「貧相アブ衛門」は本名ではない。当たり前。私は単なるアホである。
(2007年の蝶ヶ岳とTOA130Sと、Shadeという3Dソフトで作成した架空の女性とアダムスキー型円盤を合成)


かなりいい加減なHP。随時手直しします。



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  • 蝶ヶ岳讃歌78年

 おぉっと、これは唐突だ。しかも、古いぞぉ。古すぎるぞ。まあ、これが、私の原点だからしゃあないわい。おほほ。笑えよぉ。
★私以外の顔写真は、個人情報保護法のため?基本的にモザイクをかけました。余計に怪しい。


 登山の初心者である二人は、35kgを超える荷をかついで、北アルプスの蝶ヶ岳星見登山を敢行。しかし、実現するまでに、いったいどれだけのことが起こったのだろうか。下手な小説真っ青なほどの障害を乗り越えて実現した登山。これは、星に魅せられたある男達の物語だ。


 

「より素晴らしい星空が見てみたい。」
それは星が好きな者なら誰しも抱く願望である。


 僕が星に興味を持ち始めたのは、中学1年生の時だった。友人のK君が見せてくれた、一冊の簡単な物理学の本がきっかけとなった。それ以来星に魅せられた僕は、翌年、三中理科部の中に新たに天文班を結成した。しかし、松江市の片隅に住んでいたとはいえ、満足な星空に出会うことは滅多になく、完全燃焼ができない状態が続いた。
 

南高時代の観測風景


 
 やがて、松江南高校に進学すると、三中時代からの天文仲間のグビタとラリと共に地学部天文班に入部した。この時、四中出身のタチゲと出会うことになる。地学部の観測は主として、高校の屋上で行っていた。市街地から離れていたおかげで、条件が揃うと結構良い星空に出会うことができた。しかし、それもやがて満足できないものになってしまった。
 そんな時、南高恒例の大山キャンプがあった。その際、自由時間にキャンプ場から少し離れてみたが、木々の間から見えた星達の輝きは、まさに驚嘆に値にした。「山の星空とは、こんなにもすごいものなのか?」実は、これがまず登山の最初のきっかけになったことを当時は知らない。
 

大山鏡ヶ成の流星
(但し、写真はこの年のものではない。1978年?)


 
 翌年高校2年生の時に、再び大山の鏡ヶ成に戻ってくる。地学部としてペルセウス流星群の観測にやって来たのだ。第一夜は、初め曇っていたが、夜半から快晴となり恐ろしい程の星空になった。さらにペルセウス流星群の極大日をひかえ、HR60近くの流星が乱舞した。僕はこの一日ですっかり山の星空に魅了されてしまったのである。また、明け方ぎぼし山の上空にひょっこり顔を出したオリオン座は実に美しく、非常に印象深いものだった。
 

これは、他で撮ったオリオン座を合成したもの。


 
 それから4ヶ月後、「何が何でも、もっと高い山の上で星空が見てみたい。」という強い衝動にかられることになった。天文ガイドの1976年1月号に「蝶ヶ岳の夜」と題した藤井旭氏と川村幹夫氏の星見登山の記事が載っていたからだ。それ以前にも谷川岳の星見登山の記事が載っていて興味を抱いたが、それよりもはるかに強烈な印象を残した記事だった。「ああ、北アルプスかぁ。行ってみたいな。」しかし、当時の僕は大学入試を控えた受験生であったので、その夢の実現は大学に入るまではおあずけとなった。
 

天文ガイド誌に載っていた運命的な記事。実は、その後この雑誌をどこにやったか分からず、困り果てていました。(社会人になる時に、親戚に荷物を一時的に預かってもらったのですが、そのままおいてしまっている可能性が。)しかし、三重県にある天文ショップ「アイベル」で奇跡的に見つけ、デジイチで撮ることが出来ました。めでたし、めでたし。何と30年ぶりにこの天文ガイド誌に会うことが出来ました。ちなみに、この記事には、登山客が多いのは「水色の時」というNHKのドラマの影響ではないかと書いてありました。今は亡き大滝秀治氏と大竹しのぶ さんが主演のドラマでした。設定は、蝶ヶ岳の隣の常念岳です。


 
 1977年、僕は滑り止めに受けた長崎県立国際経済大学(現在は名前が変わっている)に入学し、ラリは大阪大学、グビタとタチゲは広島大学へと進んだ。仲間だった連中は全国にバラバラに散った訳だが、すぐにOB会を結成した。その頃、僕は本で日本アルプスの山々を調べ、すべての条件を満たす山として、北アルプスの蝶ヶ岳(2664.3m)を選び出して、本気でその登山を考えていた。(測量の変更で現在は2.667mとなり、山頂の位置も変更になっております。)しかし、その登山のパートナーを見つけることは容易なことではなかった。日本アルプスで星を見ることに唯一賛成してくれたのはタチゲであったが、その彼も、木曽シュミットや野辺山電波観測所などの天文台巡りを主張していた。できるだけ高い山で星を見てみたいという僕の考えと折り合いがつかず、むなしく時が過ぎていった。
 

長崎県立国際経済大学の近くから見えている愛宕山。(インターネットから)愛宕山(あたご)は、季節ごとにその色を変えた。春の頃は、淡い若葉の色。その後、綠は深くなり、夏になると黒っぽい深い緑になった。


 その年の夏、OB会は大山キャンプを実施することにしたので、蝶ヶ岳登山計画は少なくとも一年は延期されることになった。だが、その大山キャンプで、更に蝶ヶ岳への思いは大きくなり、しかもあるきっかけを得ることになる・・・


 
 大山7月キャンプは、1977年7月15日から21日までの1週間のキャンプであった。
 (7/15の月齢25)
 初日の15日の夜は、初めは快晴であったが、その後ベタ曇りとなった。しかし、わずかの時間ではあったが、顔を覗かせてくれた星空は実に素晴らしいものであった。
 「おーい、あの−1.5等級の白い星、あれ何だっけ?」久しぶりに再会した懐かしいはずの、あの恐怖の星空の中に見慣れない星を見つけ、僕は首をかしげることしきり。
 「あっ、ああ、ありゃあ、アークトゥルスだ。アークトゥルスだよ。」その正体が牛飼い座のα星、アークトゥルスと分かって二度びっくりした。アークトゥルスは、0.1等星。しかもオレンジ色のはずではないか?」
 さらに、誇張抜きで白鳥座のあたりは銀河ですっかり埋めつくされ、その形をなどることが難しかった。「山での星空はなんてすごいんだろう。」改めて感動してしまった。
 

ラリとタチゲ(あーあ、こわっ)モザイクが薄すぎて顔分かりますけどぉ。


 
 15日以降の天候は思わしくなかったが、20日になってようやく快晴になった。観測の準備をして、高校2年の時に利用した草原にやって来ると、不思議なことに忽然と星が消えてしまった。落胆して帰ろうとする。と、また、星空になる。何と、信じられないことだが、その草原の上空にだけポッカリとガスが浮かんでいるのだ。車が来るリスクがあったが、やむなくアスファルトで舗装された駐車場を使用することにした。この観測には、15日から一緒にいたラリとグビタと僕の3人に、18日から合流したタチゲが加わっていた。星空は、15日の時と比べるとやや劣っているように思われたが、それでも下界と比べると比較にならないほどすさまじかった。また、気温がかなり下がり、夏服しか持ってきていなかった僕は、5枚も重ね着をして、更にカイロまで入れていながら震えっぱなしであった。おまけに、ピー、ピー、(初めが低く、後が1オクターブ高い。)という不気味な怪鳥の声が、遠くから近くからこだまして、一人ではトイレにも行けないありさまである。(これは、後で分かったのだが、通称ヌエ、正式名称トラツグミの鳴き声であった。)この夜で一番印象的だったのは、その背後にするどく輝く星達を控えて浮かび上がる烏ヶ山のシルエットだった。それはそれは夢のように美しい光景だった。
 何時くらいだろう、疲労のため、まずラリが寝込んでしまった。そして後の2人も何時しか寝入ってしまった。僕はというと、1つの星が2つに見え、そして4つに見えたかと思うと、後はもう記憶がない。ふと気がつくと、何故だか僕1人が立っていて、後の3人は僕の足元でまだ眠っている。開いていたシャッターを戻そうとでもしたのであろうか。薄明が始まった頃、東の空には木星と金星がギラギラと輝いていた。そして、擬宝珠山(ぎぼしやま)の上には、高校2年の時にも見た、あのオリオン座がかすれそうに光っていた。
 
 この7月キャンプでは、高山で見る星空の素晴らしさを改めて痛感し、蝶ヶ岳登山の実現を更に強く思わずにはいられなかった。
 

これは、当時のイメージを元に合成した写真です。烏ヶ山(からすがせん)は実写したものを、山だけ切り抜きました。星空は、後年、他の土地で撮ったものです。この時のインパクトは今でもはっきり覚えています。それはそれは神秘的な星空で、一種異様な雰囲気でした。


 
 大山8月キャンプは、その目的をペルセウス流星群観測とし、10日から14日までの5日間行った。10日にはジンクスを信じて象山に登ってみたが、曇天に終わった。
 翌11日には、7月キャンプの際実現できなかった烏ヶ山登山を、タチゲと協力者のバクタと僕の3人で実施した。烏ヶ山の標高は1.448mであるから、930mの鏡ヶ成からだと実質518mの登山になる。意外にも急勾配なので、体力に今一つ自信の無いタチゲは一時下山しようとした。しかし、彼もすぐに思い直して僕等の後を追ってきた。途中ウグイスの声がとても心地良かった。山頂近くになって、倉吉産業高校の山岳部の連中に出会った。その中に女の子が二人いたが、一人はとてもかわいい子だった。南高地学部にいた後輩の女の子にも似ていたかなあ。(Kさんという子です。)
 

烏ヶ山山頂(からすがせん)。(ようこんなことするわ。どうでも良いが、足短っ!)
 

その後輩Kさんと。地学部には不釣り合い?な美人でした。しかし、彼女は意外にもかなり気が強い女子でした。それが怪談をしてやるととっても怖がっていた。その時の彼女はとても可愛かった。ところで、この頃のアブ衛門は「ブルー・スリー」カットでした。
 

この頃の鏡ヶ成は、現在の鏡ヶ成とは随分違いますねぇ。


 
 山頂に着いたのは、鏡ヶ成を出発して後、1時間足らずのことだった。時よりわずかに雨が落ちてくる山頂は寒いくらいだったが、非常に心地良かった。登山の魅力は、まさにこの一瞬尽きると感じざるを得なかった。本当に心地よい疲労感だった。
 登りは人の2倍以上のスピードで登ってきたが、下りは人並に1時間半かかった。(あれ、そんなにかかったはずは・・・?)それから、ジンクスを信じて、同行して来た南高地学部員の連中と一緒に象山に登った。ものすごいガスで、下は全く見えなかったが、そのガスの中を乱舞する赤トンボが実に印象的だった。
 その夜、象山登山のかいもなく鏡ヶ成の上空はガスに覆われたままであった。(一説には、後輩の一人が登山しなかったから晴れなかったのだとも言われている。)次の夜も、星空はその姿を僕等の前には現してくれなかった。そこで翌日、地学部員達は下界に降りて、「玉湯」で観測すべく、大山を後にした。しかし、グビタ、タチゲ、バクタ、ボウゲ、そして僕の5人はもう一晩粘ってみることにした。だが、初めは星空が見えていたものの、すぐに曇ってしまった。
 ところで、この8月キャンプでは、2度も奇妙な現象に出くわしている。1つは、夜中、バクと僕が小道を歩いていると、後ろで誰かが呼び止めるので振り返ってみたが、誰もいなかったというものである。見晴らしが良い場所なので、とても隠れるところはないはず。おまけに、2人共何と言って呼び止められたかも分からなかったのである。つまり「人」に呼び止められた証拠は何一つ無いのだ。2つ目は、7月キャンプの際「発狂トンネル」と名付けた所で、突然「カン、カン。」という音がしたというもの。音が出る原因は何一つ考えられないのだ。また、後で聞いた話では「発狂トンネル」のすぐ近くの橋の上でも、ラップかも知れないその音を、後輩の地学部員達が聞いていた。
 
 やがて夏休みが終わり、前期試験も終わって一段落着くと、僕は再び蝶ヶ岳登山の計画を練り始めた。そんな時である。タチゲから蝶ヶ岳登山計画に賛同する主旨の手紙が届いた。何と、大山8月キャンプで烏ヶ山に登ったことが、嬉しい誤算を招いたらしい。あの登山で、彼は、登山の楽しさを知ったようである。(これは、後で本人に聞いた話であるが、彼が天文台巡りを主張して、蝶ヶ岳登山計画に耳を傾けなかったのは、何も反対する気があった訳ではなかったそうだ。天ガに載っていた、あの記事を覚えていなかったので、単に「蝶ヶ岳」という観点がなかったにすぎない、ということだった。)
 僕の計画は急速に実現化に向かって加速したように思われた。しかし、その後状況は一変して最悪のものになってしまった。タチゲとは冬休みに一度会ったのを最後に、その後全く音信が途絶えてしまったのだ。春休みには皆既月食があったが、彼は松江には戻って来なかった。同じ広島大学に通うグビタは、「タチゲは登山のためにバイトでもしているんだろう。」と言ってくれたが、本人からの連絡がいっこうにないので、僕の疑惑は日毎に増すばかりであった。春休みが終わってからも、タチゲとは全く連絡がとれない状態が続いた。「あいつは、蝶ヶ岳登山どころか星すら捨ててしまったのかもしれん。」落胆のあまり僕自身が星への情熱を失いかけていた。やがて、僕は浪費を重ね、登山資金が全く無くなってしまった。しばらくして、グビタにタチゲの様子を手紙で教えてもらったが、やはり「登山のためにバイトをしているのだろう。」と同じ内容だった。しかし、僕はタチゲを信じることにした。否、信じる以外方法がなかったのかも知れない。
 

・・・2021年8月14日になって、この撮影場所が「八雲立つ風土記の丘」ではなかったかと思っております。皆既月食を撮った場所です。(場所は、風土記の丘ではなく、国分寺跡であることが分かりました。)


 
 5月も末、待ちに待ったタチゲからの手紙が届いた。その手紙を読んだ時の嬉しさといったらなかった。まるで恋人からの手紙のように喜んだ。否、それ以上だったかも知れない。彼は工学部に在籍していたので、勉強だけでも大変なところへ、グリークラブにも入っていた。そんな多忙な中、新聞配達のバイトまでして登山資金を作っていたのである。
 

タチゲからようやく来た、きちゃない字の手紙。


 
 しかし、喜んでばかりもいられなかった。何故なら僕には一銭の登山資金も残っていなかったからだ。おまけに、当時所属していた少林寺拳法部は、結構金がかかった上に、暇がなくてアルバイトなどとてもできる状態ではなかった。そこで、昼飯を抜くなどして節約して少しでも金を貯めることにした。決して順調とは言えなかったが、それでも、僕の計画は少しずつ実現化に向かってまた進み出していた。
 
 だが、そんな時ショッキングな事故が起こった。
 
 1978年6月14日のことである。1時限目の講義に出ていると、友達が、放心しきった表情で僕の所までやって来ると「Mが死んだ。」とボソリと言った。僕は前日の4時限目まで彼とは一緒にいたので、初めは「変な冗談言うなよ。」と全く相手にしなかったが、その友達があまりにも真剣なのでひどく不安になってきてしまった。そして、講義が終わると、新聞を見に大学の図書館に走った。友達が言っていたように、M君の事故死の記事が載っていた。信じたくはなかったが、紛れもなく現実に起こったことなのだ。ショックのあまり、僕には、ある1点のみが見え、その回りは霞がかかったようにぼやけてよく見えなかった。彼とは、それほど親しいつき合いがあった訳ではない。しかし、登山に関しては全くの素人だった僕が、最初にアドバイスを受けたのが、ワンダーフォーゲル部の、このM君だったのだ。しかも、近々更に詳しい話をしてもらう矢先のことだった。
 その後、僕は原因不明の微熱が1週間ほど続いた。
 
 
 彼がわずか19年の生涯を閉じたのは、佐世保市内にある牽牛崎(けんぎゅうざき)という海の見える岩場だった。6月13日、同じゼミで午後4時半頃まで一緒にいたのに、そのわずか1時間半後、登山の練習中に、落石を後頭部に受けて即死してしまったのだ。その年の梅雨は、ひどいカラ梅雨で給水制限まで行われたが、その事故の前日には、バケツの水をひっくり返すような大雨が降り地盤がかなりゆるんでいた。
 牽牛崎は見晴らしがとても良いので、日没の写真や、星野写真を撮りにその後も何度も出かけた。
 

彼が亡くなったのは、海の見える岩場。石原裕次郎主演の伝説の刑事ドラマ「太陽に吠えろ」のロケ現場になった場所とか?私は、写真の手前の岩場辺りで、何度も一晩中天体写真を撮っていました。
 

牽牛崎には何度も星を撮りに出かけた。狭い岩場の下は断崖絶壁だ。遠くには漁り火の光が。


 
 やがて待望の夏休みが来た。父親のカンパと節約のおかげで、自由になる金が3万程貯まっていた。僕は広島へと急いだ。タチゲと半年ぶりの再会である。また、わざわざ広島へ立ち寄ったのは、もう一つ理由があった。松江ではとても手に入らないと思われる登山用品の購入がそれである。
 M君が亡くなる少し前から、ゼミで知り合ったワンダーフォーゲル部のE君からもアドバイスを受けていた。(ワンダーフォーゲル部はこの事故で1年間の休部となった。そして、1年後、E君が部長となり再開する。)そのE君が言うように、リュックはキスリングにした。ミズノの76リットル入る特大のものである。エアマットは、E君は全身用のものを勧めてくれたが、重いうえに値段もはったので半身用のものを購入した。そらから登山シューズは、初めはキャラバンシューズで済ませるつもりでいたが、値段が意外に安かったのと、(9.000円)見栄のせいで、結局アイガーの黒い登山靴を購入してしまった。それにしてもタチゲも僕も同じ所で買い揃えたので、同一のものが実に多くなってしまった。尚、広島で購入したものの総額は予定の3万円を越えてしまった。
 広島から松江に帰ると、島根県の隠岐島へ渡り、7月13日から10日間、ホテルの雑用のバイトをやった。本来のアルバイト料は安いものだったが、少々のコネがあったのと、オーナーがとても良い人だったので、結局4万円もらって松江に戻ることができた。
 僕が松江に戻ってきた時には、タチゲは用事を済ませて自宅に帰っていた。そこでさそっく不足していた登山用品を買い揃えに出かけた。まずコンロだが、これが意外にも見つからず、何軒もスポーツ用品店などをかけずり回るはめになる。結局、安全性や経済性などを考えて、オプティマスの石油ストーブ(灯油コンロ)を購入した。それから、食料だが、初めは「ビフィーズ」(フリーズドライ食品)を予定していたが、松江では全く手に入らなかったので、当初の計画が大幅に狂ってしまった。とかく松江ぐらいの都市では、思い通りの品は手に入らないものである。
 大幅に狂ったといえば、登山の訓練もそうである。当初の計画では、ワンゲル部のように、キスリングに砂をつめて、それをかついで階段などを登る訓練をしようと思っていたが、結局暇がなくて1日たりとも実施することができなかった。 
 何日のことだったか、夜2人きりで、観測の予行演習をした。登山靴をはき、ニッカボッカーをはいているのだから、人が見ていたら何と思っただろうか?ところでこの予行演習の際、高橋の簡易雲台を、10cm反赤の方に付けたまま、取り外すのを忘れてしまったので、本番の登山の際、非常に困ることになってしまうのである。
(しかし、この予行演習に、何故、10cm反赤や自転車が必要だったかは、今となっては永遠の謎である。)
 

乃白町の水道道(すいどうみち)で行った予行演習。


 
 1978年7月27日
 夕べも遅くまで出発の用意をしていたが、さすがに2週間の旅ともなると大変なもので、とうとう今朝も4時50分から起きてゆうべの続きをするはめになってしまった。
 76リットルの特大のキスリングには、登山に必要な一般装備に加えて、カメラ、200mm望遠レンズ、TS式40mm屈赤H型、TS式7×50防水式双眼鏡、照明装置などの観測資材を詰め込んだ。そして、さらにそのキスリングの上には、2.4kgの写真用三脚と、4~5人用の重い家型テントをロープでくくり付けた。予想していたとはいえ、おっそろしい重さになってしまった。2階の自分の部屋から1階に降ろすのですら一汗かいてしまう。「はあーあ、本当にこんなモンかついで山なんか登れるんかいな?」出発する前からひどく不安になってしまった。いったいどれくらい重さがあるのかヘルスメーターで計ってみることにした。針がビンビン動いて正確には分からないが、少なくとも36kgは越えているようだった。ドエライ重さではあるが、「うちの大学のワンゲルでは、一人平均35kgだよ。」とE君が言っていたのを思い出して、「同じ人間がやることだから、まあ、何とかなるだろう。」と、半ばあきらめの気分で出発を待った。
 

79年大山で撮ったキスリング。だいぶ軽量化に成功したが、この時も33kgほどあった。
 

Shadeという3Dソフトで作ったヘルスメーター。37kg近いのか?


 
 8時頃、オヤジの車に乗せてもらって松江駅にやって来た。当たり前のことだが、登山の格好をしているのは僕だけだったので、何ともはや恥ずかしかったが、その反面、「どうだ、すごいだろう。」と、変な優越感にも浸っていた。やがてタチゲが、これまた大きなキスリングかついでやって来た。それにしても2人の格好は、まるでペアルックのように似ているではないか。美津濃のキスリング、アイガーの登山靴、同じニッカーホース、緑色のキャップ。よくもまあこれだけ同じものを買ったもんだと感心してしまう。違うところと言えば、上着と、ニッカボッカーの色ぐらいだけか。
 しばらく雑談をしていると、グビタと、中学時代の友人のヨシトが見送りにきてくれた。朝早く、こんな所まで来てくれるなんて思ってもみなかったのでひどく感激してしまった。
 やがて改札が始まった。いろいろなことがあったが、否、ありすぎたが、北アルプスで星をみるという2年7ヶ月来の夢に向かって今出発するのかと思うと、興奮を押さえることなどとてもできなかった。しかしながら、出発する時の、あの、一種異様な緊張感と興奮こそ、旅の最も素晴らしいもの一つだと思う。
 8時41分、僕らを乗せた急行「大社」は、グビタとヨシトが見送る松江駅を後にした。以前は、タチゲが名古屋までは新幹線を使うことを提案していたが、金銭的理由から僕がそれを断固反対したのだ。そのため、上高地まで何と24時間近くもかかってしまう予定だ。
 初めは楽しく談笑していたが、何のゲームも持って来ていなかったのですぐに退屈してしまった。列車の中は冷房がしてあったが、ニッカーホースや登山靴をはいているので、足だけは熱くて仕方がなかった。
 列車が松江駅を出てから2時間程たった頃だろうか、突然タチゲが吐いてしまった。タチゲがバスに弱いことは大山キャンプでもよく知っていたが、まさか鉄道にも弱いなんて思ってもみなかったので、全くうろたえてしまった。「おい、おい、気分が悪いんなら、ちゃんと言ってくれよ。」「さっき吐き気がしたけん、便所に行って吐こうと思ちょったけど・・・」近くにいたおばさん連中は、「あちらへ行きましょうかね。」とわざとらしく言い合いながら、席を変わってしまった。タチゲはすぐに自分の吐いたものの上に新聞紙をひいて、後かたづけをし始めた。バスの時とは違って結構元気にしているのがせめてもの救いだった。
 

タチゲが元気だったのは、ほんの最初だけだった。


 
 しかし、その後タチゲは数回に渡ってトイレで吐き続け、名古屋に着いた時には、半死半生の状態となってしまったのである。
 キスリングを降ろして、タチゲを待合いの椅子で横にさせると、僕は急いで薬局を探しに出かけた。しかし、時間が遅かったので、ようやく見つけた薬局も既に閉まっていた。
 そのうち駅の構内にクライマー達の行列ができているのに気がついた。何だろうと、辺りを見回すと行列の一番前に「急行いそ5号とつがいけ2号にご乗車の方は、ここに2列にお並び下さい。」と書いてあるではないか?あわてて向こうの方においてあった自分とタチゲのキスリングを運んで来て順番を確保した。それにしても、どちらのキスリングもドエライ重さで、わずかの距離を背負いバンドを二の腕で抱えて運んだだけなのに、腕のあっちこっちが、内出血してしまった。そのうち、タチゲも待合い室から出て来て列に並んだが、相変わらずぐったりしている。仕方がないので、その上に寝かせることにした。行列を見渡すと、どのクライマーも楽しそうにおしゃべりをしている。「この旅はタチゲとの友情の結晶でもあるんだ。」と、はりきって家を出てきた時のことがふと思い出されて、やりきれない気持ちになった。
 しばらくして駅弁を買ってきて、空腹をいやした。だが、タチゲは包を開いてみたものの、やはり箸をつけることはできなかった。僕が「おい、大丈夫か?」と何度も聞くと、死にそうな声で「今夜はここで泊まろう。」とぼそりと言葉を返した。相手が病人なので何も言えなかったが、本音を言うと、僕の心中は穏やかではなかった。この旅を実現するまでに、いったいどれだけの出来事が起こっただろうか?5ヶ月半も音信が途絶えて、一時は登山どころか星への情熱すら失いかけた時のことや、昼飯を抜いて節約したり、アルバイトしたりした時のことが次々に頭の中をよぎっていった。本当はタチゲに大声で言ってやりたかった。「M君が死んだ時、俺はどんなことがあっても蝶ヶ岳に登ろうって決心したんだ。今更こんな所でやめられるか!」だがよく考えてみれば、新聞配達のアルバイトまでして資金を作ったタチゲなんだから、本心は僕と同じ、否、もしかしたらそれ以上に蝶ヶ岳に登りたいはずだ。乗り物酔いの経験の無い僕は、自分の心の狭さを反省した。
 その後、幸運にも事態は好転した。否、皮肉にもと言った方がよいのかもしれない。5時間もの待ち時間が幸いしたのだから。その5時間の間中、タチゲは横になっていたので、改札の時にはいくらか元気を取り戻すことができたのである。初めは松本止めのきそ5号に乗るつもりだったが、そちらの方にはとても乗られそうになかったので、後ろに連結してあった、つがいけ2号に乗り込み、何とか座ることができた。列車は、クライマー達で通路まで超満員だった。そしてタチゲはと言うと、相変わらず目もうつろでぐったりしていた。僕も睡眠不足や疲れのせいで、気分が悪く吐き気すら覚えた。


 
  7月28日(21時の月齢19)
 つがいけ2号のなかでは、しばらくは誰一人寝ようとせず、騒々しい状態が続いていた。
 隣を見ると、名古屋駅で見かけた女性のパーティーと1人の青年が楽しそうにおしゃべりをしていた。旅に出る前はそういうふれ合いをすごく夢見ていたのだが、タチゲがこういう状態では仕方がなかった。僕は隣の連中の話にそれとなく耳を傾けていた。その青年は、かなりのベテランクライマーで、今回は立山でロッククライミングをするのだと話している。一方女性のパーティーは、「夏山JOY」誌でも推薦していた、あの白馬岳に登るとのことだった。しばらくして、その青年が「ここ数年、アルプスでは8月の最初の週は天気が悪いよ。」と言うのが聞こえてきた。ワンゲルのE君も「今年のアルプスは天候不順らしいぞ。」と言っていたので、ふと、接近しつつあるアベック台風のことが気にかかった。「山頂で台風の直撃なんてごめんだぜ。」と、今度は「河童橋の所で、梓川に入って泳いだ奴がいるよ。」などと話をしているのが聞こえてきた。
 騒々しかった車内だが、やがていつの間にか嘘のように静まりかえった。タチゲは死んだように眠っている。お隣さんもすっかり寝入っている。しかし、僕は松本に着いたらタチゲを起こして列車を降りなければならない。そのためじっと我慢して起きていた。何もすることがないので、ただぼんやりお隣さんの寝顔を見ていた。その中に、横顔が高校時代に、何となく好きになった娘にそっくりな娘がいて、改めてはっとしてしまった。(同級生のKさんでした。。彼女はその後同級生と結婚している。)あの苦しくもあり楽しくもあった高校時代を思い出さずにはいられなかった。
 そうこうしているうちに午前3時半になったので、気の毒とは思ったがタチゲを起こした。列車がまだ暗い松本駅に着いたのは、それからわずか7分後のことである。しかし、車内は相変わらず通路まで超満員だし、糸魚川(いといがわ)まで行くこのつがいけ2号からは、松本で降りる人は殆どいないのだ。そこで、窓からの脱出である。それは、北アルプスの入り口、松本ならではのことで、なかなかの風情があった。
 松本電鉄のホームは国鉄の構内にあり、おまけに4時5分には臨時増発便が出ていた。アルバイト学生とおぼしき人から上高地までの切符を買い、電車が来るのを待った。間もなく電車が来たが、僕はキスリングが重くてとても機敏に動けそうにもなかったので、最後に乗り込んだ。ふと気づくと、タチゲがいない。「しまった。置いてきてしてしまったか?」あわてて車内を見回すと、何と向こうの方でちゃんと座っているではないか。あの死にそうな身体でよくもあそこまでダッシュできたものだと、僕はあいた口がふさがらない。
 ところで、車内はやはりクライマーがほとんどだったが、それでも上高地への、いわゆる観光客とおぼしき者がいなかった訳ではない。むこうには、普段服を着た男の子が何人かいたし、僕のすぐ近くには、ピクニックにでも行くような格好をした高校生らしき女の子が3~4人いた。
 やがて電車は、終着の新島々(しんしましま)に着いた。まだ陽も当たらぬ寒い朝のことである。電車から降りた時タチゲはまだ吐き気がとまらないようすだったが、すっかり空になになってしまった胃からは出るものもなく、ただツバを吐くだけだった。タチゲのことを考えると、そこでしばらく休んでいようと思ったが、タチゲ本人が大丈夫と言うので、すぐにバスを待つ長い行列に並んだ。バスが来るまで辺りを見回していたが、新島々からの眺めには、大変驚いてしまった。と言うのは、北アルプスが目と鼻の先の距離にあるはずなのに、どこを探しても北アルプスの山々は一つとして見えなかったからだ。どこにでもある田舎町といった印象なのである。それは残念と言うよりはただ単に、全く予想外の光景で気が抜けてしまったと言うのが本音なのだ。
 しばらくして僕等は、最後のバスにようやく乗り込み、新島々を後にした。タチゲのことが心配なので、タチゲの隣に座っている人と席を変わってもらった。いつの間にか、他の人達は殆ど寝てしまったが、僕はタチゲのことが心配だったし、この際途中の景色を全部見ておこうと思ってずっと起きていた。
 途中、幾つものダムが窓越しに見えた。今年の夏は全国的に水不足なのだろう。どれもかなり水位が低下していて、地肌がむき出しになっていた。しばらくすると、トンネルが多くなってきたが、そのうちの1つはとてつもなく長かった。40~50km/hで走っているのに、何分間も出口に出られなかった。僕等の席は前の方だったので、有名な釜トンネルも見ることができたが、入り口の所が岩でむき出しになっているのは分かったが、期待していたほどの感動はなかった。
 ところで、バスの車掌だが、どうやらアルバイト学生のようで、その説明はヘタクソだったが、運転手の方はすごい腕であった。ヘアピンカーブでもあまりスピードを落とさずにスムースに曲がっていくし、途中の工事現場では、トラックが停まっていてとても通られそうにないカーブを、車体をバンクさせて、なんなくすり抜けてしまった。また、トンネルの信号待ちで止まっている時には、路上のゴミを片づけたりして、すごく好感が持てる人でもあった。
 上高地に近くなって、突然すっぽりガスに包まれてしまった。「はあ~、さすがは北アルプスだな。」と、一時は目をまん丸くして感心したものの、期待していた大正池は見ることができずガッカリである。そして何よりこれからの天気が心配になってしまった。
 午前6時、バスは上高地のターミナルに着いた。電車もバスも臨時増発便があったおかげで、当初の予定よりも2時間も早い到着である。しかし、相変わらずガスに覆われて何も見えないし、かなりの寒さである。トイレの方に目をやると、案の定、長い行列である。
 

上高地の駐車場。タチゲも元気を取り戻している。それにしても、写っている車の車種が古いですなあー。まだマイカー規制も無かった時代です。背景の焼岳は淡い写りだったので、画像処理で何とか表現してみました。今では、手前の木々が成長してしてしまいました。現在この場所から焼岳を見るとは多分出来ないじゃないかなぁ。
 

あんりゃまー。ゆうてるはなから、嘘だったことが判明。2013年8月に、バスターミナルから焼岳が見えていることが判明。苦節35年でこの場所からの「焼岳」に再会しました。


 
 僕等はキスリングを降ろすと、さっそく登山届をする事にした。しかし、今までタチゲと詳しい日程を決める余裕がなかったので、その場になって急きょ決めることになった。一応、徳沢で1泊し、翌日には蝶ヶ岳に登り、8月3日には食料調達のためいったん下山する旨記入した。その後、ターミナルの食堂が開くまで展望台のような所でぶらぶらしていた。タチゲはすっかり元気を取り戻していた。ただ、列車の中で胃の中のものをすべて吐いてしまったうえ、夕べは駅弁も食べられなかったので、「腹減った。」を連発していた。どれくらいたった頃か、ふと空を見上げると、ガスがみるみるうちに晴れていって、そそり立った黒い山々がその姿を現し始めた。それは、思わず背筋が寒くなるような、恐ろしいほど神秘的な光景だった。
 

2009年に撮ったもの。あの黒い山は、右の方の山だった可能性が高い。実は、この山を探すのに何年もかかってしまった。駐車場のずっと奥に行かなければこの構図で見られないからです。


 
 やがてガスはすっかり消えてしまい、焼ヶ岳もその巨大な姿を現した。そしてそのてっぺんには、噴煙もわずかに見ることができた。それにしても写真でしか見ることのできなかった焼ヶ岳を、こうして実際に見ていても、何だか夢の中のことのようにしか思えなかった。本当に僕らは上高地に来ているのだろうか?そんな気すらしていた。
 それから間もなく食堂が開いたので、僕等は、さっそく天プラうどんを注文した。だが、出てきたのは、なんと、狐うどん。何度抗議してもいっこうに取り合ってくれないので、仕方なくその狐うどんを食べることにした。腹ごしらえをすると、今度は灯油探しである。というのは、初めは持参するつもりだったが、重くなるうえ、列車やバスの中に危険物の灯油を持ち込むのはまずいんではないかと、結局持ってくるのをやめてしまったからだ。それに、「上高地にはバスターミナルがあーけん、灯油ぐらいあーに決まっちょうがや。」と実に安易に考えていたのだ。しかし、あちこち探し回っても灯油を売っている所はどこにもない。灯油がなければ、僕等は食事を作ることができない。従って登山もできない。ほとほと困り果てて、キスリングを置いておいたターミナルに戻って来た。すると、なんと、すぐ近くに灯油のドラム缶があるではないか。部屋の中でストーブを炊いているところからして、これはきっとその燃料なのだろう。少々恥ずかしかったが、下界での数倍の料金を払って、4リットル程分けてもらった。
 灯油を手に入れたので、すぐに出発した。重いキスリングにあえぎながらしばらく歩くと、あの有名な河童橋が見えてきた。そして、そのバックには前穂や奥穂が見えている。僕は感激に浸るというよりは、むしろ放心状態でその光景に見とれていた。何だかこの風景は偽物ではないかと思えてしょうがなかった。逆光でかなり白けて見えていたが、あの永い間憧れていた景色が今ここにあるのだ。河童橋の下を流れる梓川はどこまでも透き通っていて、その清流には、アヤメだろうか、イワナだろうか、何匹も魚が泳いでいた。土手を下って、梓川の中に手をいれてみると、信じられないくらい冷たかった。つがいけ2号に乗っていたあの青年の話はとても信じ難いものに思えた。しかし、もしここで本当に泳いだ者がいるとしたら、どんな神経、どんな身体をしている人間なのだろうか。穂高の方に目をやると、その水面からしきりにガスを発生している梓川と実によくマッチしていて、何とも幻想的な気分になった。
 

憧れの風景。しかし、現実のモノのような気がしなかった。
 

上高地の梓川の河畔にて、温度差のためガスが発生している。


 
 しばらくはそんな景色に心を奪われていたが、あまりのんびりもしていられなかった。なにせ、目指す徳沢はこの河童橋からでも6.7kmもあるのだから。いくらか歩くと、出会う人出会う人すべてが、「おはよう。」とか、「こんにちは。」と声をかけてくれた。それは山ではごく常識的はことなのだろうが、とても気持ち良かったので、それ以後、僕等もすすんで挨拶をした。またしばらく歩くと、今度は後ろから中国語が聞こえてきた。中国人の家族のパーティーのようだ。彼らは非常に陽気で、楽しそうにおしゃべりをしたり、歌を歌いながら歩いていた。そのうち、タチゲも僕も喉が乾いてきてしまった。そこで、土手を滑るように降りて行って、梓川の水を水筒いっぱいにくんだ。そこからは、明神岳がとても美しく見えていた。土手を登ってもとの道に帰ると、何と、あの中国人のパーティーも明神岳を見ながら休憩していた。
 そこで、タチゲが「お国はどちらですか?」と、愚かにも日本語できくと、ちょっと変なアクセントではあったが、「中国でぇーす。」と、ちゃんと日本語で答えてくれた。彼らはそこで記念撮影をやり始めたが、カメラを持ったジミー・ウォングによく似た少年は、(昔の香港アクションスター。)日本人のパーティーが通りかかると突然「もうちょっと、こっち、こっち。」と日本語をしゃべりだした。この人達、いったい何なの?
 

これは、1972年公開の香港映画「片腕ドラゴン」のジミー・ウォング氏。
 

その場所からは、明神岳が実に美しく見えていましたねぇ。


 
 やがて、徳本峠(とくごうとうげ)の入り口の標識を過ぎると、枯れ木や倒木の多い所にさしかかった。地面には辺り一面白い砂がしきつまっていた。初夏の頃一時的に大雨が降ったと、ニュースで言っていた記憶があるが、恐らくその大雨の仕業なのだろう。枯れ木の上には、先の尖った明神岳がそびえていた。それはそれは幻想的な光景だった。
 

 
これは、帰りに撮った白沢のタチゲ。実は昔土石流があったために出来たらしい。今では周りの木々が茂ってしまって随分違った風景になっている。それにしても、帰りでもこのキスリングの大きさ。タチゲによると、この帰りの時点でキスリングの重さは30kgを超えていたらしい。
 

これは、帰りの私。キスリングからカメラを出した途端、冷え切っていたカメラが結露してしまった。しかし、帰りなのにキスリングがでかい。こんな荷をかついで登山なんて、今じゃ死んでも出来ません。
 

1993年の白沢。木々が繁り始めましたが、まだ「白沢」のイメージは残ってます。
 

2013年の白沢。もうこうなってくると「白沢」のイメージが無くなりつつある。


 
 そこから少し行くと、ようやく中間点の明神に着いた。ここでは充分に休憩をとった。腰には激痛が走り、身体もすっかり疲れきっていた。この登山の計画当初には、「明神岳にも行ってみてもいいかな。」などと実に愚かなことも考えていたが、現実はそんなに甘いものではなかった。
 炭酸飲料水を飲みほすと、また、重い、重いキスリングにあえぎながら歩き始めた。しかし、もうとても一気に進むことはできず、途中何度も休憩をとらなければならなかった。あまりの苦痛に、「もしかしたら、徳沢にすら行くことができんかもしれない。」と本気で考えた。やがて、あちこちの痛みに耐えられなくて、完全にグロッキーになってしまった。もう、一歩も歩きたくなかった。
 それでも、徳沢の標識が見えると最後の力をふりしぼって歩いた。キャンプ場に着いた時は、既に9時半を回っていた。だが、よく考えてみると、バスターミナルから2時間20分で徳沢に着いたことになるから、思ったより早く着いたことに驚いてしまった。
 しばらく草むらの上で休憩をした後、井上靖の小説「氷壁」の舞台になった徳沢園に行って、キャンプの許可をもらった。その時タチゲの陰謀で、僕はリーダーということにされてしまった。
 キャンプ場は、昔、牧場だったとかで、平坦なうえ草が一面に生えていた。テントを張るにはかなり条件が良い場所だ。水は徳沢園の脇に水道があるので不自由しないし、洗い物も、梓川の支流でできるのだ。(残飯は流していないと思いますが、それでも、洗い物はしちゃ駄目ですよねぇ。)まずは満点のキャンプ場ではないか。おまけに、西の方角には、明神岳と前穂が見えていて景色も最高である。その前穂にはまだいくらか残雪があり、双眼鏡で見ると、残雪が溶けて滝になっているところも見えた。
 

井上靖の小説「氷壁」の舞台となった ”徳沢園”


 
 何時頃だったか、観測場所を探しに辺りを探訪した。梓川にやって来ると、僕はすっかり蒸れてしまった足を水につけてみた。冷たいなんて、そんななま優しいものではなかった。痛い程の低温だった。タチゲはというと、さっそく手ごろな石を見つけると、それにドッカと腰を掛けた。タチゲはその石がかなり気に入っているようだったので、僕はその石を「タチゲ石」と命名した。その後もその辺りをうろついていたが、結局、梓川のほとり以外に視界がきくところがないことが分かったので、キャンプ場に戻ることにした。
 

「タチゲ石」に腰かけるタチゲ。(その後は盆休みにしか来たことがないが、7月の水量は結構あるねぇ。)


 
 昼飯の時大変なことが起こった。オプティマスストーブが故障しているのだ。灯油がこぼれぬように蓋を固く締めつけたため、鉛のパッキンが、蓋の方にくっついてしまったのである。ストーブが故障しては食事は一切作れない。あまりのことに顔面蒼白になってしまった。しかし、何とか直すことができてホッと胸をなでおろした。なんて言うことはない。鉛は柔らかいのだから、強引にほじくり出して、これまた強引にセットし直せば良いのである。
 さて、肝心な天気の方だが、晴れ間はあるものの明神岳と前穂には常にガスがかかっていて、到底快晴になる見込みはないように思えた。しかし、準備だけはしておこうと思って、TS式40mm屈赤H型を組み立ててみた。しかし、簡易雲台が見あたらない。おかしい。「どげしたかいな。予行演習の時にはちゃんとあったにな。」必死になってキスリングのあちこちを探し回っていると、ちょうどその時、立命館大学のワンゲルの人がやって来て、いろいろときいてきた。「やっぱり、103aEで撮るの?」などと言うことからみて、結構天文に詳しい人のようだった。そして、別れ際に、「今夜写すんだったら、見に来るかもしれないよ。」と言った。まさかこんな所で天文ファンに会えるなどとは思ってもみなかったので、とても嬉しかったが、事態はそれどころではないのだ。簡易雲台はどこに行ったのだろう。(実は、予行演習の際、10cm反赤の方に付けたまま取り外すのを忘れて、持って来ていなかったのだ。)
 

下山後に撮ったものです。灯油を使うオプティマス石油ストーブ。
 

簡易雲台をShadeという3Dソフトで作ってみました。


 
 空は相変わらず雲が多かったが、陽が落ちた頃から少しずつ良くなってきた。そして、8時半頃には長塀山(ながかべやま)の方に少し雲があるだけで、殆ど快晴に近い状態になった。本当に山の天気は分からない。僕等は、さっそく昼間目ぼしをつけておいた梓川河畔に行くことにした。しかし、徳沢の入り口付近では懐中電灯を照らされる恐れが多分にあったので、かなり川上まで歩いて荷を降ろした。
 星達は、下界とは比べものにならないくらいギラギラ輝いていた。しかし、大山の鏡ヶ成で見た星空よりいささか劣っているように思えた。標高1.560mの、この徳沢なら、さぞやすごい星空を見ることができるだろうと、期待し過ぎていたのかもしれない。それでも、前穂に沈み行く北斗七星などは、徳沢ならではの光景で、ひどく感動してしまった。タチゲはそれを見て、「前穂が描く大きなかき氷を、北斗のスプーンですくうようなシルエットを形づくっているようだ。」と言った。
 

穂高の沈みゆく北斗七星。しかし、空が暗すぎて山のシルエットが写っていなかったので、元画像から合成してみました。フィルムスキャナーはこういった画像のスキャンがとても苦手なのだ。
 

これは、2004年に固定撮影で撮ったもの。何度も同じ光景チャレンジしているが、なかなかまともな写真が撮れなかった。でも、この写真は結構ましかなぁ。確か17mmの超広角レンズで撮ったのか。
 

この写真は2013年8月11日に撮ったもの。EOS5D MarkⅡ 無改造カメラによる固定撮影。この写真が、色調も含めて、見た目に一番近いのかなぁ。


 
 しばらくすると、徳沢の入り口辺りで花火が上がった。そしてまたしばらくすると、案の定、同じ所に懐中電灯を持った人が現れた。僕らはもう写真を撮り始めていたので、その懐中電灯が気になって仕方がない。と、長い間じっとしていたライトは、やがてこちらに近づいてきた。「クソー、何でこんな夜中に歩き回るんだ。アホめ!」自分のことは棚に上げて文句を言っていると、ライトは、少し行った所で引き返して行った。僕は、そのライトの正体は昼間に会ったワンゲルの人ではないかと思ったが、タチゲは、「星に詳しそうな、あの人ならライトをつけて来るはずがない。」と言った。
 そうこうしているうちに、星空は透明度をグングン増して、いつの間にか鏡ヶ成を遥かにしのぐものになっていた。白鳥座の暗黒部がくっきり見えているし、銀河も相当に明るい。もしかしたら7等星より暗い星が見えているにかも知れない。ただ残念なことに、カメラを向けるところ向ける所だけに、何故か雲がポツリとかかりまともに写真が撮れないのだ。
 やがて、2日続きの睡眠不足と、旅の疲れのせいで、立っているのもしんどくなってきた。そこで、よいしょっと、寝ころがって星を見ることにした。(初めは人工の堤防の上で星を見ていたのですが、そのうち、梓川を渡って河原に移動したのだと思います。)北の方向に目をやると、子熊座の5等星がずいぶん明るく見えている。前穂には、冠座や牛飼い座がなんとも印象的に沈んで行った。だが1つとても面白いことに気づいた。この徳沢からでもおよそ1.500mもある前穂が、どういう訳か、特に夜間はとても小さく見えるのだ。誇張でなく、まるで2~3mしかない砂山のように思えてしまうのだ。
 

梓川河畔にて。まだ、登山靴がピカピカですぞ。ちなみに、この人工の堤防は、出来てから間もないようだった。この時は、草は殆ど生えていないが、現在ではかなり草が生えてきている。土手の右側に梓川が流れている。


 
 空が何となく白けているのが気にかかっていたが、しばらくして、ようやくその原因に気づいた。一つは、予想していた通り、梓川から発生するガスのせいだろう。そして、もう一つの理由がびっくりなのだ。なんと、星明かりのせいと考えられるからなのだ。藤井旭氏がモンゴルでやられたように、手を紙の上に置き、それを星空にかざしてみると、ちゃーんと手の形が分かるのだ。それに、2~3m先のものはいくらでも見えるのだ。公害は皆無と言ってもいい所なので、やはり、その原因の一つは、星明かりによると言わざるを得ない。
 そのうちすさまじい睡魔に襲われてきた。一昨日も睡眠不足のうえ、ゆうべは一睡もしていないし、ここに来てからも興奮しっぱなしで昼寝どころではなかったので、無理もない話である。「もう眠くてかなわん。帰って寝ようや。」タチゲに言うと、名古屋駅や、途中の列車の中で結構寝ていたタチゲは、「僕はまだできるよ。」と、しぶついていた。しかし、12時頃強引に観測を打ち切って寝ることにしてしまった。
 それにしても、梓川のせせらぎを聞きながら、前穂のシルエットが美しい、この素晴らしい星空を、野郎共だけで見ているというのは、何ともはやもったいない話ではないか・・・


後記
 上高地に行くバスの中から見たトンネルの記憶が、どうやら混乱していたようだ。釜トンネルは、岩をくり貫いてつくったものだから、トンネル全体が岩だらけなのだ。また、何分も出口に出られなかった長いトンネルは、別物ではなく、同じ釜トンネルの可能性が高い。(現在では、新しい釜トンネルが出来ていて、渋滞は少なくなりました。)


 
 7月29日(月齢20)
 「うわあー!」目がさめてテントから出た時、僕は思わず驚きの声をあげてしまった。空が、信じられないくらいに、本当に青いのだ。鏡ヶ成で見た空も青かったが、徳沢の空の青さは、そんななま優しいものではなかった。
 

あまりにも青すぎる空。ただ、ただ、びっくり。(でも、写真は下山後に撮った可能性もあり。)


 
 夏は概して透明度は悪いものだが、とくかく本当に空が青かった。そして、その恐ろしいまでの青い空をバックに、くっきりと明神岳と前穂が浮かび上がっていた。あまりにも鮮やかな光景だった。否、あまりにも鮮やかすぎて、絵葉書でも見ているのではないかと、疑いたくなるほどだった。
 ところで、本来ならば今日登山する計画でいたが、キスリングがあまりにも重いので、今日1日ここに留まることにした。缶詰めなどの重い食糧を食べてしまえば、いくらかでも軽くなるだろうと、実に甘い考えを抱いていたのだ。ともあれ、今日は特別する事もなく、のんびりとしたものである。土曜日のせいなのだろう、登山者も下山者も、そして、テントを張る人も昨日よりは多かった。僕らは、それをただぼんやり眺めていた。
 そのうち、高橋の7×50の双眼鏡を三脚に取り付けて、観望を楽しんだ。前穂は、昨日からずっと見ているが、ここ2日間に、ここから見える急斜面を登っている人は、わずか2人しかいなかった。地図で見たところ、ベテランコースと書いてある。彼等は、奥又白ノ池にでも行くのだろうか?一方、前穂の右に見える山には、ずいぶん多くの人の姿が見えた。(奥穂か、前穂と奥穂の間の縦走路かも知れない。)それにしても、わざわざ目立つように、この大きな双眼鏡を、これまた大きい三脚に取り付けているのに、周囲からの反響が全くないのは、実に寂しい。
 それにしても、昼間の暑さときたらどうなっているんだろうか。1.500mを越える所なので、さぞかし涼しいと思っていたらそれは大間違い。直射日光の当たるテントの中は、まるで蒸し風呂で、とてもいられたものではない。そこで、僕等はエアマットを持って木陰に退散した。もともと気温は下界よりはかなり低いのだから、木陰はとても涼しくて快適だった。ひなたでは、花アブが沢山飛んでいるのが見えた。「ああ~、のどかだなぁ。」ふわぁーとした気分になっていると、突然、タチゲのエアマットが妙な音を立てた。いつの間にか陽が当たって、中の空気が膨張してしまったのだ。あわてて僕が栓を抜いたから良かったものの、それでも、もともとあったマットの窪みは、2個ほど無くなってしまった。
 

3DソフトのShadeで溝のいくつかが潰れたマットを再現してみました。写真自体は下山後のものです。


 
 何時頃だったか、また梓川にやって来た。明日からしばらくは山の上にいることになるので、頭でも洗おうと思ったのだ。タチゲは、ただ梓川の流れを見つめているだけだったが、僕は、恥も外聞もなくゴシゴシと頭を洗った。(多分シャンプーなどは未使用。)あまりにも冷たくてしびれてきそうになったが、それでもシャッキとして、なかなか気持ちの良いものだった。それから、何を思ったのか、梓川横断にチャレンジしてみた。しかし、あまりの冷たさに容易には成功しなかった。そのうち、ようやく川幅の一番狭い所を見つけて、どうにか横断できたが、30秒もその冷たい水につかっていた足の方はたまったものではない。それは冷たいなどという感覚ではないのだ。痛くて痛くて、乾いた石の上に立って、ウーン、ウーンと唸っていた。徳沢に来てからも、どこかのワンゲルの人が、この梓川で泳いだという話を聞いたが、連中の心臓の構造は、いったいどうなっているのだろうか?
 徳沢に来て、びっくりさせられたことは数多いが、トイレのすさまじさもその一つである。小の方は、さして何も感じないが、大の方は狂気の沙汰ではない。便器からウンチが山のように盛り上がっているのだ。山では小食になるし、さらに便秘気味になるからまだ救われるが、あんなものをしょっちゅう見ていたんでは、とても食事が喉を通らない。(現在は簡易水洗トイレになっておりまして、ずいぶんきれいになっていますよ。)


 
 さて、夜になるとまた星がギラギラ輝き始めた。夕べよりは何となく白けているが、まずまずの星空である。
 「さあ、写しに行くか?」タチゲに声をかけた。だが、タチゲは、「眠たい。」と言うやいなや、寝込んでしまった。僕は、昨日自分の身勝手から観測を打ち切ったことは棚にあげ、カンカンに怒って、一人で梓川に向かった。怒りが全くおさまらなかった。「俺達はここへ何しに来たんだ。星を見るためじゃなかったんか?それに、この旅はタチゲとの友情の結晶でもあったはずじゃあなかったのか?それなのに・・・」ブツブツ文句を言いながら歩いていた。前穂のシルエットを見ていると、ふと、M君のことが思い出された。「あんたが死んだ時、何があっても蝶ヶ岳に登ろうって思ったのに、今からこれじゃあ、この先どうなるんだろうね。」しかし、いつまでも感傷に浸っていることはできなかった。物資を運ぶ小型トラックが2度もすぐ近くを通って行ったからだ。そこで、ゆうべ星を見ていた場所まで移動することにした。すぐ近く、あの徳沢の入り口付近に人が2人いるのに気づいたが、さして気にもとめず歩いて行った。北斗七星が、前穂の上に浮かんでいた。その素晴らしい光景にしばし見とれていたが、この星空を固定撮影だけではもったいないと思い、TS式40mm屈赤H型を持って来ることにした。戻ってくる間に、万が一観測資材を誤って壊されたり、盗られたりしては大変と、せっかく持ってきた資材をまたそっくりかついで、テントに戻り始めた。すると、あの徳沢の入り口付近で人の気配がする。誰だろうと思って、目を凝らすと、何と、来る時に見た2人が抱き合ってイヤラシイことをしているではないか。それを見たら、一気に力が抜けて、もう一度ポタ赤をかついで戻って来ようという気にはならなくなってしまった。真っ暗な小道では、小鳥だろうか、何か小さな動物がしきりに飛び回っていた。テントに戻ると僕もすぐに寝てしまった。


後記
早く寝てしまったが、それで良かったのだ。もし、遅くまで観測をしていたら、翌30日は大変なことになっていただろう。


 
 7月30日(21時の月齢21.1)
 
ゆうべは早くから寝入ってしまったので、今朝は4時に目が覚めてしまった。だが、山の朝は早く、すでに登山の支度をしている人も沢山いた。そこで、僕等も朝早いうちに登山をしてしまおうと、タチゲを起こすと、さっそく用意にかかった。ふと気づくと、いつの間にか前穂と明神岳の山頂付近がモルゲンロートに染まっていた。神々しい山の夜明けである。
 

神々しい山の夜明け。
 

これは2006年に撮ったもの。これこそが「モルゲンロート」。最初は、このように明神岳と前穂高岳の上の部分だけがオレンジ色に染まる。そして、分単位でまるで別の風景のように変わっていく。ちなみに、この「モルゲンロート」はドイツ語。「朝・赤い」つまり朝焼けという意味になるのでしょうか。夕陽は「アーベン・ロート」と言います。


 
 用意には意外に時間がかり、いざ出発しようとした時には、すでに9時になっていた。(遅い、遅すぎる。)そして、昨日と同じように、全く信じられないくらい程の青い空が広がっている。「あ~あ、これから登山だっちゅうに快晴とはね。暑くてやっちょられんわ。」あまりの天気の良さに、ぼやきすらでてくる。
 しかし、M君の話では、山の天気は午後3時くらいに急変することがあるとのこと。だから、そうのんびりもしていられない。蝶ヶ岳までは、登山マップのコースタイムは4時間となっているが、僕等のような重装備だと、6時間くらいはかかるだろう。となると、ちょうどその午後3時にゴールインする計算になるのだ。途中ヘタに時間を喰ってしまったら、雨にたたられることだってあるかも知れない。僕等は急いで歩き始めた。 
 

これは2005年に撮ったもの。意外に緩斜面に見えるかもしれないが、この後相当な急勾配が延々と続く。長塀山(ながかべやま)ルートは実は極めてきつい。特に我々の様な重装備の者には地獄なのだ。


 
 しかし、徳沢園横の登山道の入り口に来た時、僕は驚きの余り腰を抜かしてしまった。初歩的なルートで、女、子供でも大丈夫だとガイドブックには書いてあったのに、恐ろしく急勾配なのだ。少し登ると、その傾斜は更にきつくなった。コメツガの樹林帯の中なので、陽が当たらなく、とても涼しいのがせめてもの救いなのだが、腰に走る激痛のため、すぐにキスリングを降ろして休まなければならなかった。タチゲのキスリングは、パッキングがなかなかうまくいったとみえて、その形は殆ど崩れていなかった。一方、僕のキスリングはというと、めちゃくちゃに形が崩れていた。ポタ赤や、7×50の双眼鏡などの観測資材が入っているので、ぎゅうぎゅう詰めのパッキングができなかったのだ。更に、そのキスリングの上には、2.4kgもある三脚や、重い家型のテントをくくりつけていたから、当たり前の話かも知れない。その形の崩れたキスリングは、僕の腰の上に垂直に立っているのだ。これじゃあ、たまったものじゃあない。実際の重さは、37kg足らずでも、体感重量は、40kgを遥かに越えていた。しかし、パッキングをやり直すのには時間がかかるし、手ごろな場所も見つからなかったので、タチゲに背負いバンドの調節をしてもらっただけで、そのまま形の崩れたキスリングを背負って歩いた。
 登り始めてどれくらいたった頃だろうか、タチゲが、水筒に水を入れ忘れたことに気づいた。実は、僕も水筒に水を入れ忘れていたのだが、前日梓川の水を入れておいたのを、捨てるのを忘れてそのまま持って来ていたのだ。いくら樹林帯の中で涼しいと言っても、登山に水が不足していることは大変危険なことである。
 しばらくすると、案の定、タチゲがやたら水をほしがり始めた。しかし、わずかしかない水を、こんなに早く飲み始めては大変なことになるだろうと思って、「もうちょうと登ってからだ。」と、とりあわなかった。実にさい先が悪い。
 僕は、いつも自転車を乗り回していたので、足にはいささか自信があった。事実、去年の烏ヶ山登山では、普通の人が2時間かかるところを、1時間足らずで登っている。しかし、形の崩れた、しかも、37kg近いキスリングを背負って急斜面を登ることは、ひどい苦痛だった。木々の間から見える前穂から判断して、かなり登って来たことは明らかなのだが、いくら登っても、長塀山の山頂にすら着かなかった。「前穂が、だいぶ低く見えーけん、もうちょっとだわね。がんばらっこい。」いくら自分を励ますように言ってみたところで、無情な粘土層の登山道は果てしなく続くばかりである。そのうち、僕は疲労と腰に走る激痛から、タチゲに遅れ気味になった。そのことで口論が始まったが、疲れきった2人に、そんな口論が長続きするはずもなかった。
 やがて、僕はしびれを切らして、下山してきた一人の女性に声をかけた。「あの~、蝶ヶ岳は、まだ遠いんですか?」すると、その女性は、「ええ、まだ随分ありまよ。・・・でも若い人がたくさん泊まっているから・・・」と、微笑んでくれた。しかし、その微笑からも、これから先がまだ長いことが充分想像でき、落胆してしまった。
 しかし、やがてようやく平らな所に出た。嬉しくてたまらなかった。僕は、そこが長塀山の山頂だと思ったからだ。しかし、すぐにその考えが間違いであることに気づいた。なぜなら、ガイドブックで見た長塀山々頂の写真と全く違っていたからだ。長塀山々頂からは槍ヶ岳が見えるはずである。しかし、そこからは、槍ヶ岳の「ヤ」の字すら見えないのだ。ひどく落ち込む。だが、すぐに気を取り直して、歩き出す。先はまだ長いのに、こんな所でくじけていてもしょうがない。枯れ木に腰掛けて、レーズンクラッカーを食べながら疲れた身体を癒した。
 休憩後、またひたすら歩き始めた。平らだった道は、すぐにまた坂道になった。僕等は、前を歩いていた女の子2人に追いつくどころか、ぐんぐんひき離される程、スローなペースでしか進むことができなくなっていた。しばらくすると、「蝶ヶ岳まで3km」という標識が見えてきた。ショックだった。あとどれくらい歩けば良いかという、指標をようやく見つけたことにはなるのだが、あまりにも遠すぎる。ましてや、水は残り少なくなっているのだ。
 

2006年に撮った 「あと3km」の看板。この距離は絶対におかしいぞぉー。体感的には、倍以上に感じましたぞぉー。って、登山道に書いてある距離って言うのは、地図上の距離なんだろうねぇ。つまり、勾配や、ぐにゃぐにゃに歩くことは、想定していない距離表示だと思いますね。(ま、当たり前か。)


 
 その標識からどれくらい歩いた頃だろうか、後ろから女の子を連れた夫婦がやって来た。僕等のキスリングの大きさに驚いたとみえて、「どのくらいの重さがあるの?」と聞いてきた。「うーん、35kgはあるかなあ。」と答えると、まだあどけなく、そしてかわいいその女の子は、「えー?じゃあ、私と同じくらい・・・いや、ちょっと重いくらいね。」(子供でも女心)と感心していた。「それなら、代わりにこの子をおぶって行ってもらおうか?」親が冗談を言った。「いや、本当に人間をかつぐ方が遥かに楽です。」僕は真剣になってそう答えた。
 僕は疲れきっていた。もう50mの距離を一気に進むことができなかった。やがて、老夫婦のクライマーにも抜かれるほど、すっかりペースが落ち込んでしまった。登山がこれほどまでにきついものだとは予想だにしなかったことである。しかし、タチゲの方は、僕より遥かに余力があった。否、ある意味では、登り始めた頃より元気だったかも知れない。初めはあんなに水をほしがっていたのに、「自分はいいから飲んでもいいよ。」とまで言ってくれた。しかし、その水も2口飲んだだけで底をついてしまった。僕よりは元気のあるタチゲを先に歩かせて、また、黙々と坂道を歩いた。
 途中、ぐったりとして休んでいたときのことだ。かなりのスピードで一人の青年が下って来た。「少し先にあなたの友達も休んでいましたよ。」と声をかけてくれた。「ええ、分かっています。」僕は、蚊の鳴くような声で答えた。青年はひどく心配そうな表情を見せたが、先を急いでいるとみえ、また、走るように下って行った。僕は、息も絶え絶えに10mばかり先にいるタチゲの休んでいるとこるまで歩いた。「さっきの人に聞いたら、僕等の足では長塀山々頂まで1時間、そこから蝶ヶ岳までは、もう1時間かかるっていう話だったわ。」と、タチゲ。ハンマーで後頭部を殴られたようなショックだった。「こんなに歩いたに、まだ2時間も歩かんといけんかや?」
 だが、その落胆は更に大きなものになっていった。1時間登ったが、長塀山々頂には着かなかった。そして、倍の2時間登ったが、それでも山頂には着かなかった。僕は本気でビバークを考え始めていた。いくら夏とは言え、高山では疲労凍死の恐れが充分にあるからだ。
 しかし、そのうちに樹林帯の木々が背を低くし始めた。タチゲはそれを見てとると、「長塀山々頂はもうすぐだ。」と喜んだ。だが、木々はまた背を高くした。それからは、木々は高くなったり低くなったりを繰り返した。タチゲは、木々が低くなると決まってこう言った。「もうすぐだ。」タチゲにしてみれば、自分を励ますつもりもあってそう言っているのだろうが、僕はただ気がめいるだけだった。そのうち、倒木が多く、背の低いシラビソの群生する場所にさしかかった。近くでは、槍ヶ岳もかすかに見えていたので、山頂までは目と鼻の先なのだろうと思って大いに喜んだ。だが、無情にも坂道は更に遠々と続くばかりだった。
 それからどれくらい歩いただろうか、先を歩いていたタチゲが突然大声を張りあげた。「山頂だー!」僕は最後の力をふり絞って歩いた。今度は、本当の本当に山頂だった。背の低い木々の上に穂高連峰が見えている。まぎれもなく山頂だ。キスリングを降ろした。長い間背負っていた重い”オモリ”をはずしたので、E君が話してくれたように、まさに空へ飛び出すように身体が軽い。だが、2人共疲れ果てていた。憧れの穂高連峰を目の前にしても、それ相応の感激がない。あたりはもう薄暗くなっていた。遠くには雲があり、不思議と槍ヶ岳を隠していた。
 

とうとう着いた長塀山山頂。しかし、疲れすぎて感動することすら出来なかった。(1993年に2度目に来た時には、既に木々が伸びてしまっていた。穂高連峰や槍ヶ岳はわずかに見えている程度だった。そして、現在は、ほぼ見えません。ああ、地球温暖化!)


 
 しばらく休むと、また苦痛にあえぎながら歩き始めた。山頂からはいったん下り坂だ。せっかく死ぬ想いをして稼いだ高度だけに、残念でたまらなかった。しかしながら、下りきった所には、ミヤマキンポウゲの群生があり、心をなごませてくれた。ミヤマキンポウゲは、決して華やかさこそないが、こんな山の中で、ひたむきに咲いているという、けなげさがあった。
 

ミヤマキンポウゲの群生。ほっとしますね。


 
 そこから少し行くと、草むらにキスリングが一つ置いてあるのが見えた。そのキスリングはかなり使い古したものであったし、パッキングもしっかりしてあった上に、ピッケルまでくくりつけてあった。かなりのベテランの持ち物であることが推測できた。「ははあん、どうやらキジ射ちだな。」と、一瞬思ったが、そんな訳がないと気づき、はっとしてしまった。こんな遅くに下山する人がいるだろうか?それに、僕らはこの何時間もの間、誰1人として会っていない。つまり、登山している人の持ち物でも、何時間も前に置かれたことになる。遭難か?いろんな想いが頭の中をよぎって行った。しかし、こんな所で時間を喰ってしまったら、僕らの方が遭難をしてしまいかねない。無情にも先を急ぐことにした。
 しばらく歩くと、体格の良い、いかにも山男という感じの青年が下ってきた。「これから?」「ええ・・・。」「いやあ、病人が出ちゃいましてね。」「え?それじゃあ、これから徳沢まで行かれるんですか?」「いえ、いえ・・・・。」その青年は、僕らの登ってきた道をずかずか音を立てて下って行った。「小屋の中村さんかな?それにしても大変だな。」などと、タチゲと話ながらしばらく歩いていると、あの青年が戻ってきた。そしてその背中には、あのキスリングがかつがれていた。病人というのは、小屋の中にいるのかと思っていたが、実はそうではなかったのだ。少し行ったところに、道の真ん中でうずくまっている人がいた。しかも女性である。その女性は、白地に赤線のウィンドブレーカーをフードごとすっぽりかぶり、一言も口をきけないでいた。まるで妖精のような美人とあの青年が一生懸命介抱している。だが、無情にもあたりは暗くなってきている。僕等は、その人達のことを気にしながら近くでしばらく休んでいた。しかし、ビバークするにも適当な所も見つからないし、とてもあの人達の手助けをする余力が残っていなかったので、また、歩き始めた。恐らく彼女達は、僕等のことをなんてひどい人達と思っているに違いないだろう。しかし、こちらとて、命がかかっていることなので仕方無かった。
 途中、蚊の攻撃にずいぶん悩まされた。2.500mを越える山で、まさか蚊がいるなどとは、思いもしないことだった。ただ、人間の血を吸ったことがないのか、腕に止まっても、いっこうに血を吸われなかった。
 あの病人に会ってからどれくらいたっただろうか、あたりはかなり暗くなってきた。しかし、ここまできたら後には引けない。「よーし、こうなったら、8時まで歩いてやるわい。」僕はヤケクソ気味にタンカをきった。
 間もなく、あたりは完全に暗くなってしまった。タチゲは、ヘッドライトをつけ、僕はタチゲから借りた懐中電灯を手に歩き続けた。そうこうしているうちに、少し開けた所に出た。そこからは、穂高の山小屋の灯も見えたし、(涸沢ヒュッテの灯か?)蝶ヶ岳ヒュッテの明かりも見えた。そして、誰か数人が、懐中電灯を振りながら、口々に叫んでいる。僕は、「きっと、あの病人達と間違えているのだろう。」と思っていたが、タチゲは、一生懸命合図をかえしていた。
 しばらくすると、あの病人達を心配した女性が数人下ってきた。「途中病人に会いませんでしたか?」「ええ。でも、あの人達、ビバークするんじゃないかな?」僕がそう答えると、彼女達は、懐中電灯を手に手に持って足早に下って行った。蝶ヶ岳ヒュッテまではもう目と鼻の先だった。しかし、最後の要塞とでも言うべきものすごい急斜面がその前に立ちはだかった。それを見たとたん、僕は力がすーっと抜けていくのが分かった。そして、近かったはずの蝶ヶ岳ヒュッテがひどく遠くに感じられた。タチゲは、ヒュッテの明かりを見た時からすっかり元気を取り戻していた。「もうちょっとだ。登ろうや。」タチゲが言う。だが、本当に僕にはその坂を登る力さえ残っていなかった。「俺には、とてもその坂は登れそうにない。・・・ここでビバークしよう。」タチゲは当然のことながら、とても不満そうだ。だが、何とか僕の意見に従ってくれた。
 のどがひどく渇いていたので、キスリングを降ろすと、すぐにヒュッテに水を買いに行った。いくらキスリングをかついでいないとはいえ、あの急斜面を登るのはかなりの苦痛だった。しかし、タチゲの方は余力充分のようで、ヒョイヒョイと登って行った。キャンプ場では、どこかのパーティーが花火をしていた。なぜか、それがとてもうらやましく思えた。そこから少し歩くと、ヒュッテはあった。そこで、水を4リットル程買うと、また来た道を引き返した。(1リットル50円)空には、さそり座が恐ろしいまでに強烈な光を放っていた。
 キスリングを置いたと思われる場所に戻ってきた。が、しかし、キスリングがない!あたりが真っ暗なってしまっていたので、周りの様子が全く分からないのだ。必死になって2人手分けして探したが、なかなか見つからない。そのうちようやくタチゲが見つけてくれた。その時だ、人の気配がするの気づいた。あの病人を救助に向かった連中が戻って来たのだ。「やっぱり僕等はビバークになっちゃいましたよ。」僕は苦笑しながら言った。彼らは無言だった。病人はと言うと、なんと、あの青年がおんぶしているのだ。いくらリュックよりかつぎやすいとはいえ、あきれた体力の持ち主だ。それでもやはり、あの急斜面にさしかかると、何度も休みながらノロノロとしか進めなかった。ここでビバークして正解だと僕は思った。それに、こんな暗くなってからキャンプ場でテントを張れば、他のキャンパー達に迷惑をかけてしまう。
 僕は、うまく口が回らない程疲れきっていた。しかし、タチゲの方はまだかなり余力があるとみえて、「キャンプ場はただで泊まれる。」とか、「便所はヒュッテにしかない。」とか、ヒュッテで見てきたことをいろいろ教えてくれた。
 

さそり座が恐ろしいほど明るい。しかし、死ぬほど疲れていたのだ。撮影をする気は全く起こらず。(でも、写真は04年に撮ったものですよーん。)今、考えてみれば、とっても無謀な登山ですよねぇ。


 
 テントの中では、買ってきた水でジュースを作って飲んだ。冷たくてとてもうまかった。寝る前に空を見るとさそり座は前にも増して明るく輝いていた。しかし、そのさそり座にやがてガスがかかった。それを見ると、僕は安心しきって泥のように眠り込んだ。その時、時計は、すでに9時を回っていた。
 それにしても、タチゲの体力はどうなっているんだろう。まだ明るい時、タチゲを見ると目がうつろになっていたのに、ヒュッテの明かりが見えた時のすごさといったらどうだろう。本質的には、タチゲの方がはるかに体力があるのかも知れない。だが、僕とて自分にもとんでもない体力があることを知った。あのキスリングをかついで12時間も山道を登ったなんて、自分でも恐くなってしまう。


後記
 キスリングで登山する場合、大きいキスリングであればあるほど、そのパッキングの重要性は増す。パッキングの善し悪しで、体感重量は激しく変化するのである。この登山が終わって、僕等はパッキングの難しいキスリングを買ったことを後悔した。少々高くとも、アタックザックにすべきだった。アタックザックなら少々パッキングが悪くとも、夕方までには蝶ヶ岳に着いていたかも知れない。(キスリングのパッキングを改善する方法として、中に段ボールを入れる方法がある。後に試したがなかのものだった。但し、汗や雨ですぐにダメになってしまうので、これも完璧な方法ではない。)
ところで、あの病人の件だが、本当は手助けしてあげたかった。知り合うチャンスでもあったのだ。だが、その時の僕等は、完全に体力消耗しきっていた。E君は、後に、この件に関してこう教えてくれた。「助ける自信がないのなら、初めから何もせんのがいい。」無情とも思える言葉だが、これは、二重遭難を防ぐための鉄則であろう。
 それから、どうしてビバークした場所から星を写さなかったのかと、後で僕もタチゲも非常に残念がった。しかし、あの状態で星を写すなど、あの時は、とても不可能であった。
 とにかく、計画通りに29日に登山すれば、何もかもうまくいっていたかも知れない。これは、完全に僕の判断ミスだ。


 
 7月31日(21時の月齢22.1)
 半分寝ぼけまなこでいると、テントの横を誰かがガサガサ音を立てて通って行った。驚いて飛び起きると、なんと、近くで足音が絶え間なくしているではないか。「ああ、そうだ。俺達はここでビバークしたんだった。」すぐに、それが下山者達の足音であることが分かった。だが、そうなると、いつまでものんびりはしておられない。キャンプ指定地でないこんな所に張ったテントには、きっと冷たい視線が注がれていることだろう。キャンプ場からは数百mしか離れていないのだから、ビバークと見てくれるはずもない。そう思ったら、テントの中でじっとしていることなど、とてもできなかった。タチゲを起こすと、すぐにテントから飛び出した。あたりを見回して、更に驚いてしまった。僕等がテントを張っていたのは、利用者が少ないとはいえ、2つの登山道が交差している、まさにそのど真ん中だったからだ。(知らないとは言え、これは死刑だな。)
 

憧れの槍ヶ岳。疲れもとれ、感動に浸る。
 

後年に撮った窪地にテントを合成してみました。(でも、人物とテントのサイズがでかすぎ。)


 
 小さいキジを射ちに、草の生い茂るその登山道を少し歩いてみた。その時、朝日を浴びてそそり立つ槍ヶ岳が遠くに見えているのに初めて気づいた。感動的な光景だった。槍ヶ岳は、きのう既に長塀山からもわずかながら見ていたが、その時は疲れ果てていたので、さして驚くこともなかった。だが、こうして朝日に輝いている姿を見ると、「僕達は、とうとう蝶ヶ岳に登って来たんだ。」と、しみじみと感じるのだった。
 それから、夜露にびっしょり濡れたテントを片づけにかかった。だが、テントはそう簡単には乾きそうにない。というのは、僕等のビバークした所は、相当な窪地でいっこうに陽が当たらないからだ。そのため、テントが乾かないばかりでなく、寒くて寒くてガタガタ震えが止まらないのだ。「おーい、雪があるで。」向こうの方に行っていたタチゲが突然叫んだ。びっくりして走っていくと、なるほど小さな残雪のカタマリが2つあった。寒いのも当たり前である。ただ、そのカタマリの1つには、ご飯つぶが沢山ついていて、すごく汚いのには興ざめした。やがて、その窪地にもようやく陽がさしてきたので、テントを広げて乾かすことにした。徳沢でもそうだったが、黄色いテントには花アブが沢山集まってきた。乾くのしばらく待っていたが、温度が低すぎてなかなか乾きそうになかった。そこでまずは、テントと三脚を置いておいて、キスリングだけをキャンプ場にもって行くことにした。重量的にも昨日より楽なはずだが、それでも例の坂を登るのはかなりの苦痛だった。
 

真夏に見る残雪。本当に久ぶり。


 
 キャンプ場に着くと、地面が平らでテントを張るのに一番良さそうな所にキスリングを置いて場所を確保しておいた。ほとんどの人が下山してしまって、キャンプ場はがらんとしていたので、自由に場所を選ぶことができた。
 

これが当時のテン場だ。ドームテントが写っていますが、僕らのテントは重くて設営が面倒な「家型テント」でした。


 
 蝶ヶ岳からの眺めは、実に素晴らしかった。それはもう口をアングリと開けて呆然と見とれている始末である。西の方角には、穂高連峰や槍ヶ岳の名山が残雪を抱いているのが見える。北の方には、大天井岳と常念岳がそびえている。東に目をやれば、わずかばかり噴煙を上げている浅間山が雲海に浮かんでいる。特にこの雲海に浮かぶ浅間山は、初夏の頃カラーグラビアで見てからというもの、一度は本物が見てみたいものだと思っていたのだが、1日目にしてあっけなく見ることができてしまった。また、遠くには南アルプスの山なみらしきものも見えている。そして、その南にはお隣の大滝山、更にその彼方遠方には富士山までがその姿を惜しげもなく現しているのだ。南西の方には、御岳山と乗鞍岳が見えている。乗鞍コロナグラフのドームは、目を凝らすとなんとか判別できた。また、標高にすれば、1.000mも下を流れる梓川を見ることができた。「ああ、あそこからここまで登ってきたんかあ。」感慨もひとしおである。
 

これが、穂高連峰じゃい。(前穂・奥穂・涸沢・北穂)


 
 しばらく展望を楽しんだ後、ビバークしたところへ戻った。テントはかなり乾いていたので、さっそく片づけて、再びキャンプ場にやってきた。すぐにテントを張ることにしたが、初めに確保して置いたところは広すぎたので、場所を変えることにした。この時、見よう見まねで、初めてペグの代わりに岩を使ってテントのロープを張ることを覚えた。
 蝶ヶ岳はかなり静かな山であった。双眼鏡で回りの山を見渡すと、どの山の山頂にも人がひしめき合っているというのに、この山ののどかさといったらどうだ。これだけ素晴らしい景色を持っているのに、実に不思議に思えてしょうがなかった。
 

あーあ、これが蝶ヶ岳ヒュッテだよーん。藤井旭氏も泊まったんだよーん。


 
 しばらくして、蝶槍や山頂に行ってみることにした。キャンプ場から少し行くと、藤井旭氏等が泊まった蝶ヶ岳ヒュッテがあり、そこからまた少し行くと、方位盤があった。そこでは、どこかのパーティーが食事をしていた。彼等は道具を散乱させて、全く道をふさいでいた。それなのに、僕等が来てもよけようともしないのだ。「この人達は、本当に山を愛する人達なのだろうか。山の神聖さを汚す者に他ならない、そう言っても過言ではないのではないか?」僕等はブツブツ文句を言いながら、道ではない所を歩いて行った。蝶ヶ岳は二重稜線ということだが、僕にはよく分からなかった。道は多少は急勾配の所があったものの、とても北アルプスの山とは思えないほどなだらかだった。(その後の登山では二重稜線ははっきり分かりました。この時、何故分からなかったのでしょうか?知らん。)
 蝶槍までは普通1時間のコースだが、僕はカメラと双眼鏡、タチゲはカメラだけしか持って行かなかったので、40分程で着いてしまった。蝶槍は、女性的な蝶ヶ岳にあって、唯一男性的な荒々しさがあった。北の方には、常念がすぐ目の前にすごい迫力で迫ってくるし、高度感も充分にあって、こわいくらいだ。もし、この岩の上から滑り落ちたら、およそ助かる見込みはないだろう。(ちょっとオーバー。)
 

蝶槍から穂高連峰を望むタチゲ。格好エエやないけぇ。


 
 烏ヶ山の山頂などと比べるとスペースがあるのだが、それでも恐ろしくて、どうしてもへっぴり腰で歩いてしまう。しばらくすると、常念岳の方から大声で気合いを入れながらこちら方にやって来る男女混成のパーティーが見えた。「大声を出しながら山を登なんて、なんちゅうムダの多いことをするんかねえ。」などと思いながら見ていると、なんと、彼等は、わざわざ急斜面のルートを選んで、この蝶槍へやって来た。そして、僕等のすぐ横でキスリングを降ろした。1人の女性がレモンを切って、それをみんなに分け与えている。「うわあー、しみる。やっぱり、かなり口の中が荒れているんだな。」楽しそうにおしゃべりを始めた。僕はうらやましく思った。ここへ来てから、他のパーティーとまるで交流がないのだ。だから、大勢が楽しそうにしゃべっているのを見ると、とてもうらやましくなってしまうのだ。
 しばらく展望を楽しむと、キャンプ場へ戻り始めた。タチゲと、双眼鏡の実質有効口径についてくだらん議論をしながら歩いた。男が2人だけでは、どうも殺伐として面白くない。どれくらい歩いただろうか、ふと左を見ると、山頂があった。あまりにも平坦な山頂なので、蝶槍に行く時には全く気づかずに通り過ぎてしまったらしい。さっそく山頂に行ってみたが、「これほど山頂らしくない山頂もあったもんだ。」というのが第一印象。「いっそのこと、蝶槍を山頂にした方がずっといいわ。」などと、勝手な考えも浮かんでくる。・・・と、何やら名前が書いてある板切れあるのに気づいた。よく見ると、なんと、それは、徳沢で僕等のすぐ近くでテントを張っていた連中が、自分の名前なんぞを書いていた板切れだった。
 山頂から帰る途中、高山蝶を見かけた。キアゲハの一種のようだ。その蝶は僕等のすぐ近くにとまったので、この際写真に撮っておこうと近づいてみた。だが、なかなか逃げない。そこで、接写してやろうと、50cmくらいまで近づいたところ、その時ようやく飛んで行った。蝶ヶ岳は、もともと残雪の形からつけられた名前だが、本当の高山蝶もかなり生息しているとのことだった。それにしても、まだ人間の恐ろしさを知らず、なかなか逃げることをしない高山蝶、これからも、ずっとこのままでいてほしいものだ。
 何時頃だったろうか、池めぐりをしようと、タチゲとあちこち歩いてみた。地図から推測すると、蝶ヶ池というのは、どうやらハイマツの中にあるようだった。そこで、僕等は、ハイマツを折らぬように注意しながらハイマツの群生の中に入ってみた。だが、池どこらか水たまりすらなかった。そこで、蝶ヶ池はあきらめて、今度は妖精の池の方を探すことにした。ガイドブックには、奇妙な形のある枯れ木を見つけたら、そこを右手に入って行くとそこに妖精の池がある、と書いてあったが、いっこうに分からない。枯れ木がある度、林の中に入ってみたが、池なんて全くないのだ。そうこうしているうちに、ずいぶん山道を下って小さな草原へ出てしまった。そこには、きのう僕らが登ってきた道以外に、もう1つ道があった。この道は、もしかしたら隠された近道かも知れないと思って、歩いてみることにした。すると、少し行った所に割合大きな池があった。水は汚く、おまけに蚊のものすごい大群が乱舞している。「はっ、こりゃ、とても妖精って言うイメージじゃないね。」一時は、この池が妖精の池かとも思ったが、がっかりしてしまった。(実は、これが妖精の池だった。)道はまだむこうの方に続いていたが、あまり遠くに行くのもなんだと思って、今度は、高山植物に注意しながらわずかに人の通った形跡のある土手を登ってみた。登りきると、突然お隣の大滝山の雄大な姿が目の前に飛び込んできた。しばしその光景を呆然と見つめていた。回りはみな林になっているのだが、そこだけが、急斜面のため、木が一本も生えていなく、隣の大滝山の雄大な姿が真横からバッチリ見える訳なのである。大滝山の展望も素晴らしかったが、足元の急斜面に群生している紫色の高山植物もまた素晴らしかった。緑の中に紫色というのは、実にあでやかなものだ。そして、更に向こうの方には、あのニッコウキスゲも咲いていた。山吹色の西陽に照らされながら、僕等はあの苦しかった登山の苦しみなど全く忘れ去っていた。
 池めぐりをしようと出かけたのはいいが、結局見つけたと言えばあの汚い池だけだった。だが、それ以上探す元気もなかったので、キャンプ場に戻ることにした。カメラしか持って来なかったので、ずいぶん速く歩けた。「きのうは、この辺で死にかけていたんだよな、俺達。」と、感慨もひとしおである。
 

実は、これが、妖精の池の目印の奇妙な形の枯れ木だ。右の道が当時の登山道。(現在は封鎖。道だった形跡すらもう残っていないかも。)左は現在の登山道ですぐ近くに妖精の池がある。(1999年に撮影)
 

実はこれが妖精の池だったことが、後になって分かったのぢゃ。 
               

例の急斜面のタチゲ。この場所を知っている人はどれだけいるのだろうか?この時はそれほど印象に残ってはいなかったが、その後、妙に気になる場所となり、何度もここへ来ている。しかし、滅多に晴れていることがなかった。
 

2007年に同じ場所から反対方向を撮りました。晴れていたのは、この時が2度目かなぁ。後ろの山は大滝山です。


 
 夕方になると、残念なことに天気が悪くなってきた。北の方角を見ると、どんよりとした空をバックにそびえる常念岳に、雲がかかっては通り過ぎていく。東の方を見ると、午前中とは違ってかなり分厚い雲海ができていた。おまけに風は、その雲海のある東の方角から穂高の方に吹いている。「今晩、ダメかなあ?」意気消沈してため息をつく。晩飯を食べて、しばらくすると、長い夏の陽も落ちていった。空は雲に覆われていたが、西の方には大きな切れ間があり、大キレットに沈んで行く太陽の姿がよく見えた。実に感動的な光景だった。他のキャンパーの多くも、縦走路の所まで出て来てその光景に見入っていた。期待していたアーベンロートは、極めて些細なもので、すぐに夕闇が迫ってきた。考えてみれば、穂高連峰は、西の方角にあるわけだから、穂高がアーベンロートに染まるわけがない。また、東の方角には近くに山がないのだから、蝶が岳からのアーベンロートは期待する方がおかしいのかも知れない。あたりが暗くなると、金星がギラギラとまばゆいばかりに輝きだして、びっくりしてしまった。−3.7等のはずなのだが、どう見ても−4.5等はありそうに思えるのだ。やがて、すっかり暗くなってきたが、星といったら、わずかばかりの雲の切れ間から力なく顔を覗かせるだけだった。「おーい、北斗七星が見えるぞ。」「あっ、こと座も見えたぞ。」などと、大声を出しながら空を見上げていたが、やがて、空から星は1つ残らず姿を消してしまった。雲の状態から判断して、全く晴れる見込みがなかったので、仕方なくあきらめてテントに戻った。
 東側の方で男が2人、のんきに歌を歌っていた。しばらくすると、西側のテントから「うるさい。」と、怒鳴り声が上がった。しかし、その2人はそんなことには全く気もとめず、歌い続けている。そこで、また「うるさ~い。」と一声。それでもいっこうに効き目がないので、「うるさーい。」の連発。だが、それでもしつこく歌っている。むこうも意地になって、声を合わせて「うるさ~い。」と、一段と大声で怒鳴った。今度はその大声は2人とも聞こえたとみえて、ピタリと歌が止まった。「どっちの方がうるさいか分からんなあー、ほんとに。」などと言いながら、時計を見ると、まだ8時。「おい、おい。いくら山の夜が早いたって、こりゃあ、あんまりだ。」僕も、タチゲも開いた口がふさがらなかった。


後記
 あの汚い池は、後の調べで、予想に反して、どうやら妖精の池らしいというのが分かった。1978年は早くから梅雨が上がり、それからしばらく雨があまり降らなかったので、予想以上に汚れていたのだろう。また、蝶ヶ池の方は、ヒュッテ近くで、ヒュッテの人が洗濯していた、かなり干上がってしまった小さな池がそれではないかと思われた。
 それから、30日に、病気になった女性を背負ってヒュッテまで登ってきた青年だが、翌日、ヒュッテ近くで見かけたが、ヒュッテの人かどうかは分からなかった。しかし、ヒュッテの中では一度も見かけなかったので、恐らくは、一般のクライマーではなかったかと思う。


 
 8月1日(21時の月齢23.1)
 目が覚めてテントから出ると、実に面白い光景が飛び込んできた。空のほとんどが雲で覆われている。穂高の上部もその雲がしっかり覆っている。しかし、雲のかかっていない中腹あたりから下は陽が当たっている。おまけに遠くの焼ヶ岳は、どうしたことか、その全容がくきっり見えている。言葉ではなかなか表現しにくいが、全く訳の分からない光景であった。東の方角を見たところ、これもきのうとは全く様子が違っていた。雲海がないので、下界がよく見えるのである。この時初めて、“どうして蝶ヶ岳へのクライマーが少ないのか”、その訳が分かった。それは、この蝶ヶ岳があまりにも里に近いからなのである。蛇行する犀川の向こうに松本市や大町がよく見え、あまつさえ、時より日光を反射して、ピカリと光る車の存在さえ分かるのだ。さらに、この蝶ヶ岳の東斜面には植林した形跡まであるのだ。「蝶ヶ岳は、里に近いからややクライマーの数が少ない。」と言うことは、ガイドブックで読んで知っていた。しかし、こうして実際に体験すると、確かに落胆があった。だが、ものは考えようである。里に近いおかげで、かえって人が少ない。それは、僕らの登山の目的からすれば、実に喜ばしいことではないか?
 

何じゃ、こりゃ?訳の分からない光景。


  
 何時頃だったか、僕は一人で大きなキジを射ちに行った。蝶ヶ岳をかなり下って、林の中に押し入って一撃。(良い子のみんなは、そんなことしちゃだめだよ。ウンチはバクテリアだらけなので、生態系が変わる可能性もあるかも?)それにしても、どうして山に来ると、こう、便秘気味になるのだろうか。キジを射った後、そのまま帰るのが惜しくなったので、更に下って、例の汚い池の所までやって来た。そして、未練がましく、その付近に妖精の池がないものかと、あちこち歩いてみた。すると、例の汚い池の近くに、かなり小さな池を見つけた。「今年はどこも水不足だからなあ。ひあがっちゃって、こんなに小さくなったのかも知れないな。」しかし、そのちっぽけな池が妖精の池だという証拠はどこにもないのだ。
 ところで、今日の蝶ヶ岳は東から雲が迫ってきて、いかにも僕達は雲の上にいるんだという気分になった。雲がやってくる度、僕はそこへ走った。雲は斜面を駆けあがり目の前まで迫ってきたが、ほとんどはそのまま空へと上昇して行ってしまった。なんとか雲の中に入れないものかと、粘ってみたが全くダメだった。何故そんな子供じみたことやってみたかというと、去年の大山7月キャンプの幻想的な思い出が忘れられなかったからだ。すっかり、ガスに覆われた朝の山道を、ラリと2人、歌を歌いながら歩いた。あの光景は実にロマンチックなものだったのだ。
 昼から、タチゲと高山植物を撮りに行った。この頃には、すっかり天気が悪くなり、ほとんど陽がささなくなっていた。薄暗いので撮影には時間を要した。60分の1か、30分の1で、Fは1.8の開放でないと露出が合わないのだ。ピンボケとブレが心配で、かなり慎重に撮影を行った。
高山植物は、おとといビバークした付近と、例の汚い池のある小さな草原で多く見かけた。コバイケイソウは、もう季節外れで、花が散ってしまったものが多かったが、ガクだけでも花のように見えるから面白い。ニッコウキスゲは、例の急斜面にしか咲いていなかったので、危ない思いをしながらも、なんとか撮影をしておいた。蝶ヶ岳にはいろいろな高山植物が生息していたが、憧れのコマクサはやっぱり咲いていなかった。コマクサは、この近くでは、お隣の常念岳まで行かないと、どうやらお目にかかるのは無理のようだ。蝶ヶ岳で見かけた高山植物の中では、僕はチングルマが一番好きだった。チングルマは一見草花のように見えるが、実はバラ科の木で、明るくて実にかわいい花なのである。そして、岩場に生息するというたくましさが、これまた良かった。
 

コバイケイソウ       
       

チングルマ


 
 いつ頃だったか、風向きが全く逆になってしまった。しかも、結構激しく吹いている。僕は、きのう蝶ヶ岳ヒュッテを見て、どうして風向きと逆の西側に石の塀があるのか疑問に思っていた。しかし、その理由がようやく分かったのである。 夜になると、かなりのガスが発生したうえに、風も相当激しくなった。しかし、それでも時よりガスの切れ間からものすごい星空が見えるので、観測の準備をしておくことにした。きのう一応観測場所は決めておいたが、こんなガスの深い夜に遠くまで出かけて行くことは自殺行為である。そこでとりあえず、蝶ヶ岳ヒュッテから少し行ったあの方位盤の所まで行くことにした。途中、松本市や大町の光が見えた。3年前、この同じ光を、藤井旭氏達も見たのかと思うと、非常に感慨深かった。まもなく蝶ヶ岳ヒュッテの横までやって来た。ヒュッテの窓からは光がもれていた。「いくらガスが濃いからといっても、ヒュッテに明かりがついている限りは遭難することはないだろう。」などと思いながら、先を急いだ。しかし、歩いて行くにつれ、その明かりがかんすでいく時の心細さといったらなかった。
 「あっ!」あの方位盤の所でふたつの懐中電灯がついているのに気がついた。こんな夜中に、しかも、こんなガスの濃い夜に、いったい誰だろう。一瞬背筋がぞくっとした。だが、近づいてみると、なんということはない。男女2人が話しているだけなのである。ガスの切れ間から見える恐ろしいほどの星空を指さして、その男の人が、若い女性に星座の話をしていたのだ。僕等が近くに来ると、その男の人が声をかけてきた。「これからですか?」(これから登山をするのかという意味か)「いえ、いえ。」僕等も初めから方位盤より遠くに行くつもりはなかったので、その場に観測資材を置いて、この素晴らしい星空に見入った。穂高連峰から槍ヶ岳へと続く向こうの尾根と、この蝶ヶ岳の尾根との間の谷は、すっかりガスがうずめつくし、あふれ出したガスが、足元の方を流れていった。まるで雲に乗っている気分だった。だが、一歩踏み誤れば、その雲の上から落ちるようで、何となく恐ろしい感じもした。
 

2006年に撮った蝶ヶ岳の星空、穂高連峰は2001年に撮ったもの、二人は1978年のもの。勿論合成写真ですよ。イメージはこんな感じでした。


 
 ガスの切れ間から見える星達は、実に強烈な光を放って輝いている。特にカシオペア座の凄さには腰を抜かさんばかりであった。誇張ではなく、本当に手が届くのではないかと思った。まるで、ほんの20~30cm先で輝いているように見える。僕は今までに、大山とか、隠岐島といった極めて条件の良い所で星を見る機会が度々あった。しかし、一度だって「星に手が届きそうだ。」なんて思ったことはない。しかし、このカシオペアときたら、本当に目の前で輝いているように思えるから驚きである。僕等は、すっかり興奮して大声で話し出した。すると、あの男の人がまた声をかけてきた。「天文の人ですか?」「ええ、はるばる島根県の松江市から来たんです。」僕は、僕等の星に対する入れ込みようを知ってもらいたかったので、余分なことまでつけて答えた。しばらくして、またその男の人が尋ねた。「猟犬座のα星はコル・カロリでしたかね?」その質問には、僕もタチゲもド肝を抜かれてしまった。普通の人なら、猟犬座すら知らない人が多いと思うが、この人ときたら、そのα星まで知っているのだ。恐らくこの男の人も星が大好きなのだろう。
 やがて、ガスのためにすっかり星が見えなくなってしまったので、ガスの中の2人はヒュッテの方に戻って行った。しかし、僕等は固定撮影でもいいから、なんとかこの素晴らしい星空が撮りたくてもう少し粘ってみることにした。だが、ものすごい風のためにもし晴れたとしても、三脚が倒れるか、倒れないまでも星像がブレることは必至であると悟った。おまけに、間もなく穂高の方からガスが押し寄せてきた。ものすごい濃いガスである。そのガスに一瞬吹き付けられただけで、メガネが曇って何も見えなくなる始末だ。そうなってはもうどうしようもなく、急いで帰ることにした。新しい電池に入れ換えたばかりのヘッドランプを照らしながら歩いたが、あまりのガスの濃さのために、2m先はもう全く見えなかった。「蝶ヶ岳はガスが発生すると、目印になるものがないので危険である。」とガイドブックに書いてあったが、全くその通りであった。そして、風も噂にたがわぬ、否、それ以上の暴風ともいえる激しいものだった。
 なんとか無事にキャンプ場に戻って来られた時には、さすがにほっとした。テントに入ると、他にすることもないので、寝る準備にかかった。けれども、すっかり身体が冷えきってしまった僕は、どうしてもキジを射ちに行きたくなってしまった。しばらくは我慢していたが、とうとう再びテントから出ることにした。タチゲは半分寝かかっていたが、こんな時に外に出るのか、とあきれかえった顔をしていた。風向きに顔を向けると、息が出来なくなるほどの暴風と、ものすごい濃霧である。「恐れていたアベック台風が上陸したのかもしれんなあ。」などと思いながらキャンプ場に戻ろうとした。「あっ!・・・」驚きと恐怖のあまり頭の血がすーっと引いていく。あまりのガスのため、キャンプ場がほとんど分からないのだ。ランタンに照らされて、ほんのかすかに、まさに陽炎のように、テントが見えている。しかし、距離感はまるでない。自分のテントがどれなのかなんて、そんなこと分かるはずもない。テントは全部で20張りくらいしかないないのだが、あまりの濃霧の中、テントの黄色い色が幻影のようにぼんやり浮かんでいるだけなのである。僕はすっかり動転していた。いざとなったら、どのテントでもよいから助けを求めて飛び込もうと本気で考えていた。まさにその時である。テントの外で明かりがともった。タチゲである。タチゲは僕の帰りが遅いので、心配してライトをつけてくれたのである。地獄で仏とはこういうことを言うのだな、思った。こうして、僕は自分のテントに無事に戻ることが出来たのだが、なんともはや恐ろしい体験をしたものだ。僕等は、以前何度も大山の鏡ヶ成で濃霧に見舞われたことがあるが、蝶ヶ岳のガスの濃さは、鏡ヶ成のものとは比較にならないほど恐ろしいものだった。暴風は、ゴー、ゴー、と唸りを上げていた。テントの中では、テントが激しくばさつく音と、時より殴りつける雨のバリバリという音が、いつまでも不気味に続いていた。
 それにしても、ガスの切れ間から見えたあの星空は、本当に素晴らしかった。恐らく、7等星は軽く見えていたことだろう。また、寒さも相当のものだった。冬の観測並の防寒をしていたが、それでも寒かった。鏡ヶ成の観測を教訓にして、セーターやジャンバーを持って来たから良かったが、もし、何も用意してなかったらと思うと、ぞっとする。


後記
 7月31日だったか、あるいは8月1日だったか、(たぶん、後者だと思う。)ケルンの丘で、石にいろんなことを刻んでみた。「T、今でも好きだ。」とか、「T、君と一緒に来たかった。」とか、「故M君よ、穂高の見えるこの場所で永遠に眠れ。長崎県立国際経済大学。」などと。そして、最後に、「僕等は星を見に来たのだ。ヤマト天文同好会。」と刻み、ケルンの一番上に乗せて置いた。僕がそうするのを遠くで見ていた女性が、後でその場所へやって来て悲しそうな顔をしていた。僕が刻んだ文字を読んだのかもしれない。(あるいは、こんな落書きをするなんて・・・と思ったのかもしれないが。)しかし、せっかく刻んだ文字も、8月1日から降り続いた雨で、すっかり消えてしまったことだろう。
 7月31日の寒さだが、同年11月に、長崎県の佐世保で、その時より薄着で徹夜観測したが、充分に暖かった。気温自体も低かったと思うが、あの暴風のため、かなり体感温度が下がっていたと思われる。蛇足かも知れないが、過去の記録では、この蝶ヶ岳でも、8月に気温が5℃まで下がったこともあるのだそうだ。


 
 8月2日(21時の月齢24.1)
 午前4時頃、「おーい、アブ衛門、すごいぞ。晴れとるで。」と、珍しくタチゲに起こされた。あわててテントの外に飛び出すと、なるほど、確かにすっかり晴れ上がっている。ゆうべ、辺りをすっぽり覆っていたガスはいったいどこへ行ってしまったのだろう。まだ薄暗く、風はゆうべと同じく激しく吹いていて、思わず身震いをしてしまう寒さである。
 

何と美しい光景。この光景にはキング・クリムゾンの「ムーンチャイルド」という曲がよく似合う。


 
 東の方を見ると、鎌型の月がなんとも神秘的に光を放っている。常念岳の麓の方には、黒く紫の雲がかかっている。辺りには、カメラを持ってテントから出てきた人が沢山いた。みんな御来光を待っているのだ。しばらくして、常念岳の上を飛んでいた雲が消え始めると、東の空低くにあった雲がオレンジ色に輝き始めた。だが、太陽は僕らをじらすように、なかなかその姿を現さない。もう月はすっかり輝きを失ってしまっていた。どれくらい待っただろうか、ずいぶん長い時間がたったように思えた。ついに、丸いオレンジ色の太陽が辺りを照らし始めた。とうとう、憧れの御来光を拝むことが出来たのだ。それにしても、なんと神々しい光景だろう。山の夜明けは、下界では到底味わうことのできない神聖さがある。その瞬間、僕は、山には本当に神様が住んでいると信じ込んでいた。
 

ついに拝むことが出来た御来光。



 
 しばらくは、御来光にばかり気を取られていたが、反対方向にも、なんともはや幻想的な光景が広がっているのに気がついた。向こうの尾根と蝶ヶ岳の間に雲海が発生していて、その雲海を突き抜けて、穂高達が、槍が、モルゲンロートに染まっているのだ。あまりの美しさにしばし放心状態だったが、はっと我にかえると、あわててシャッターを切り続けた。
 

何と神々しい光景なんでしょう。


 
 少しして、ケルンの丘に行って辺りを見回してみた。焼ヶ岳、乗鞍、御岳、そして、富士山も綺麗に見えている。しかし、不思議なことにお隣の大滝山だけは、斜面をかけ昇って来るガスがすっかり山全体を覆っていた。また、南南西の一部の山には、まるで接着剤のようにねばっこい雲が貼りついていた。しばらくは、寒さも忘れて、そんな風景に見とれていた。すると、突然近くで物音がした。なんだろうと振り向くと、なんと、高山鳥が一羽いる。雷鳥だろうか、イワヒバリだろうか。カメラに収めようと悪戦苦闘したが、ついに撮れずじまいだった。いつの間にか、梓川上空に発生した雲海が消え始めていた。「よーし、今晩こそ星空が見られそうだ。」安心しきってテントに戻ってシュラフにもぐり込むと、再び眠りこけてしまった。
 

よーし、ガスが晴れてきたぞ。


 
 8時過ぎに目を覚ますと、やや風はおさまっていたものの、今度はガス、それもかなり濃いガスがたちこめていた。一瞬僕は自分の目を疑った。ちょっと前まであんなに晴れていたというのに、本当に山の天気は分からない。タチゲは、いくら起こそうとしてもいっこうに起きないので、しばらくは僕も仕方なく横になっていた。だが、その間に風は激しくなり、テントが強くばさつき始めた。朝食をとる頃には、風はすっかり強くなって、ストーブに火をつけるのが非常に危険な状態になってしまった。そこで、またタチゲと口論が始まる。
 それでもなんとか食事を済ませ、テントから出てブラブラしている時のことだった。1人の男の人に声をかけられた。お隣の大滝山からやってきたらしい。「徳沢へ行くのは、どう行ったらいいですか?」ちゃんと標識があるのに見なかったのかな、などと思いつつも、「その道をまっすぐですよ。」と教えてあげた。その男の人は礼を言った後、思い出したようにつけ加えた。
 

ご覧の通り、大滝山だけにはガスがかかっていた。


 
 「御来光はどうでしたか?私は大滝山で見ていたんですけど、さっぱりでした。」「ここでは素晴らしい御来光が見えましたよ。あっ、そういえば、大滝山にはガスがかかっているのがここからでもよく見えていました。」僕がそう答えると、その男の人は落胆したのか、足早に歩いて行ってしまった。全く不運としか言いようがなかった。今朝は、ほとんどの山々が見事なまでに晴れ渡っていたというのに、ここからわずかしか離れていないお隣の大滝山だけは、すっかりガスに覆われていたのだから。
 その後何時間かしてから、タチゲと例の池の所まで行くことにした。2人ともすっかり手が汚れていたので、あの池の水でも洗えば多少はましになるかも知れないと思ったわけである。天気は相変わらず悪かったが、この頃には、たちこめていたガスはすっかり消えていた。池の方に向かって歩いていると、後ろの方で、女1人、男2人のパーティーが声をかけてきた。「そっちの道に行くと何かあるんですか?」タチゲがキジを射ちたがっていたので、「いえね、池があるだけですよ。それも、汚い水の。」と、汚い、というところを強調して追い払おうとしたが、連中はのこのこ僕等の後をついて来てしまった。しばらくすると、そのパーティーの女性が池で手を洗い始めた。僕等ですら、こんな汚い水では嫌だと、3日間も手を洗わなかったというのに・・・全くたくましい女性である。そのうち、そのパーティーが行ってしまうと、タチゲはようやくキジを射つことができた。その後も僕等はしばらく池の回りにいたが、実に面白いことを見つけることができた。その池は、蚊の大ふ化場であると同時に、珍しいヤンマの大ふ化場でもあったのだ。注意深く池の回りを見ると、まだヤゴから返ったばかりの白いヤンマが、何匹も羽根を乾かしているのに気がついた。そのヤンマは、蚊とりヤンマにも似ていたが、そうでもないようにも思える。そこで、一度テントまで戻って、カメラを持って来ることにした。帰る途中、登山道との合流地点で、女の子だけのパーティーがいてびっくりしてしまった。僕等が通ると、「こんな格好でー、失礼しまーす。」と陽気に歌いだした。
 

このヤンマ、もしかしたら新種のヤンマかと思っていた。しかし、2008年にインターネットで見ていたら偶然に見つけちゃいました。どうやら、「ルリボシヤンマ」のようです。だってねぇ、そんなヤンマの存在自体知らなかったもんねぇ。(写真は2009年のもの)
 
 キャンプ場に戻ってしばらくすると、またもや、ものすごいガスと暴風に見舞われてしまった。とても、あの池まで行けそうにはない。そのうち、雨まで降ってきたのだからたまったものではない。あの女の子のパーティーもあわててテントを張っている。リーダーの恐ろしい声があたり中に響きわたった。「1年はそんなこともできんのかー!」陽気な連中とばかり思っていたのに、何ともはや恐ろしいことで・・・僕等も、この暴風でテントが飛ばされては大変と、補強をし始めた。この時痛感したことが、風のある時は、ポンチョは全く役に立たないということである。やはり、タチゲのようにセパレートのものを持ってくるべきだった。
 充分すぎる程の補強をした後は、する事もないのでただテントの中で横になっていた。しかし、とんでもないことに気づいてしまった。浸水がかなり進行しているのだ。シュラフは、足元がべっちょり濡れている。やはり、E君のアドバイス通りに全身用のマットを買うべきだった。しかし、今更そんなことを思ってみたところで、まさに後の祭であった。テントは、家を出る時に防水スプレーを吹き付けてきたが、屋根の部分からもかなり雨漏りをしていた。そこで、苦肉の策で、テントの中にポンチョを張って雨漏りを防ぐはめになってしまった。やはり、フライシートは是非ともほしいところだ。
 ところで、あの女の子のパーティーだが、僕はまるで知らなかったのだが、タチゲが鶴見女子大の連中だと教えてくれた。こういうことになると、タチゲは金田一耕助も真っ青なのである。
 それから、この悪天の原因だが、台風は上陸しなかったものの、その通過にともなってフェーン現象が起きたためだと分かった。それが証拠に、下界の松本では、快晴で36℃を記録したとラジオが言っていた。こんな時にフェーン現象とは、僕等は全くついていない。この旅に出る時に最も恐れていたアベック台風は、とんでもない置き土産を持って来てくれたものだ。
 あたりがすっかり暗くなった頃、「あっ、支柱が折れた。」と大声がした。鶴見女子大のテントである。支柱が折れたんではどうしようもない。彼女達は、テントを放棄して、ヒュッテに避難して行った。僕等のテントは充分すぎるほどの補強をしていたので心配はなかったが、隣のテントが心配である。というのは、僕の忠告を無視していい加減にテントが張ってあるからだ。風はますます激しくなっていった。どこかの連中が大声で歌を歌っていたが、それも、ゴー、ゴー、という音にかき消されていった。
 テントは、バサバサ激しくたなびき、殴りつける雨がバリバリ音を立てていたが、僕等は補強を信じていつの間にか寝入ってしまった。
 ところで、夜に初めてヒュッテのトイレを使わせてもらったが、ヒュッテの中は女性が実に多かった。山で女の子と親しくなるためには、やはり、テントではなく、山小屋に泊らなくてはダメだと痛感した。(ヒュッテの中にトイレがあるわけではなく、多分別棟のトイレのことだったと思います。)


 
 8月3日(21時の月齢25.1)
 目が覚めてテントから出ると、あいも変わらず、あの暴風に、雨に、ガスである。初めは、「なあに、そのうち晴れるさ。」と、あと2泊する予定を変えることなど、夢にも思わなかった。しかし、鶴見女子大のテントを見ると、石が乗せて放置あり、その窪みには雨水がたまっているではないか。僕等のテントの方も、浸水が更に進んでいるうえ、暴風によって、ロープは切れ、ペグも浮いていた。そんなことで、気持ちがぐらつきながら一人で雨の吹きつけるガスに覆われた登山道を歩いていると、急にどうしようもないほどの不安に襲われた。このままここにいては、もしかしたら命取りになるのではないか?そこで、あと2泊などという計画はいとも簡単に捨て去り、タチゲに承諾してもらうと、急きょ下山の用意に取りかかった。とりあえず、キスリングだけをヒュッテの横に置いておこうと、キスリングを持ち上げた時のことだ。タチゲが見事にグランシに大きな穴を開けてしまった。しかし、タチゲは、「わざとやったんじゃない。」と謝りもしない。思わずむっとしてしまった。キスリングをヒュッテの横に置いて、テントを片づけに再びキャンプ場に行く時、強風にあおられて、危うく帽子が松本の方まで飛ばされそうになった。全くもって恐ろしい暴風だ。ヒュッテでは食事ができるということだったので、朝食を済ませてから下山しようと待ってみたが、ヒュッテの中はとんでもなく混雑していたのであきらめざるを得なかった。そこで、腹ペコのまま下山を開始。9時半近くのことである。
 僕は、7月31日のようなパッキングをしては命にかかわる危険性もあると考えて、今度は、観測資材のことには少々目をつむってしっかりパッキングした。しかし、タチゲの方はパッキングに失敗して、途中でやり直すはめになった。それでも、タチゲのキスリングは僕のものと比べるとだいぶ軽そうだったので、ゴミ袋を持ってもらうことにした。長塀山々頂に着くと、タチゲはすぐにキスリングを降ろして休んだ。登山の時のあのスタミナがまるで嘘であったかのように、ひどく疲れ果てている様子である。一方僕の方は、パッキングに成功したこともあって、ほとんど疲れを感じていなかった。そんな時、女の子が一人、相当な早歩きで登って来た。背はずいぶん高かったが、顔はまだ幼い。「あんな中学生みたいな子が1人で登山するなんてちょっと変だよな。」などと思ってもみたが、声をかける暇もないほど、あっと言う間に行ってしまった。タチゲはそこでしばらく休んでいたそうにしていたが、僕はせっかくのペースを乱したくなかったので、タチゲに断って先に行かせてもらうことにした。しばらく歩いていると、長塀山々頂で見かけた、あの女の子の親達に会った。「もう、蝶ヶ岳に着いちゃったんじゃないのかなあ。」と教えてあげると、「全く、あの子は・・・」とでも言いたそうな顔をして、またひたすらに登って行った。2時間ほど歩いた頃、平坦な所に出た。登山の時、長塀山々頂と勘違いした所である。その割合近くに「蝶ヶ岳まであと3km」という標識があるのだが、どう考えてもその標識はおかしい。僕は、重いキスリングをかついでいたとはいえ、ふだん平地で歩くスピードよりはるかに早く歩いていたのだ。それなのに、2時間で3kmは、絶対におかしい。
 その平坦な所で、僕はタチゲが来るのをしばらく待ってみることにした。腹も減ったし、喉も乾いたので、レーズンクラッカーを半分食べ、水筒の水で喉をうるおした。すぐ近くでは、これから登山する連中が食事をとりながら休憩していた。なかなかタチゲが降りて来ないので、退屈がてら、その連中に声をかけてみた。「蝶ヶ岳に行かれるんですか。」「ええ。あなたは蝶ヶ岳から降りて来られたんですか。」「そうですけど・・」「それなら、今から行ってテントを張れますかねえ。」「ええ、張れますよ。だいち、こういう天気ですからね。登山客自体少ないと思いますよ。」そして、連中のテントがドームテントだということを知っていながら、こうつけ加えた。「蝶ヶ岳の風はものすごいですから、くれぐれも気をつけて下さい。我々のテントはペグが抜けたり、ロープが切れたりしましたし、支柱が折れたところもありましたからね。」連中はしばらくすると、ゴミを土の中に埋めて、そして行ってしまった。あまり感心したことではないが、それでも、ゴミをそこいらに散らかして行くよりはまだましだと思った。しかし、それにしてもタチゲは遅い。40分待ったが、影も形も見えなかったので、先に行くことにした。あまり当てにはならないが、標識によれば、徳沢までまだ3km程あるのだ。途中滑って、危うく手首を捻挫しそうになった。その時ふと思った。「タチゲは、ゴミ袋を持って歩くのは危ないって言ってたなあ。やっぱり、途中で捨ててしまったかなあ。」道はぐにゃぐにゃ曲がって延々と続き、精神的にもまいってしまった。途中、何度休憩しようと思ったかしれない。しかし、雨でぐしょぐしょに濡れた所にキスリングを置いては観測資材が痛んでしまうと思って、1人黙々と歩き続けた。やがて、徳沢が見えてきた。かなり無理をして歩き続けただけに、その時の嬉しさといったら例えようがなかった。徳沢では、くたくたに疲れた身体を休めながら、タチゲの降りてくるのを待っていた。途中で40分も待っていたのだからすぐに降りてくると思っていた。だが、更に40分待ってみたが降りて来ない。無性に腹が立ってきた。僕はカンカンになって、せっかく降りた登山道を登り始めた。途中、僕等よりかなり後で出発したはずの鶴見女子大のパーティーに会った。それから更に登ると、ようやくタチゲの姿が見えてきた。あんまり遅いので、僕がタチゲのキスリングをかついで山を下ることにした。タチゲのキスリングは、僕のものと比べるとかなり軽かったので、相当な早歩きができた。徳沢に再び下ってタチゲを待ったが、またしてもなかなか降りて来ない。心配していたゴミ袋をちゃんと持って降りてきたのには、いささか感心したが、もうそれどころではない、僕のイライラは頂点に達していた。いくら何でも遅すぎる。
 僕等は、雨が直接かからない木の下にキスリングを置くと、徳沢園に行ってキャンプの許可をもらうことにした。僕はキスリングの背負いづめで手が震えて字が書ける状態ではなかった。しかし、タチゲは、「ミネがリーダーだから。」と言って代わってくれないのである。しかたなく、僕は震える手でサインをした。極めて険悪なムードが漂う。
ところで、入山した時、登山届に今日の午後4時に上高地に着くように書いていた。当初の計画では、いったん山を降りて、食糧調達をした後、再び山に登る予定にしていたからだ。「登山届と違う日程になってしまったが、変更しておかなくてもいいのだろうか。」小心者の僕はそのことが気になってしょうがない。徳沢園で電話で変更できないものか聞いてみたが、やはり、ダメのようである。そこで、どうしても上高地のバスターミナルまで歩かなければならなくなってしまった。しかし、タチゲは、「電話で何とかなるんじゃないかね?」と言ってみたり、僕が泥まみれになった登山靴を洗っている時も、ぼさーっと立って、ただ「飯食おうで。」としか言わないのだ。本来ならば、平等に2人で行くか、あるいは疲労度の少ないはずのタチゲに行ってもらうのが妥当ではないかと思うのだが、僕は腹が立ったのと、あきれてしまったのとで、何も言わず一人で上高地のバスターミナルへ向かった。タチゲの下山が思いのほか遅かったせいで、既に3時を少々回っていたから、相当な早歩きが要求された。しかし、疲れきった身体に加え、雨、そして、たっぷり水をすいこんだ重い登山靴をはいているのだから、それはまさに苦痛の一言に尽きる。バスターミナルに着いた時には、4時を少々回っていたが、何とか間に合うことができた。これからの日程にまた変更があるかもしれないので、「下山届」を出しておいた。つまり、書類上、僕等はもうここにはいないことになるのだ。
 ふと気がつくと、なんと、「大雨注意報」という標識が出ているではないか?僕はあわてて、7km離れた徳沢へ引き返すことにした。途中、雨は土砂降りになってしまった。道には、大きなヒキガエルが何匹も跳ね出していた。温度は低く、また土砂降りなのだが、喉が異常なまで乾いていた。明神に着くと、寒い中妙だと思われるかもしれないが、コカコーラを買うとゴクゴク飲んだ。そして、休む間もなくまた黙々と歩き始めた。しかし、相当な疲労のため、身体は言うことを聞かなくなっていた。自分では早歩きをしているつもりなのだが、足は思うように動いていない。どんなに急ごうとしても、全くスピードが出ないのだ。そして、恐ろしいことに降る雨の冷たさすら感じなくなってしまった。ふと、「夏山JOY」誌に載っていた疲労凍死の記事を思い出して身震いをした。
ようやく徳沢に近くまで来た所で、一人の男の人が声をかけてきた。「徳沢ではロッジか何かに泊まることができますかね?それとも横尾まで行った方がいいのかなあ?」「泊まれると思いますよ。なんせこの雨ですからね。クライマーも少ないですよ。」その人はキスリングを背負っていたが、実にスムースに歩いて行った。何とか追いつこうと必至で頑張ってみたが、距離を離されるだけだった。徳沢に戻ると、雨はようやく小降りになった。キャンプ場の近くまできた時、僕は怒りのあまり、もしタチゲがテントを張っていなかったら、本気で殴ってやろうと考えていた。
 キャンプ場に戻ると、タチゲはようやくテントを張ろうとしていた。そして、「どこに行っちょったね。」とか、「登山届の変更はやっぱり電話じゃダメだったかね。」などと言った。僕は怒りが爆発してとうとう怒鳴った。「おまえは口先だけで何もせんがな。」タチゲは、登山前に僕の自由雲台を壊した時も、そして今日グランシを破った時も、「わざとやったんじゃない。」と言って謝りもしなかった。そんなことへの怒りも一緒になって、ついに切れてしまった。しかし、手は出さなかった。それは疲れすぎていたためか、あるいは、僕がおとなしくなってしまったのか、よく分からない。黙りこくったまま2人でテントを張った。僕はそのうちものすごい寒さに襲われ、歯がカチカチ音を立て始めた。無理もない話である。食事もとらず、蝶ヶ岳から10時間も雨に濡れながら歩いたのだから。テントを張り終えるとすぐに着替えをした。あれだけ無理をしたのに、風邪はひかなかった。
 そのうち、どこかのワンゲルとおぼしき女の子がこっちを変に気にしながら通り過ぎて行った。「なんじゃ、あれは?」と思っていると、タチゲが説明してくれた。グランシを洗っている時、大きく破れているのを笑われたのに始まり、食糧についていた「スーパーノグチ」の値段札を見て喜んでいたというのだ。どこから来たのか聞くと、なんと、島根女短のワンゲルとのこと。タチゲも驚いたかも知れないが、僕の方もびっくりしてしまった。「なんと日本は狭いことだろうか?」
風は結構強かったが、蝶ヶ岳と比べたらそよ風ぐらいにしか感じなかった。また、8月1日の夜から断続的に降った雨のせいで、梓川の水はすっかりなまぬるくなってしまった。
 夜は、晴れる見込みなどあるはずもないから、徳沢園でカップ信州などというまずい酒を買って来て2人して飲むと、ぐっすり寝てしまった。
 尚、タチゲの弁では、下山が遅れたのは、足を痛めたからであり、テントを張らなかったのは、雨が強かったのと、一人では張れそうにないと思ったからとのこと。


 後記
 よく考えたら、登山届というのは、何かあった時のために書くものであるから、遭難して捜索願いが出た時のみ、照合されるものではないか?実にバカげたことをしてしまったものだ。また、私は短気でいけない。疲れているからイライラするのは仕方ないかもしれないが、それにしても大人げなかった。


 
 目を覚ました時は、曇天だった。しかし、そのうち晴れ間がでるようになり、夕方近くには快晴になった。僕等がテントを張った所は、木の下だったおかげで浸水もなかったうえ、その木には、タチゲがやってくれたのだろうか、ロープが張ってあったので、それに雨に濡れた衣類をかけて乾かすことができた。登山靴は、紐をほどいて日光にあてておいた。それにしても雨に濡れた登山靴というのは、なんと重たいのだろう。きのうは、こんな重たいものをはいて10時間も歩いたなんて、自分でも信じられない。
 前穂には、残雪が溶けてそれが小さな滝になっている所が、ここ徳沢からでもよく見えていた。しかし、登山前と比べると、その残雪はすっかり小さくなってしまっていた。また、登山前に比べて、キャンパー達の姿もすっかり様子が違っていた。登山前のキャンパーは、ほとんどがクライマーだったが、今は行楽客ががぜん多くなっているのだ。
 

まあ、とにかく疲れましたね。ちなみに、このオプティマスの灯油ストーブ、そのままでは火が付かないので、メタというアルコールのジェルを使ってプレヒートさせます。今じゃ、ブタンガスバーナーが一般的になりました。
 


 
 行楽客、といえば、僕等のテントの割合近くに男女混成のキャンパー達がいたが、その中に、素晴らしく足の綺麗な女性がいた。彼女はジーンズをかなり短くカットしたホットパンツをはいていた。足がすごく白いうえに、すらっと長く、ヒップの形も抜群だった。あんまり綺麗なものだから、僕はただ彼女の足だけを、口を開けたままずっとながめていた。

 

ホンマにきれいな足でした。(この写真は勿論別人ですよ。でも、こんなイメージでしたよねぇ。写真を入れ換えました。)
 

うーむ、イメージとしてはこちらの方が近いか?違うかー?
 

これならどうぢゃー!!(わしゃ、完全な変態ぢゃ。)
 

これは、DAZ Studioの3Dモデルを合成したものです。


 
 ところで、梓川の水は、8月1日から断続的に降り続いた雨のせいで、依然として生ぬるかった。また、徳沢園に流れる梓川の支流には、キャンパー達が洗い物をした際に流したご飯粒がかなり見られるようになった。それにしても、今になって、7月27日の夜、つがいけ2号に乗っていた、あの青年の話が身にしみてくる。本当に、8月最初の週は天気が悪い。
 夜になると、また例のように梓川河畔にやって来た。今度は河原での撮影である。下が柔らかいので、石突の下に石を埋め込んで補強した。しかし、近くで遊んでいる人がいて、なかなか撮影に入れないのにはホトホト困ってしまった。アストロノーマーで見たところ、どうやら6人もいるようである。女の声も聞こえるところから、恐らくあのホットパンツの女性のいるパーティーではないだろうか。なかなかキャンプ場に戻らないので、明視野照明装置の豆電球をコードごと不規則に回してやった。脅かすつもりでやったのに、逆に興味をひいたらしく、しきりにこっちの方を見て全く帰ろうとしない。しかし、やがてようやくキャンプ場の方に戻っていった。
                     

登山靴がボロボロですなぁ。


 
 ところで、空の方だが、時より薄雲がかかったが、星の輝きはまあまあだった。ただ、梓川の河畔なので、淡いモヤが発生しているのだろう。鏡ヶ成の星空と同等か、それ以下なのは否めない。
 撮影は全くダメだった。カメラを向けるところ、向けるところに薄雲がかかるからだ。まるで、写真に撮られるのを拒んでいるかのようだった。何時頃だったか、突然、−5等級の大火球が、前穂へひょろひょろと飛んで行った。あまりにも劇的な光景だった。それは、一瞬時間が止まってしまったような出来事だった。やがて、雲が多くなり、撮影の方はあきらめてしまった。それでも雲の合間から見える星空をながめていた。光害はほぼ皆無と言ってもいいほどだが、星明かりのため、2~3m先にいるタチゲもちゃんと見えた。夜半過ぎには、カペラやプレアデスが昇ってきた。真夏に見る冬の星座、なかなかオツなものである。「あーあ、今夜は蝶ヶ岳でも星空だろうな。クソッ。・・・いや、あの時下山して良かったんだよ。」いくら自分を慰めてみたとこで、やりきれないものがある。初めは徹夜をするつもりでいたが、やがて全天が雲で覆われたため、3時半頃テントに戻って寝ることにした。


 
 8月5日(21時の月齢27.1)
 朝、目を覚ますと、久しぶりに明神岳と前穂が紺青の空をバックにそびえる姿が目に飛び込んできた。時計を見ると、まだ8時。あたりが騒々しいので目が覚めてしまったのだろう。
 とこで、本当は今日帰途につかなければならなかった。というのは、一番最初の計画では、「2週間」を予定していたのだが、出発した後でタチゲが、「レポート書かにゃいけんけん、2週間もおれん。」と言い出したからなのだ。だが、そのタチゲが、「もう2泊してもいいよ。」と言ってくれたので、出発は明日まで延期することになった。(もう1泊は帰りの列車の中で)
 あのホットパンツの女性のいるパーティーも、まだテントを張っていた。今日は、あの女性が”ズボン”をはいていたので、視線が自然と顔の方にいった。好みとはちょっと違うけど、結構美人だった。
 

あの青い空が戻ってきましたね。


 
 それにしても、僕等がキャンプする時はいつも観測とか、撮影のためだが、一度でいいから、彼女達のように遊びで来てみたいものだと思った。しかしよく考えてみたら、僕等は星が好きでたまらないのだから、これが一番楽しいはずだ。やはり、星抜きのキャンプなんてとても実現しそうにもない。
 夕食の時、この旅に出てから初めて麦茶を沸かした。そして、それをアルミの水筒に入れて、落ちていたペグを使って、梓川の支流の中に入れておいた。水はすっかり以前の冷たさを取り戻していた。少しして水筒を取り出した。「ちったあ、触れるぐらいになったかな?」などと思いながら、水筒に触れてみて、びっくりしてしまった。まるで氷のように冷たくなってしまっているのだ。あの沸騰した麦茶が、ほんの短時間で、冷蔵庫の水より冷たくなってしまうのだから、これが驚かれずにいられようか。
 何時頃だったか、前日に引き続いて徳沢園へみやげ物を買いに行った。昨日のと合わせると、鐘のキーホルダーを2個と、「信濃路」と書いてある鐘と、絵葉書を2つと、「徳沢園」と書いてある飾りもの買ったことになる。少し余分に買ったのは、何かの機会に、“Tさん”にあげることができたらと思ったからだ。(その夢は露と消えました。笑えよー。)
夜になると、また素晴らしい星空になった。今度は、昼間見つけた徳沢園のすぐ近くにある道を通って梓川にやって来た。キャンプを楽しむ連中が10連発の打ち上げ花火を何発も打ち上げていた。僕等はその光害を逃れ、ずいぶん下流の方まで行って腰を据えた。この梓川のせせらぎを聞きながら、この前穂のシルエットをバックに浮かび上がる星空を見られるのは、これが最後かと思うと、非常に感慨深かった。しかし、いつまでも感傷に浸っている訳にもいかなかった。明日は朝早くにこの徳沢を立たなければならない。しかたなく、1時頃に早々に切り上げて寝ることにした。
それにしても、8月の徳沢はあまり好きになれなかった。昼間タチゲと頭を洗いに梓川にやって来た時も、裸で日光浴していた人がいたし、食器を洗剤を使って洗っている人もいたし、とにかく、行楽客が多くなったことで、マナーの悪い人が目につくようになった。そして、何よりも騒々しくなって嫌だった。もっとも、自分自身のことは棚に上げて、偉そうなことを言っているのだが。


後記
 確か、この日の観測を終えてテントに戻る時だったと思うが、トイレの近くで、「これからですか?」と、おばさんに聞かれた。「これから・・・?」と聞かれたのは、これで3度目なのだが、長塀尾根を登山中の時は別だが、全く変な時に聞かれたものである。聞いた方は、真夜中に登山する者がいるとでも思っていたのだろうか?(実は、こんな時間から登山する人も、少ないながらもいることを後年知ることになる。)


 
 8月6日、7日(8/6の21時の月齢28.1)
 朝4時に目が覚めると、いつもながら寝起きの悪いタチゲをようやく起こすと、出発の準備に取りかかった。それにしても、ものすごい寒さである。テントから出た時は、もう白み始めた空に、星達がひたむきに輝いていた。北西の方向に目をやると、北十字星が描く巨大な剣が前穂に深くつき刺さっているのが見えた。それは、恐ろしいまでに神秘的な光景だった。僕は思わず身震いした。反対の方角に目をやると、長塀山の東にオリオン座が顔を出していた。ふと、高校2年以来、みんなと幾度となくキャンプをしてきた日々が思い出され、目頭が暑くなった。「これが北アルプスでみる最後の星空なんだ。」と、僕はいつまでも薄明の中の星空を見つめていた。
 やがて、明神岳と前穂がモルゲンロートに染まった。出発は、僕が準備に少々手間取ったため、予定より数分遅れて、7時過ぎになってしまった。僕のパッキングは、まあまあうまくいったように思えた。しかし、ポタ赤の極望のプラスチックのキャップがまともに背中にあたって痛いので、タチゲにタオルを挟み込んでもらった。行きとは違って相当な早歩きができた。またしても、パッキングの重要性を痛感せざるを得なかった。明神まで来ると、一応休憩をとり、その後、そこから少し行った所で、記念撮影をした。あの明神岳が最も神秘的に見える所である。しかし、今朝の上高地はよっぽど寒いのだろう。カメラのレンズに露がついて容易には消えなかった。そのうちタチゲが、一人の女性から写真を撮ってほしいと頼まれた。その女性は、徳沢から僕等を追うように、ずっと後をついてきたようにも思えた。あるいは、タチゲに気があったのかもしれない。一方、僕はというと、この旅で3度も撮影を頼まれたが、みんな男の人からだった。みじめと言おうか、何と言おうか・・・
 記念撮影をした所から一気に小梨平まで歩いたおかげで、予定よりずいぶん早く河童橋に着いた。7月28日、初めてここへやって来た時と比べて、一段と人が多くなっていた。7月28日には、穂高連峰の方ばかりに目がいってまるで気がつかなかったのだが、梓川下流の方には、焼ヶ岳の豪快な姿が、まるで絵葉書のような鮮やかさで迫っていた。
 河童橋からわずかに離れたバスターミナルに着いたのは、途中のロスをのぞくと、徳沢を出発してから1時間半足らずのことである。バスターミナルでは、「思い出」の天プラうどんを食べて腹ごしらえをした。タクシーの運転手から、「相乗りをすればバスより安くなるし、それに早いよ。」と誘いがあったが、それを断って、僕等は、のんびりバスで帰ることにした。しかし、そのバスだが、当初、時刻表で調べておいたもの以上に、ずいぶん本数が多くなっているようだった。8月3日に下山届を出した際に、いくらかバスの出発時間を覚えておいたのだが、覚えていた時刻のものよりもうひとつ早くて、しかも松本までいくバスがあったので、結局そのバスに乗ることにした。さっそく、切符を買うべく、列に並んだのだが、その時、僕の前の前に並んでいた女性が、上高地のお土産と思われる小さな鐘のアクセサリーを落とした。声をかけようと思った瞬間、僕の前に並んでいた男性が、何も気づかずにそれを踏んでしまった。僕はあわてて声をおし殺した。やがて、その男性は切符を買って行ってしまったが、その時には、あの女性はどこへ行ってしまったのか、まるで分からなくなっていた。そんな訳で、非常に悪い気がしたものの、そのアクセサリーを頂いてしまうことにした。ところで、バス代は、松本まで荷物込みで11.510円と、意外にも安かった。そのバスからは、来る時にはガスでまるで見ることができなかった大正池を見ることができた。大正池の水はかなり少なくなっていたが、それでも、その水面には、豪快かつ奇怪な焼ヶ岳が、その姿を映し出していた。ありきたりだが、その光景を、「神秘的だ。」という言葉以外に表現することができない。その後、しばらくはウトウトとしていたが、松本近くになって、あまりの暑さのために完全に目が覚めてしまった。考えてみればそれも当然のことだろう。今朝の上高地の冷え込みからすると、朝の上高地と昼の松本では、少なくとも20℃、否、ひょっとすると25℃以上も温度差があるかも知れないのだ。松本に着いた時、タチゲは吐くことはなかったが、ずいぶん気分を悪そうにしていた。
 ところで、帰りの列車だが、大時刻表でかなりの時間をさいて調べておいたにもかかわらず、大きな間違いをしでかしていた。切符を買う際に、ずいぶん感じの悪い駅員に怒られて、初めてそのことに気がついたのだ。僕は、あわてて時刻表を買って来て、必死で列車の時刻を調べ直した。だが、タチゲはぼおっと立っているだけだ。よほど気分が悪いのか?
昼飯は、松本駅内の商店街でカレーを食べた。その後、かき氷を食べようと、またタチゲと待合い室から出た。しかし、少し行ったところで、タチゲが消えてしまった。あちこち探してみたが、どこにもいない。ただでさえ気が滅入っていたので、そのまま待合い室に帰ってしまった。「山を降りたら、絶対にかき氷を食うぞ。」その、念願とでも言うべきかき氷を目の前にして、食べることのできなかったショックといったらなかった。待合い室には、足を骨折して松葉杖であるいているクライマーもいた。
 14時51分、特急しなの4号は松本を後にした。列車の中は超満員で、座ることはおろか、身動き一つするのも大変な状態であった。タチゲは、強力な酔い止め薬を飲んだにもかかわらず吐いている。そのうち、OLとおぼしき女性のグループが乗って来た。そのうちの1人が、僕の隣にやって来て、列車が揺れる度、故意とも思える程寄りかかって来るので、僕は緊張のしっぱなしであった。時間が立つにつれて、乗り物酔いをした人や、用を足す人がトイレにやって来た。トイレの前にいた僕等はたまったものではない。身動きすらできない所へ人が割り込んでくるのだから、その都度、非常に窮屈な思いをしなければならなかった。ところで、僕の横には、まだ若い夫婦がいた。その奥さんの方はどっかで見たような気がして仕方がない。「ああ、そうだ。誰かに似ているんだ。」誰かに似ていることに気がついたが、いくら考えても分からない。(後で、高校の時の同級生である、Mさんによく似ていることを思いだした。)しばらくして、気分を悪くした1人の女性がトイレにやって来た。松本で見かけた女性である。この暑さ、この狭苦しさ、そして、この揺れでは、タチゲのように乗り物にめっぽう弱い者ではなくとも、気分が悪くなるのは無理もないことかも知れない。そのうち、今度は気分を悪くした少女がやって来た。その娘は、キュートという感じではなかったが、個性的な魅力を持っていた。かなり気分が悪いとみえて、トイレから出た後も、僕のすぐ近くでずっとしゃがんでいた。それにしても、女の子が気分を悪くしているのを見ると、何とかしてあげたいと思うのに、相手が男だとできれば知らんぷりしたくなってしまうのだろうか?偶然その娘の手に触れてしまったが、まだ幼さの残るかわいい手だった。
 超満員のしなの4号が京都に着いたのは、19時15分のことであった。しなの4号の終着駅は大阪で、そこから急行も出ていたが、松本で駅員に山陰本線で帰ると言ってしまったてまえ、京都で降りることにした。タチゲは完全にグロッキーになっていた。そして僕も、3夜連続の睡眠不足もあって、かなり疲れきっていた。
 22時02分、ようやく僕等は京都に分かれを告げた。3時間足らずの待ち時間がひどく長く感じられた。列車の中は、またしても超満員で、疲れきった身体を休めるスペースなどどこにもなかった。仕方がないので、僕は列車のドアの所に座ることにした。時より睡魔に襲われたが、ドアは開けっ放しにしてあるので、下手に寝てしまえば、列車から放り出されてしまうだろう。また、足を伸ばしただけでも、電柱やホームに、もし触れれば足が吹っ飛んでしまう。こわくなって、やがて、無理矢理通路に座った。タチゲといえば、恥も外聞もなく通路で横になっていた。
 列車はいつまでたっても満員で、僕は一睡もできなかった。しかしながら、4時49分、列車が鳥取に着くと、かなりの人が降りて行ったので、僕等ようやく座席に座ることができた。
 松江近くになって、高校時代の友達のF君が女性連れで乗り込んできた。そして、僕等に対面する座席に座った。彼等は、これから京都に行くのだと言う。僕の方は、「北アルプスの山に登って、今その帰りなんだ。」と、力ない声で説明した。彼らがとてもうらやましく思えた。しかし、疲れきった身体とはうらはらに、夢を実現できた充実感が、心の奥底から湧いてくるような気がした。
列車が松江に着いたのは、朝の8時44分のことである。僕もタチゲも言葉少なに分かれを告げて家に戻った。僕は、家に着くと、昼頃まで寝ていた。そして、起きてから体重を計ると、この旅に出発したときと比べると3kg程度、広島に立ち寄った時と比べると5kgも減っていた。


追記、後記


☆この登山で学んだことは、まず、人間の体力というものが意外にあるということだった。登山では、あのキスリングをかついで12時間、そして、下山の時には、雨の中を10時間も歩いたなんて、自分でも信じられないくらいである。人間、その気になって必死にやれば、何でもできるのかも知れない。
それから、この登山では、「本当の優しさ」というものを学んだ。自分のことで精一杯だったので、ささいなことでタチゲに辛くあたった。自分勝手なところもかなりあったと思う。本当の優しさとは、即ち、本当の強さであると痛感した。自分に余裕なくして優しさなど存在するはずがないのだ。
 それから、これは以前から思っていたことだが、旅に出る時には、人数は3人以上がいい。と言うのは、2人では話題がすぐ尽きてしまうし、お互いの個性がモロにぶつかりあって気まずくなることも多いからだ。もっとも、今回のように体力の極限を極めるような旅ではなく、気楽な旅行の場合はどうなのか分からないが・・・


☆登山から帰って、“Tさん”に会う機会があるにはあったが、その日、僕は、後輩と一緒に、鏡ヶ成でPer流星群の観測をしていた。「鏡ヶ成には絶対に行く。」と言っていたタチゲも行けなくなってしまったし、ラリもボーズも行けなかった。従って、しんどいペルセウス流星群の観測に、わざわざ鏡ヶ成まで行かなくてもよかった。楽しくて、気楽な三瓶山(さんべさん)の同窓会キャンプの方に行けばよかったのかも知れない。そして、“Tさん”に会えばよかった。しかし、結局僕は鏡ヶ成に行ってしまった。それは、星が好きだし、ペルセウス流星群の観測もしたかったからだが、それ以上に、鏡ヶ成にどうしても行きたかったのだ。鏡ヶ成は、僕にとって「心のふるさと」になっていたのだ。


☆この登山に持って行ったフィルムは、カラーリバーサルの36枚撮りが4本と、ネガカラーの36枚撮りが1本と、24枚撮り1本の計6本である。ネガカラーの24枚撮りはタチゲにあげたが、後はみんな撮影した。リバーサルを4本も使ったのは、スライド映画を作りたかったからである。しかし、残念なことに、リバーサルの1本は、大山に行った時、誤って一部を感光させてしまった。
 また、このスライドと、今まで写してきた天体写真のスライドと、お土産と、金と、バックと、自転車がすべて盗まれるという大災難にあってしまった。グビタの家へ行った時、玄関で話すだけのつもりだったが、ほんの短い時間家の中に入った時に盗まれたのだ。盗まれたこと自体大災難だったのに、事情徴収のため、炎天下の中、乃白から古志原の警察まで、自転車で何往復もしなければならなかった。数日後、一般市民が見つけてくれて、警察に通報があった。金以外は、何とかすべて戻ってきた。それにしてもひどい話である。それでも、大切なスライドが戻ってきたことは大変嬉しかった。あのスライドは金では買うことができないのだ。
 スライド映画は、「宇宙戦艦ヤマト」の音楽をふんだんに盛り込んで、一応完成した。だが、タチゲや正井氏には見てもらったが、当初考えていた南高での上映は実現しなかった。


☆この登山の第1アドバイザーであったM君が死んだことを知った時、僕は体調を崩してしまった。10日間もの間、微熱に悩まされたのだ。その微熱が続いている最中に、少林寺拳法の昇段試験があった。その日の気温、34℃。睡眠不足と、厳しい教官、蒸し風呂の中のような体育館、僕は今にも倒れそうになった。


☆タチゲのキスリングは、帰ってから計ると、まだ30kg以上あったそうである。とすると、タチゲのものより重かった僕のキスリングは、帰る時でもまだ35kgくらいあったのではないだろうか。それから考えると、行きは、37kgよりもっと重たかったのかも知れない。


☆キスリングは、我が大学のワンゲルの主将であるE君のアドバイスによって購入したものだったが、これは大失敗であった。確かに、キスリングは容量もあって大きなものでも詰め込むことができる。しかも、安い。だが、パッキングの難しさといったらなかった。特に大きなキスリングの場合、パッキングは更に難しくなるし、パッキングの善し悪しで、体感重量がまるで違ってくるのだ。初心者の僕等は、やはり、アタックザックにすべきであった。ちなみに、タチゲは初めフレームザックをほしがっていたが、僕が無理矢理キスリングを買わせた。専門家の話では、日本の山ではフレームザックはあわないということだったからだ。しかし、今から考えれば、キスリングよりはましだったかも知れない。


☆タチゲによって壊されたと思っていた自由雲台は、何とか直すことができた。しかし、その際指に怪我をしてしまった。あげくの果てに、せっかく直りかけた時に、同じ所を金具にぶつけてしまい、その怪我はいつまでたっても直らなかった。


☆この登山が終わった後、充分に身体を休める間もなく、大山の鏡が成でペルセウス流星群を2晩徹夜で観測をした。そして、8月末には、炎天下の中、少林寺拳法部の地獄の夏期合宿があった。また、母親のはからいで、香港、マカオへも旅行した。更に、炎天下の中、実によく動き回った。そのつけが、秋に回ってきた。生まれて初めて夏ばてというものを味わうことになった。精気が失われ、全く動きたくなるからたまったものではない。


☆タチゲとはトラブル続きで、松江から大学のある下宿に戻るときも、なんか、喧嘩分かれのような状態であった。だが、やはりタチゲは親友である。タチゲ以外の誰が、たかが星を見るために、北アルプスの山を登ってくれただろうか?この登山、費用は一人あたり7~8万円もかかった。そして、様々な困難があり、体力の限界を極めた登山だった。登山の最中、タチゲとのトラブルが何度も起こった時、「この登山はさぞや思い出深いものになるだろうよ。」と、皮肉たっぷり言ったものだが、今では、皮肉なしに本当に思い出多き、貴重な体験ができた素晴らしい登山だと思っている。できれば、機会を作ってタチゲとまた登ってみたいと思うのである。


☆登山後、大学に戻って、E君に北アルプスに行ってきたことを話した。その中で、パートナーのタチゲとは喧嘩ばかりしていたことも話した。すると彼は、「いいなぁー、お前等は。」と言うのである。「いいなぁー、妥協抜きでつき合えるのはとってもいいことだよ。」と彼はしみじみと言うのである。そう言えばば、あれだけ喧嘩ばかりしていたのに、またタチゲと山に登りたいと思っている。これが本当の友達というものかも知れない。もっともタチゲにとっては迷惑な話かも知れないが。


☆登山に行く前、タチゲは手紙の中でこんなことを言っている。「天ガに載っている藤井旭の文章は楽しいことしか語らない。しかし、その楽しみを得るために、どれだけの苦労をしなければならないかは、星が本当に好きな者にしか分からないし、また、星が本当に好きな者しか、そんなことをする事はないだろう。どれだけの費用をつんでそこまで行き、どれだけの体力を費やして山を登り、そこでどれだけ寒さをこらえて頑張れるか。それだけのことに耐えねば、『高い山の上では、下界では滅多にお目にかかれないものが、何のことはなしに見えてしまう。』ということを体験することはできないんだ。・・・僕等が山に登るのは、それは、昔は平地でも見えていたが、今ではもう高い山の上でしか見ることのできなくなった“モノ”をを見るためなんだ。」


☆この登山が終わってから、タチゲから手紙が届いた。そこには、「ヤマト同心」と書いてあった。タチゲが、僕等のことをヤマト同心と呼んでくれた時、僕は、「さよなら」という言葉を使わなくなった。分かれの時には、「再見」(ツァイチェン)と言おう。またどこかで、きっと会えるさ。


 
 それが素晴らしい思い出なら、思い出に浸るのもいい。だが、もっと素晴らしい思いも作ってみたい。
 
  翌1979年大山縦走を敢行。
 1980年早春、雪の三瓶山キャンプ。
 1981年早春、3mの残雪の大山登山。
 
 そして、1993年夏、新たな夢へ向かって動き出す・・・
 1980年2月23日に書き上げた「蝶ヶ岳讃歌」を一部修正して、ワープロに入れ直す。(1993年6月9日完成 MS-DOS版一太郎Ver4.3にて)
 その後、マッキントッシュに画像を取り込んだうえで、修正を行う。
 *実は、この「蝶ヶ岳讃歌」他大量のデータ(約500MB)が入っているハードディスクをイニシャライズしてしまうというミスをおかし、1996年12月21日に、文章だけとりあえずMS-DOS版の一太郎からMacに復活させ修正を行った。(クラリスワークス4.0使用)
 1997年12月7日に再修正を行う。(PM8500/180にて)
 1998年2月14日、Mac版EG WORD8.0にて修正を行う。これは、クラリスワークス4.0のワープロが字詰めがうまくできないため、見た目が今ひとつであったこともその理由である。
 1999年6月12日、誤字脱字の修正を行った。(PM MT300stにて)更に、1999年7月19日、最終的な修正を行う。(EG WORD9.0.1使用)
 (1997年12月にCD-RWを購入したことにより、CD-Rにデータを焼いて保存する。)
 その後、さまざまな修正を加える。EG WORD14や、egword universalなどに保存するが、エルゴソフト社がパッケージソフトから撤退を決定したので、2008年2月17日に「ワード2008年Mac版」に修正保存した。現在は、Mac版ワード2011にて保存。
 
 パソコンを買い換えたり、データを整理したりしていた間に、紛失してしまった画像も結構あることに気がついた。うーむ。この当時は、当然のことながらフィルムでの撮影だったので、ニコンのフィルムスキャナーなどで画像をスキャン、デジタル化している。また、2012年12月に、しょうもない原因で、予定外の買い換えになった12コアのMac Proで編集している。
 
 余談ですが、この登山記録をDVD化しようとしています。実は、かなり昔、フォトビックスという機材を使って、リバーサールやネガをビデオテープに録画、それにあわせてナレーションを入れるという形でチャレンジ。しかし、これは、編集がきかずに途中で諦めました。その後、2002年だったか、Macとビデオ編集ソフトのファイナルカットプロを使って「前編」だけは作りました。しかし、まるで満足のいくものではありませんでした。1978年の、この蝶ヶ岳讃歌のDVDは、私が生きているうちに完成することが出来るでしょうか?ちなみに、2001年の蝶ヶ岳登山のDVDは、何とか完成させました。恐らく1.000時間以上時間がかかったのでは?映画監督のすごさが分かりました。・・・でもな、最初はVHSテープ、DVD、ブルーレイ・・・規格がどんどん変わっていくのよねぇ。今では、4Kのテレビも出てきましたしねぇ。


 
黒く紫の風の中
ムーンチャイルドが踊る
黒く紫の風の中
君の魂は眠る
 
足元の石に君の名前を刻んでみる
君が好きだった穂高がここからはよく見える
憧れの穂高は心にしみいるほど美しい
 
あいつのことだ また「おいっ」なんて
ひょっこりやってくるさ
誰かが独り言のように言う
僕はただうなずいた
 
君がわずか19年の人生を終えたのは
海の見える岩場
山がとっても好きだったのに
それが海だなんて
おかしくておかしくて
涙がこぼれてしまう
 
黒く紫の風の中
ムーンチャイルドが踊る
黒く紫の風の中
君の魂は眠る
 
 
 
その年の9月、僕はM君が亡くなった牽牛崎に行って来ました。あの岩場には、枯れきってしまった花束が無造作に残されていました。僕は、撮ってきた穂高連峰の写真を何枚か置いて、登山の報告をしました。人の命ははかないものですね。そして、人の記憶もはかないものですね。彼が生きた証は、あの枯れた花束と同じように消えていってしまうのでしょうか?
 ・・・いや、そんなことはないはずです。少なくとも僕はそう信じたい。そして、新たな素晴らしい思い出を作りに山に登るのです。
 

M君の似顔絵をマウスを使って書いてみました。へたくそ。


 
 
 

当時の撮影機材は、こんな感じでした。こりゃ、クソ重いわ。
 

高校一年の時に初めて訪れた、鳥取県の大山の鏡ヶ成。この鏡ヶ成で見た星空がすべての始まりだったのかも知れない。ちなみに、当時憧れだった女性が写っている。ごっつぅ美人でしたねぇ。宇宙戦艦ヤマトの「森雪」みたいなイメージですかねぇ。(2199のヤマトに出てくる森雪は、ちょっとイメージが変わってしまっている。)初めて、しゃべった時には、心臓が口から出てしまうかと思うほど緊張したものです。若い、若い。なで、なで。


 
 
 現在の装備は、だいぶ変わりました。ポタ赤はアストロトラックTT320XかK-ASTECのGF-50。NikonのD810、Canon EOS5 MarkⅡ(天体用に改造)、テントはアライの軽量のエアライズ、三脚はジッツォの小型のカーボンのもの、ザックもノースフェイスの75Lのものに。シュラフも羽毛になり容量も重さもずいぶん楽になりました。昨年は、徳沢までだけだったので、スワロフスキーEL 8.5x42 SWAROVISIONという世界最高の双眼鏡も持って行きました。ただ、マットは93年の登山の時に、それまで使っていたエアマットが駄目になっているを確認しなかったので、本当に大変な思いをしました。現在は、エアアシストのものを使っています。これなら、例え空気が抜けてもそれなりに使えます。
 一番重い機材を担いで登ったのは、この1978年でしょうが、それ以降では2001年の時もすごかった。キャノンのEOS 5 (35mmフィルムカメラ)と、ペンタ67(勿論ともに交換レンズも)を持って登りました。そのほか、通常撮影他のためのデジタルビデオカメラ、高感度モノクロCCDカメラとそれを接続するために、もう一つのデジタルカメラ何ぞを持って行ったのです。写真を熱心にしている方は、北アルプスでもセミ版カメラ、67カメラ、はたまた4×5(しのご)まで持って登る方も見ます。しかし、2001年の私は、ザックに容量がなくペンタ67は手にぶら下げて登ったのです。これは、事件ですぞぉ。つーか、完璧にアホですなぁ。