と。
  結局、ミーくんは全く無事でした。良かったねぇ。
  その後、縦走路を下見に行ってみました。「うわー、これは、危険すぎるな。」そうこうしているうちに、あまり大きくないキスリングをかついだ、見るからにベテランそうな男性がこっちに向かってきました。「どうされました?」「いやー、この先は、私にはとても行けそうにないと思って引き返してきました。」
 「ええ?そんなに危ないところなのか?」正直、縦走をやめる事も選択肢として考えざるを得ないと思いました。
 

見よ、この大山の縦走路を。道は相当に細いうえに、とても、もろいのです。
 

遠くには「烏ヶ山」も見えています。
 

これは、下見をしに行った時に、縦走路から南壁側を見たものです。落ちたら、確実に死ぬな。
 
 尚、この時だったかはよく覚えていませんが、「バク」が、岩で手を切って出血していました。怪我自体は大きな物ではありませんでしたので、ホッとしました。
 さて、夕べのことがあるので、今夜は、山頂小屋で泊まるのをやめて、少し降りた場所にある「石室(いしむろ)」に泊まることとしました。石室の近くには、地蔵ヶ池・梵字ヶ池なる池塘(ちとう)とも言われる、小さな池が2つあります。「水は、ここのものをティッシュで越して湧かして使えば良いやって思っておりました。」しかし、1回だけ使いましたが、濁っており、健康を害する危険性があると思いました。そこで、最終的には、体力的にあまり自信がないタチゲを残して、バクと私で、下山キャンプ場まで戻り、水を補給して、再度戻ってくることにしました。
 

多分、この日のご来光。写真がとても変色していたので、画像処理してもこの程度にしか補正出来ませんでした。
 

この当時は、縦走は完全なる禁止ではありませんでした。これは、縦走路から大山山頂を写したものです。当時は、山頂は、はげ山となっており、崩落が激しかったのですよ。現在では、8合目過ぎから木道が出来ており、そこ以外は歩けません。山頂も「山頂ステージ」と呼ばれる階段状の座る木造構造物が出来ています。
 

水補給の下山は、朝、早くに開始です。朝陽が当たって、岩場が綺麗です。
 

時間が早いので、下界は、大山の影で半分が陰っていました。
 

これは、別山(べつざん)と言う山です。
 

大山北壁が、異常にもろい状態であることが分かる写真です。
 
 下山の際は、学校の行事で登ってくる、団体の登山客が多く、思ったペースで降りられませんでした。しかし、古いアルバムを開くと、通常1時間40分かかるところを40分で降りたと書いてありました。確かに、団体登山客がいない箇所では、二人共、走って下山していましたからね。(でも、この時間って、大山山頂からのものだったのでしょうか?あるいは、石室からの時間?多分、大山山頂からの時間だったと思います。)
 下山キャンプ場では、バクはウンチをたれました。私は、便秘気味だったので、気張ってもダメでした。また、頭をキャンプ場の水で洗ったりして、計20分程休憩をしておりました。
 

下山キャンプ場に再び戻ってくることは、全く想像していませんでした。しかし、水が足りませんので仕方がありません。登る時には「バク」に貸していたフレームザックには、水を沢山入れました。約15kgの重さになっていたと思います。それを私がかついで登ることにしました。

 残しておいたタチゲには、山頂小屋においてある、タチゲ自身のものや、私たちのザックを、無理のない範囲で、石室まで持って降りて欲しいと頼んでおきました。
 私は、水を含めて約15kgのフレームザックをかついで登ってきました。しかし、何と、下山開始して3時間かからずに戻ってしまったのです。(多分、山頂までだと思いますが、石室までだった可能性もなくはありません。)ともあれ、「タチゲ」が「えー、もう戻ってきたかね?」とビックリするほどのスピードでしたからね。

 その時間帯には、学校の行事で登ってきた中学生が沢山いました。
 

山頂に戻ってくると、そこは、中学生の群れ、群れでありました。

 更に、驚いた事に、山頂にいた「ミーくん」がタチゲについて石室まで来てしましました。後で、小屋の主に連れていてあげました。なかなか可愛い子猫ちゃんでした。
 

タチゲ」に抱かれる「ミーくん」。本当に人なつこい可愛い子猫でした。
 

石室は、ご覧通り、主に岩で作られた避難小屋です。夜には、この屋根に登って星を見ていました。
 

これは「タチゲ」が写してくれた、私と「ミーくん」です。元々はカラー写真でしたが、モノクロ印画紙に焼いたものを、Photoshop2024でカラー化したものです。
 

石室の中の「タチゲ」と「バク」です。
 

これは、石室の中で撮ってもらった私。多分、中が暗くてピント出しが出来ないだろうと思って、顔に懐中電灯を当てていたのだと思います。おい、おい、変なタイミングで写真を撮るなよ。それにしても、懐中電灯がとーってもレトロだな。

 その夜、石室のコンクリートの屋根に寝転んで、星を見ました。バクが「おお、すごい星空だ。こんなに見えるんだ。」と喜んでいました。しかし、前年、徳沢や蝶ヶ岳で、すんごい星空を見ていた私には、物足りないものでした。更に、薄雲が出てきて、星空が見えていたのは、そんなに長い時間ではなかったと記憶しています。
 石室は、石とコンクリートで出来た避難小屋で、中には、神様が奉られていました。天井などには、いくつもの落書きがありました。中には、何と大正時代の落書きもありましたね。(後年、何度かこの石室に寄りましたが、何かの工事があるようで、その資材が置かれており、とても泊まることは出来ない状態でした。しかし、ここ最近は行っておりませので、現状どうなっているかは分かりません。
 石室から見える丘が、常念岳、前常念岳に似ていて、昨年の蝶ヶ岳登山の事を思い出して、胸が熱くなりました。
 

何か、常念岳と前常念岳に似ている丘です。
 


 
7月27日(金)
 
 さて、本日は、いよいよ縦走です。天候は、やや曇っている状態でした。「縦走路は、細くて大変もろくて危険なので、自信がない方は、縦走をやめて下さい。」みたいな事が書かれていたと思います。(現在は、山頂からロープが張られており、縦走禁止となっています。まあ、それでも、沢山の方が縦走をしているのが、双眼鏡や300mm望遠レンズで確認出来ております。死ぬなよ、ちゅー感じです。
 (実は、三ノ沢から剣ヶ峰に登るルートがあることを、後に知りました。もしかしたら、縦走ではなく、このルートを登っているのかも知れません。)
 
 縦走路は、最初は、それほど、細くなかったので「用心すれば楽勝だ。」と思っておりました。しかし、それは、最初の方だけで、みるみる道は細くなりました。更に、縦走路は、とてももろく、直ぐにくずれてしまう様な状態でした。一瞬たりとも油断は許されません。
 しかも、私とバクは、昨日、あり得ないスピードで、水補給のため、大山と下山キャンプ場の間をピストンしていました。そのため、足が疲労して、プルプルして、今ひとつ力が入らない状態でした。
 縦走路は、どこも危険だらけですが、一番の難所の「ラクダの背」にやって来ました。見るからに、危険極まりない場所です。「うわー、こんな所歩けるんかいな。」完全にビビっていました。
 と、足がズルッと滑ってしまいました。ラクダの背に手をついたまま、動くことが出来ません。このまま、足が下に滑っても、左右どちらかにバランスを崩しても、滑落してしまいます。それに、私は、横に長くてバランスのとりにくい33kg程のキスリングをかついでいました。「だ、ダメだ。」完全に死を覚悟しました。私自身が死ぬも嫌ですが、後の二人も命の危険にさらすことになります。二人を、こんな危険なところへ連れてきたことを、猛省しました。
 どうせ死ぬなら、何とか登るってみようと思いました。すると、意外にも割と簡単に登ることが出来ました。後の二人も、なんなく通過しました。
 

 良い写真がなかったので「カブのちゅうぶらりんブログさん」から、画像をがめさせて頂きました。どうも、すみません。前に載せていた写真より、こちらの方が、当時のイメージに近いです。もしかすると、当時は、この写真より、もう少し道が広かったかも知れません。(写真を入れ替えております。)
 

これは、2005年8月7日に大山に登った時に撮ったものです。黄色い矢印の所が「ラクダの背」かと思いますが、何せ、崩落が激しいものですので、正直、どこが「ラクダの背」なんか、確定することが出来ませんでした。
 
その後も、道幅はとても狭く、もろいナイフリッジを歩きます。全く気を抜くことが出来ません。その途中だったと思いますが、何とか、キスリングを下ろせる場所がありました。心身とも疲れ果てていました。しかし、生きてここまで来られたんだと、ほっとします。
 

 

これもネットからがめさせてもらった縦走路の写真です。マジ、怖いんですよ。この道が岩で出来ていたら、少しは安心できるのですが、とにかく、いつ崩落してもおかしくないほどもろいんですよ。落ちたら、1.000m程に落下してしまいます。
 

ようやく、荷物を下ろして休めると、感激のポーズをしているタチゲです。天気は、朝とは違って、快晴ですね。
 
 やがて、剣ヶ峰(当時は1.731m、現在は1.729mに変更)に着きました。コンクリートの標識は、周りが崩落を続けているので、土台が少し浮いている感じでした。スペースがありましたので、ザックを下ろして、しばし休憩です。
 

剣ヶ峰で。左が私で、右が「バク」です。
 

こちらは、左側が「タチゲ」で、右が「バク」です。よくぞ、ここまで生きてこれたものだと、半ば放心状態です。
 
 それ以降は、これまで来た道より、いくらかは安心して歩ける印象でしたが、相変わらず道幅はとても狭く、両サイドは絶壁です。全く気を抜くことは出来ません。
 やがて、天狗ヶ峰を越えました。ユートピア小屋も見えています。「ほほう、あれが、三鈷峰の裏側だな。」ここまで来れば、もう安心です。
 

天狗ヶ峰を越えました。ここまで来れば安心と思っていましたが・・・
 

おお、ユートピア小屋が見えるではないか。
 
 しかし、本当の悲劇は、ここから起こります。
 
 これまで、私が先頭で歩いていたのですが、恐らく、体力が有り余っていた「バク」が、先頭を歩かしてくれと言いました。
 そして、振子沢に向かう急勾配の道に入りました。この道が、ある意味とても危険だったのです。草木が生い茂り、下がよく見えません。大きな岩がゴロゴロしているので、かなり用心して歩かないと危ないのです。
 と、後ろで、音がしました。振り返ると、タチゲが、大きな岩の上にうつ伏せで倒れています。慌てて近寄り「おい、大丈夫か?おい、大丈夫か?」と何度も大声で聞きました。しかし、タチゲはピクリとも動かず、返事もありません。マジで死んだと思いました。とんでもない縦走に彼を誘ってしまい、最悪の結末を迎えたと思っていました。
 と、しばらくすると「起こしてくれ。」と返事が返ってきました。彼も恐らく30kgほどのキスリングをかついでいたと思います。何とか、彼を起こすと、その光景に腰を抜かしてしまいました。彼の顔は血だらけでした。恐らく、大きな岩があるのに、草木で見にくかったので、足を踏み外して、顔面から岩に突っ込んだと思います。
 当時の眼鏡は、ガラス製が普通でした。その眼鏡のガラスが割れ、その破片で左頬をざっくり切ってしまったのです。
 しかし、この場所は、どこに下山するにも、相当な時間がかかります。ましてや、元の縦走路を戻ることは、あまりにも無謀です。仕方なく、当初の予定通り「駒鳥小屋」を目指すことにしました。
 「タチゲ」の荷物のいくらかは、私とバクが持つことにしました。いくらかでも「タチゲ」が歩きやすいようにと考えたのです。「タチゲ」の左頬には、持ってきたバンドエイドを貼って出血を抑えました。しかし、彼はそれが気持ち悪かったのか、剥がしてしまいました。彼は顔からポタポタ血を流しながら、歩いています。ぞっとする光景です。
 目指す駒鳥小屋は、まだ随分先のようでした。そこで、体力に自信のあった「バク」が、先に行って様子を見てくると言って、スタスタと歩いて行きました。しかし、いくら待っても彼は帰ってきませんでした。まさか、彼も遭難したのか?
 どれほど時間が経ったことでしょうか?沢が現れました。ようやく「バク」が戻ってきました。「バク」は、左に行って下るところを、右に行って、登ってしまっていたのです。
 そこからは3人で、駒鳥小屋を目指しました。心身ともあり得ないほど疲労困憊していました。
 多分、少し薄暗くなった頃に、ようやく駒鳥小屋を見つけました。しかし、小屋は、90度に近い急斜面を登らないと行けません。とても、そんな体力は残っていません。
 仕方なく、沢の砂場にテントを張りました。寝る時に、もし大雨が降ってきたらどうしよう。流されてしまうんじゃないかと心配になりました。また、ヘッドランプを照らすと、何かの動物の目が二つ光って見えました。多分、小動物のでしょうが、不安しか覚えませんでした。
 テントの中では、疲れ果てているはずなのに、なかなか寝付けません。更に、あまりにも疲れていたので、寝返りすら打てませんでした。
 

これは、多分、翌日、駒鳥小屋から撮った、河原です。駒鳥小屋は、河原から垂直に近い?斜面を登らないとたどり着かないのです。
 

駒鳥小屋に登ることが出来ず、河原にテントを張りました。右側の「タチゲ」は、下を向いていて分かりませんが、左頬は血だらけです。
 


 
7月28日(土)
 
 この辺りからは、記憶が随分曖昧です。
 「タチゲ」の出血は取りあえず止まっていましたが、早く病院で診てもらわないと行けません。しかし、大きな荷物を置いておく訳にもいけません。考えたあげく、最小限の荷物にしたキスリングを私達がかつぎ、その後、彼に渡し、一人で、帰宅してもらうことにしました。(ああ、なんたる非情な決定。)
 記憶が曖昧ですが、僕らも、ザックを駒鳥小屋に置いて、タチゲをアスファルトの道路まで同行したのだと思います。小屋の日誌には「怪我人が出たので、荷物を置いて行きますが、必ず帰ってきますので宜しくお願いします。」と書いておきました。
 「タチゲ」を文殊小屋辺りまで送りました。記憶が定かではありませんが、当時は、バスが走っていたのだと思います。「タチゲ」には本当に申し訳ない決断をしたと思っておりました。
 


 
7月29日(日)
 
 この辺りからは、全く記憶が曖昧ですが、残して置いた荷物を取りに、駒鳥小屋に戻ったのだと思います。
 登山日誌には「昨日、怪我人が出て、荷物を置いて行くと書いてあったが、あの人達は大丈夫だったのでしょうか。」と書いてありました。本当に、人が歩いていないコースですが、あの後、この小屋に泊まった人がいたと言うことですね。
 「バク」と私も、重いザックをかついで下山キャンプ場まで移動しました。
 その後、私は一人で金門に行ってきました。夕陽に照らされて、大山北壁が綺麗に見えていました。しかし、心境は複雑です。当初の計画が頓挫したこともありますが、「タチゲ」には本当に悪いことをしたなって・・・彼の怪我の状態はどうだったんだろうかと思いました。
 その後、「バク」と合流しました。快晴で、遠くに弓ヶ浜がとても綺麗に見えました。「バク」は、「大山って、こんなに綺麗だったんだ。」と一頃言うと、まるで石になったかのように、全く身動きせずにそんな光景を見ていました。
 そんな時、ショートパンツをはいた女子がはしゃいでいるのが見えました。「あの娘達は、大山を誤解して帰るね。」バクがぼそりと言いました。私は、無言のまま、ただ頷いていました。
 

イメージ的になこんな感じでしたでしょうか?
 


 
7月30日(月)
 
 ようやく、バクも私も帰宅しました。
 しかし、今回の件で、「タチゲ」との星見登山は終わったと思いました。仮に、彼が、また登山をしたいと思っても、親御さんが許すはずはないと思いました。
 尚、彼の怪我ですが、病院で診てもらったら、時間が経っていたので、縫合することは出来ず、医療用のテープを貼って、自然治癒することになったそうです。
 
 彼にはとても悪いことをしたなと思いました。そして、もう彼とは山には、登れないことが、とても悲しく思えました。
 
 


 
 ・・・ところが、多分、彼からの誘いで、1980年3月には、島根県の三瓶山に登りました。そこでは、極限の星空を見ることが出来ました。
 更に、1981年3月には、恐らく3m以上の残雪のある大山に登ることが出来ました。
 
 
 1978年夏に行った、北アルプスの蝶ヶ岳登山後、彼からの手紙には、「ヤマト同心」と書いてくれていました。私は、それ以来、彼からの手紙の返事の最後には「再見(ツァイチェン)」と書くようになりました。中国後で「さよなら」を意味する言葉なのですが、日本語とは違って、また会いましょうと言う意味が含まれているので、好きな言葉でした。
 

これは、1993年8月に2度目の蝶ヶ岳に登る前に、当時住んでいた高松のマンションに来てくれた「タチゲ」です。左頬には、当時の傷跡がまだ残っていました。