「貧相アブ衛門」は本名ではない。当たり前。私は単なるアホである。
(2007年の蝶ヶ岳とTOA130Sと、Shadeという3Dソフトで作成した架空の女性とアダムスキー型円盤を合成)


かなりいい加減なHP。随時手直しします。


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2度目の蝶ヶ岳登山記録(1993年)

 

 

アルバムを開くと、20歳の頃の君と僕がいた。君は、蝶槍の岩場に腰掛けて、双眼鏡で穂高連峰を見ている。僕は、常念岳をバックに「ピース」をしている。
思えば、1978年の7月27日から8月7日にかけて行った、あの蝶ヶ岳星見登山、それはまさしく僕等の青春の一大イベントだった。

 


大学4年の時に行った学生時代最後の登山

 

 大学4年の春、最後の登山と思って登ったのは、それはまだ3m以上の残雪がある大山だった。
 それ以降タチゲとまた山に登るなんて、考えてもみなかったことだ。「ははは、もう体力がないもんな。」「だいち、暇がないもんな。」「だいたい、タチゲが一緒に登ってくれると思うか?無理、無理。」できない理由ばかり集めて、一人で諦めていた。
 
 東京の生活にクタクタに疲れてやって来たのが高松。だが、信じられないほどの災難に、これでもか、これでもかと会い続けていた。精神病の一歩手前と言ってもおかしくないほどの状態になってしまった。民間の精神療法も受けた。そして、催眠術や、メディテーションなどの本も読みあさった。それほど深刻な状態に陥っていた。しかし、皮肉にもその読みあさった本が、今回の登山の大きなきっかけをつくってくれた。「何かをする時は、それがうまくいくことを強く念じ、決して否定的な考えを持たないこと。そうすれば、一見不可能に思えるようなことでも必ず成就できる。」
 「エッ?それじゃあ、もしかしたら、その気になればもう一度蝶ヶ岳に登ることだって、できるかもしれんぞ。・・・よ一し、やってみようか。」
 さっそく具体的な行動に入った。まず、タチゲを誘う方法だ。そこで最初にやったのが、前回の蝶ヶ岳登山の手記「蝶ヶ岳讃歌」を修正してワープロに入れ直すことだった。大学ノート80ページからある文章をワープロで打つことは実に大変だった。しかし、これが完成すれば、タチゲは僕の熱意を分かってくれるかも知れない。(ブラインドタッチを練習してようやくできるようになった頃です。)年末年始には、ほとんど毎日ワープロを打ち続けた。だが、作業ははかどらない。そこで、とうとう5月のある日、完成を待たずに、タチゲに電話をしてしまった。「あのさー、まだ具体的じやないんだけど、夏に蝶ヶ岳に行ってみん?う一ん、まだ僕自身絶対に行こうと決めているわけじやないけどさ・・・」しかし、あいつの答は実に意外なモノだった。「うーん、行ってもいいかな?」当然、「そんなの無理だよ。」と言われてしまうと思っていたので、嬉しいと言うより拍子抜けしてしまった。
 この登山を成功させるためには、僕自身やらねばならないことが沢山あった。まず体力づくり。ここ近年の夏場の体力の低下は異常とも言えるほどのものだった。何もしたくないほどの倦怠感。少しでも動こうものなら著しい疲労感に襲われていた。そこで、5月下旬から無理のない範囲で走り始めた。また、体質改善のため、ハイチオールCという薬を飲み続けた。(何故ハイチオールCだったのかは今では謎。)更に、アルカリイオン水をつくる器械を大枚をはたいて買った。次に、この登山が必ずうまくいくために、メンタルスクリーンに成功している時のイメージを焼き付けた。いわゆるイメージトレーニングというヤツだ。また、15年前の反省から、バシバシ撮れるカメラを買うことにした。とにかくコマ数を稼がなくては良い写真は撮れないのだ。検討した結果、キャノンのEOS 5を購入。(28mmから105mmのズームレンズ付)更に、今回は何としてもビデオでいろいろと撮りたいと考えていた。当初は、ソニーのV900?という東京時代に買ったカメラを持って行こうと考えていた。ハイ8だし、恐らくは1/3インチのCCDのため画質は文句はなかったが、いかんせん、かさばるうえに、重すぎるのだ。そこで、とうとう小さいモノを購入することに決定。文字どおり血迷って、高い、高い、パナソニックの3CCD−l、ブレンビープロを買ってしまった。「ホームムービーでは一番の画質」という専門雑誌の評価が頭の中にすりこまれていたのからかもしれない。

 

これは、ソニーのV900?と言うハイバンド8のビデオカメラ。さすがに、これを山に持って行くのは・・・

 

 
これが、新しく買ったブレンビープロだ。だいぶ小さくなった。でも、今のハイビジョンカメラからすれば画質も電池の持ちも雲泥の差だ。(持っているのはタチゲ。)
 

 これまで、夏休みは4連休だったが、今回は何とか6連休をとることに成功した。今年は、文字どおり「夏がなかった」といってもよいほどの異常気象だった。そのせいなのか、あるいは、薬やアルカリイオン水、はたまたジョギングのおかげか、珍しく夏ばてをしないで済んでいた。道具もすっかりそろっていた。新たに購入したのは、インナーフレームのアタックザック、布と皮の軽い登山靴、グランテトラ風の水筒。後は、今までに買いそろえたものでほぼOKだ。
 タチゲが来る8月9日までに、僕は汚い部屋を掃除する必要があった。普段はガラクタが所狭しところがって、まさに足場のない状態なのだ。特に電灯がついていない夜中は、地雷源を歩くように足探りで進まないと、何を踏んだもんか分かったもんじゃなかった。しかし、この掃除、「ああ、いよいよだな。」という気持になり、めんどくさいと言うより、むしろ楽しいモノに思えてしまうから不思議なもんだ。
 しかし、いいことばかりがあるわけではない。ゴルフ練習場の駐車場で、車を接触させてしまったり、仕事でも、全く理由が分からないのに、得意先の先生が怒って、会ってもくれなったりで、すっかり落ちむ日々もあった。

 

 
 1993年8月9日
 本当は早く帰るつもりだったが、仕事に手間取り、予定の1時間遅れで営業所に戻ってきた。おまけに、得意先の先生が訳の分からないことをしてくれるものだから、営業所に帰ってからも、患者さんに電話で対応をするはめになった。そうこうしているうちにタチゲから電話が入った。「今着いたよ一。」あわててタクシーを拾って室町のスカイラークと向かう。
 「いや一、お疲れさん。」どうでもよいような話に花が咲く。そこで飯を喰って、彼の新車、三菱のRVRで僕のアパートヘと向かった。「おい、おい、大型の台風7号が来てるってよ。本州へ渡ることができるのかよ。まいったな。」どうやって本州に渡るのが良いのか、実はまだ決めていなかった。神戸までフェリーで行けば、時間はかかるが、身体は楽だ。宇高フェリーで行けば金はかからない。だが、事態はそれどころではない。この大型台風がまともにくれば、しばらくは僕のアパートで缶詰状態にならざるを得ないかも知れないのだ。登山など夢のまた夢だ。登山の用意は、大いに手間取った。僕がいい加減な用意しかしていなかったからだ。この期に及んで、カイロがなくて大騒ぎだ。これも用意周到なタチゲが使い捨てカイロを持っていて解消したが.・・この日になって、僕は突然、大幅な計画変更を提案した。上高地からの入山をやめて、豊科から須砂渡を経て、三股から登山するルートに急きょ変更したいと言い出した。全くの僕の独断からなのだが、この天候では余裕が持てるルートでないと、とんでもない結末を迎える恐れが充分にあると考えたからなのだ。いや、考えたと言うよりも、そう思えて仕方なかったという方が当たっているかもしれない。この変更に対してタチゲは特に反対をしなかった。というのは、タチゲは体力の低下が著しく、この高松に来るのすら躊躇するという状況だったからだ。むしろこの変更は、タチゲにとっても喜ばしいことだったかも知れない。ただ一つ残念な選択も同時にしなければならなくなった。130年ぶりにその母彗星が回帰して、大出現が大いに期待されるPer流星群は、ほぼ固定撮影のみで済ませることになりそうなのだ。せっかくタチゲが買ったスカイメモは重すぎて、これをかついでの登山は不可能だと思われたからだ。いよいよ横になったのは、午前1時頃。「遠足の前の幼稚園児状態」を恐れた僕は、得意先の先生からもらった、睡眠薬、ハルシオンを飲んで寝た。しかし、これがどうもいけなかった。後で胃の調子が最悪になってしまう。

 

 
 8月10日
 起きたのは、6時頃だったか。恐れていた通り、大型台風はモロにやって来てしまったのだ。フェリーは、選択に悩むこともなかった。宇高フェリーしか運行していないようだ。「とにかく行ってみようか。」と車を走らせた。瀬戸内海は結構波が高かったが、それでもさすがは内海だけあって、気分が悪くなるほどの揺れはなかった。船を降りてからは、かなりの雨と風のために、特に橋の上を走る時などは、

 


宇高フェリーの船内から見た四国フェリー。

 

「うお一、ハンドルが取られるー。」とタチゲは大声を出している。「本当に松本まで行けるんだろうか?」とても心配になってきてしまう。「あっ、ブルーハイウェイが通行止めだ。」仕方なく、国道2号線を迂回することになる。大変な時間のロスだ。
 窓越しに大雨を見ながら昼食をとった。「後でいい思い出になるかもしれんけど、こんな状態では松本付近まで行くというのは無理かもしれんな。ましてや、テントを張ろうなんていうのは、自殺行為だな、こりゃ。」2人もあきれ果てて苦笑した。福崎から中国自動車道に入ったが、とんでもない雨だった。50k m/h制限になっているが、みんな80k m/h以上で走っている。前があまりよく見えない。特に、追い越しをかけられると、一時的ではあるが、全く前が見えなくなってしまう。実に恐い。そんな中、元気なバイク野郎が走って行った。元気すぎる。今の私には到底まねできない。
 大阪あたりでは、雨はかなり小降りになってきた。台風を追い越してしまったのだろうか。しかしながら、テンパルことは危険すぎるので、ホテルに泊まることにした。だが、松本のホテルは、どこにかけても満室ばかり。ようやくとれたのは、ニューステーションというホテルのセミダブル。とにかく松本まで急がねば・・・名古屋からが意外に遠かった。雨は止んだり小降りになったりの状態だし、渋滞はないが、とにかく行けども行けども松本に着かない。いい加減に嫌になってしまう。
 ようやくホテルに着いたのは、高松を出て、約12時間後のこと。8時前くらいのことだろうか、もう真っ暗になっていた。わずかに雨も残っている。食事は居酒屋でとることにした。僕は胃の調子がおかしくなっているのに、自分でも驚くほどよく喰うこと喰うこと。一方、タチゲの少食ぶりは、これまた異常なほど。
 ホテルのセミダブルと言うのは、とても落ち着ける雰囲気の代物ではなかった。当たり前だが、ベッドは一つなのだ。今回は、タチゲの体力の低下が異常だったので、彼にベッドで寝てもらうことにした。僕は、床でシュラフに入って寝た。だが、異常なまでに精神不安定になり、眠れない。何故かとても恐ろしい。ホテル全体が揺れているような感じもしてくる。いったい何なんだろう。この部屋だけが開いているというのも何となく気になってくる。もしかしたらヤバイ部屋なんじやないだろうか?

 

 
 8月11日
 完全な寝不足状態の僕とは裏腹に、タチゲはすっきりとした顔で起きてきた。「ああー、よく寝た。ベッドはとても快適で、ミネ(アブ衛門のニックネーム)には申し訳ないくらいだ。」と一声。本当に申し訳ないぞ、と言いたい気持ちはあったが、登山どころの状態ではなかったタチゲが元気を取り戻してくれたのは何よりのことだった。

 


すっかり体力を回復したタチゲ。

 

 さて、今日はこの登山での一番の難関が待ち受けていた。車をどこにとめておくか。これが計画段階からの一番の問題なのだ。まあ、とにかく豊科まで行ってみることにした。だが、豊科駅に来てみたが、駐車場はない。どれもが月極め駐車場なのだ。一度、須砂渡のキャンプ場の方まで行ってみたが、やはりなさそうだ。また豊科駅まで戻って駐車場を探し始めた。じっとしているのが嫌だったので、そこいらじゅう歩いてみた。小一時間ほど歩いたが、月極め駐車場以外はやはり見つからなかった。「あっ、そうだ。電話帳で探せば見つかるかもしれんぞ。」と思いながら、駅に戻って来ると、タチゲが興奮して合図を送っている。「見つかった、見つかったよ。」何と、須砂渡のキャンプ場に電話したら、無料で止めてくれるとのこと。「おい、おい、苦労して探していたのはいったい何だったの?」一気に力が抜けてしまった。キャンプ場の管理人のおじさんに聞くと、三股にも駐車場があるとのことだったが、タチゲの車は新車なのだ。安全なこの須砂渡に置いておく方が安心だ。(現在は、三股に立派で大きな駐車場が出来ています。)
 バッキングを始める頃には、台風一過の快晴になった。一気に暑くなり、蝉もやかましいほど鳴き始めた。恐ろしいほどの天候不順の夏、しかも、大型台風の直撃もあったのに、奇跡的な快晴。子供のようにはしゃぎまくる。

 


突然、須砂渡に夏の陽ざしが戻ってきた。

 

 登山で一番重要になってくるのが、パッキング。15年前の経験からこいつだけはしっかりしておこうと考えていた。とは言うものの、何と、完成まで2時間もかかってしまった。何とか楽に登りたいという考えから、ずいぶんゼイ肉をそぎ落とした。鉛バッテリーの“DCワーク”も持っていくことを断念。タチゲは、自分のブレンビーを何としてでも持って行きたいと、ついにブレンビーを入れたデイパックをアタックザックに取り付けた、スペースシャトルスタイルを考案した。「それにしても2時間はかかりすぎだよね。」
 三股まではタクシーを利用することにした。タチゲが、電話をしてくれたが、一つ目の所は、なかなか電話に出てくれなかったうえ、来るまでに時間がかかるということだったので、没。二つ目の所はすぐ来てくれるとのことで一安心だ。しかし、用意が完全じゃない時に来てくれたのだから僕は大あわてだ。ザックを置いておいて、とりあえずタクシーが待ってくれている事務所前に行けばいいのに、ザックをかついで走ってタクシーの所まで行った。う一む、実に愚かだ。かっかっかっか。(パニックに陥りやすい性格だな、これは。)タクシーの運転手さんを見でひっくり。ドラエモンのようなオバちゃんなのだ。このオバちゃんがすごい荒い運転をするからまいってしまう。いつしか、結構な雨になっていた。「こんな雨の中、あんな重い荷物をかついで山なんか登るんかね、おー、やだ、やだ。」と、オバちゃんが言う。このオバちゃん方言が丸だしで、語尾に「ズラ」がつく。あんたは、トノマか?締麗にしてある車を泥道を走らせて汚してしまったので、少々「イロ」をつけた代金を払ってオバちゃんとはお別れだ。タクシーから降りる時、オバちゃんは、またしても、「おー、やだ、やだ。」を連発していた。後部座席に乗っていたタチゲはというと、何と、降りて初めて運転手さんがオバちゃんだということに気づいたらしい。何ちゅう失礼なやっちゃ!ところで、三股には、確かに駐車場はあったが、狭くてすぐに一杯になってしまう貧弱なものだった。やはり、須砂渡に車を置いてきて正解か?雨は結構強く降り続いている。一瞬躊躇したが、諦めて出発した。時に、12時35分のことである。カメラにはビニール袋をかぶせて雨をしのぎつつ、何時でも写せる状態にしておいた。ザックの重さは恐らく20k g台に収まっていたと思われる。かなりの軽量に仕上げたつもりだったし、長堀山ルートから比べるとはるかに平坦で楽な登りのはずだった。しかし、久しぶりの登山は信じれなくらいの苦痛が襲った。タチゲはパッキングも悪かったとみえて異常な程に腰を痛たがった。20分かそこら歩いたところに「カ水」という場所があった。そこで、すでに二人ともダウンしてしまった。15年前と違って二人とも水筒は万タンだし、気温もかなり低いので脱水状態にはならないだろう。だが、前とは体力があまりにも違いすぎる。本当に登りきることが出来るのだろうか。結構緩やかな登りが続いたが、そのうち案の定勾配はきつくなってきた。だいたい30分歩いて5分休むというペースで登ってきたが、それさえもできる状態ではなくなってきていた。ガレ場のトラバースもあるし、かなりハードな登山になってきた。途中降りて来たオバサン連中に聞くと、昨日は台風による暴風で、尾根を歩くことが出来ず、常念岳に向かう人達が蝶ヶ岳ヒュッテに足止めを喰らっていてヒュッテは満杯とのこと。「う一む、いざという時にはヒュッテに駆け込まないといけないと思っていたが、それも無理なのか?」

 


「力水」ですでにのびてしまったタチゲ。

 

 疲労困憊の時の飴は、実感として体力を回復させてくれるのが分かる。休憩の時には必ずタチゲからもらった飴をほうばり、水筒の水で喉を潤した。そうこうしていると、かっこいいお兄さんが下ってきた。「三股に女の子が二人いませんでしたか?」「え?僕等が登るときは誰一人いませんでしたけど・・・」「はあー、そうですか?」彼は足早にまた下って行った。「おいおい、遭難かよ?15年前の再現かよ、冗談じやないぞ。」15年前のあの日、女性が遭難していたのに出くわしているのだ。「でも、仮にそうなら、今度は少しは力になれるかもしれんな。」15年前のあの時には、僕等は倒れる寸前まで体力を使い果たしていて何も手助けする事が出来なかった。僕はそれをとても後悔していた。  
 「あー、晴れてきているぞ。」タチゲが大声を出した。腰を降ろし、遠くを見ると、向こうの方はず一っと晴れてきている。「やったー、これでPer群を見られるかもしれんぞ。」しばらくすると、女性が一人登ってきた。結構イイ女である。話をするとあのお兄さんが探していたうちの一人であることが分かった。東京から来たのだそうだが、今回はズブの素人の女友達を無理矢理つれて来たのだそうだ。途中手間取って登山する時間も遅くなったうえに、登るペースもかなり遅くなってしまったとのことだった。うーむ、それにしても、北アルプス何ぞでこんなイイ女と話ができるとはラッキーである。しばらくすると、あのお兄さんともう一人の女性が登ってきた。ありやー、こっちもイイ女!この寒いのに、ホットパンツに素足だ。おまけに、色が恐ろしく白い。くそー、俺は色白と、ホットパンツにはめっぼう弱いんだ。それが、いっぺんに攻撃してくるなんてなんて卑怯じやないか?かくして、私の体力は一時的にせよ回復することとなるのである。実にげんきんなものである。途中抜きつぬかれつ歩いていると、もう一人、男性が小屋から加勢に降りて来た。話の中で、僕が、「ここへは15年ぶりなんですよ。」と言うと、何を聞き違えてか、「エッ?35年ぶりですか?」と聞き返してきた。おーい、俺はいったい幾つにみえるんだよ。こう見えても、若く見れることではチイとは有名なキャラクターなんだぞ。タチゲをほったらかしにして登ると、開けたところがあり、一面お花畑になっていた。15年前もそうだったが、山は僕等の苦労をちゃんとねぎらってくれているのだ。行きも絶え絶えにキャンプサイトに着いたのが、6時半を回った頃だった。だが、嬉しさの反面、僕は大変なショックを感じていた。15年前の、あの登山の時のアルバムを穴が開くほど見ていたのに、キャンプサイトの光景をまるで勘違をして記憶していたのだ。尾根のてっぺんにキャンプ場があると思いこんでいたのだ。だから、「エッ?こんな所だったかー?」と言うのが正直な感想なのだ。そして、自分の記憶がこれほどまでに曖昧なものと分かった時、あー、俺も年なんかなーと寂しくなってしまった。感傷に浸っていると、あのホットパンツのパーティーが登ってきた。だが、タチゲは来ない。寒さに震えていると、ようやく7時前になって彼が登ってきた。

 

 

この女性は実際に見るとアルビノではないが異常に色が白い。私がゲルマン民族かと言うと、タチゲはラディッシュ民族と言っていた。左の男性が、後で「鼻掘りお兄さん」と呼ばれることになった人物。疲れ切ったその女性のザックを代わりにかついで登ってきた。

 

 

僕はキャンプ場の光景を完全に間違って記憶していた。(これは、後日撮ったもの。)ま、後で考えるとあながち間違いでも無かったかもね。写真の場所からだと稜線の一番上と言ってもおかしくない。

 

 今回のタチゲの腰の痛がり方は異常なほどだった。彼もまた年なのかも知れない。いくら人が少ないとはいえ、良い場所は取られていたので、風がかなりきつく当たる場所にテンパることとなった。それにしてもこの寒さはどうだろうか。風も暴風と言っても差し支えない強さだ。テンパると、小屋へ届出のためと、ビールや水を買いに行った。水はl5年前1リットル50円だったのが、5倍の250円になっていた。おまけに、沢からポンプで上げるのだろうが、とてもビニールホースの臭いがきつく、まずい水だ。ビールの500m lのものは700円、缶リザーブの方は400円だった。小屋には若い女性がたくさんいた。実にうらやましい。女性と知り合いになるのには、絶対山小屋じやなくてはいけない。あのホットパンツの娘は、さすがに寒くなったとみえて黒いスパッツをはいているのが見えた。ちょっと残念だぞ。あのお兄さんもいたが、ナント、彼はPer群のこと知っていて、今夜小屋の屋根に登って一緒に見ませんかと誘ってくれた。小屋の外は星空が広がっていた。大町あたりの公害がひどくなったのか、東の空はかなり明るくなってしまっていたが、それでも星達の輝きは相当のものだ。足元は暗くて、暗闇に慣れているはずの僕等でもライトなしではおぼつかない。食事をした後、ビールと缶リザーブを飲み干した。アルコールが入れば、冷え切った身体も暖かくなるだろうし、ぐっすり眠れることだろうと考えたからだ。タチゲが言った。「晴れて本当に良かったね。Per群も見れるといいね。」だが、僕は午前2時に起きれる自信は全くなかった。それほど疲れきっていたのだ。しかし、テントの中では眠るところの騒ぎではなかった。僕のエアマットは、栓の部分が溶けてしぼんでしまって、空気が抜けてしまい、マットは半分以上ペッシャンコだ。ただでさえ恐ろしく寒いのに、背中の方から寒さが嵐になって襲ってくる。ティーシャツ、厚いトレーナー、冬山用のウエア、そして、カイロまで入れているのに、痙撃しているのじやないかと思われるほど、激しく大きく身体が震えている。歯もガチガチ大きな音を立てている。おまけに、冷えきった身体で、冷たいアルコールを飲んだもんだから、胃が激しく痛みだし、シュラフの中で僕は七転八倒していた。

 

 
 8月12日
 しかし、そのおかげ?で、午前2時前にはテントから出ることが出来た。絶好の観測日よりである。ただ、風は途方もなく強く、途方もなく寒い。広角がほしかったので、僕はあえてEOSの方をメインで撮影することにした。月明かりに穂高連峰が照らし出され、それはそれは幻想的な世界が広がっている。肝心なPer群は例年通りの出現しかない。それでも、一つ飛ぶたびに大声を出してはしゃぐ。蝶ヶ岳の上でPer群を見ること、それは夢のまた夢だったのだ。当初、僕は、Per群の観測か、蝶ケ岳登山のいずれか一方だけでもできれば大変なラッキーだと思っていた。それが両方ができるなんて、まさに奇跡に近いことだ。僕のカメラに視野には、そこそこ明るい流星が10個ほど横切ったと思われた。一方、タチゲは運が悪く、うまいこと流星が飛ぶ方向にカメラを向けることが出来ない。(実は、現像してみたら嘘のようだが、1個も写っていなかった。アホー!)乗鞍岳に目をやると、ひっきりなしに車のライトの行列が続いている。御来光をいかに楽して高い山の上で見ようとしている人達の行列なのだろうか。あるいは天文ファンの行列なのだろうか?ともかく、あの状態では乗鞍岳で天体写真を撮ることなど、至難の技だろう。

 


そこには、信じられない奇跡の光景が広がっていた。

これは、2001年岡山県美星町で撮った獅子座流星群(3枚合成)

 

 寒さとの戦いでもあった幻想の夜が明けると、午前5時過ぎ、神々しい御来光を拝むことが出来た。東側は一面に厚い雲海に多い尽くされ、それはあたかも海の彼方から昇る太陽のようだった。そう言えば、とんでもない人がこの蝶ヶ岳にやって来ていた。夜中の12時に三股から登山を開始してこの御来光を見に来たという人がいたのだ。結構足場が悪いところがあるのによくやるもんだなと、開いた口がふさがらない。さらに、御来光を見た後、すぐ山を降りるのだそうだ。まさに、「信じられな一い。」の一言。
 少々睡眠をとった後、蝶槍へ行ってみることにした。ヒュッテでは屋根の上で布団を虫干しをしている。今年の夏は異常なまでの天候不順だったため、布団を干せたのは何十日かぶりのことだと、小屋の人が話していた。う一む、実にきっちゃない。「登山小屋で泊まらなかったのは正解だったかもしれんぞ。」カメラと、ブレンビープロだけしか持って出かけなかったのだが、睡眠不足のため、それとて大変しんどい。だが、天気は快晴。風もすっかりおさまっている。それにしも、ビデオカメラ、これが実にイイ。ビデオは時間と音声が加わるから臨場感が追ってくる。また、スチールカメラはスチールカメラの良さがある。いつでも見れるし、ビデオで言うところの画素数は、400万以上あるので情報量が圧倒的に多い。15年前はズームレンズなしのマニュアルカメラで満足していたが、今回奮発してEOS 5を買って良かったと思う。オートフォーカスは、うまく使えばとても便利だし、ズームレンズもとても便利だ。マニュアル機に固執していたことがアホらしくなってしまった。とにかくバカスカ撮ることが出来るのがイイ。ちなみに、フィルムは富士のスーパーG400、リアラ、コニカのインプレッサ、GX3200をたくさん持ってきた。とにかく数をこなざなければいい写真は撮ることが出来ない。
 蝶槍では、15年前の時と同じように岩に腰掛けて、穂高連峰をバックに写真を撮った。昨日までの天気では無理はないとは思うが、とにかく人が少ない。それが少々寂しく残念だ。だが、蝶槍からの帰り、山頂であのホットパンツの人達に再会した。女の子の写真は撮ったが、あのお兄さんを撮ろうとしたら、「僕はいいです。今鼻ほってますから。」それ以来、あのお兄さんは僕等の間では、”鼻掘りお兄さん”と呼ばれることとなった。

 


15年ぶりの蝶槍でガッツポーズ。

 

蝶槍からの帰り、山頂であの娘達に再会した。(現在はここが山頂ではありまへん。この当時でもここは山頂とはちゃうと思っていた。)

 

 夕方、ふと気づくと、東の空にガスが昇り、そこに円形の虹ができていた。自分の影こそ見れないが、ブロッケンのできそこないである。僕等が騒ぎ始めたものだから、登山客みんなが大騒ぎになってしまった。せっかくだからと、昨日通りかかったあのお花畑にも行ってみることにした。大滝山へ向かう道の途中にある、このお花畑には、少々時期を過ぎたはずのコバイケソウが群生して花をつけていた。ミヤマキンポウゲも咲いているし、イワカガミだって咲いている。岩場ではないのでお気に入りのチングルマは見つけることができなかったが、なかなかのお花畑である。ところで、このお花畑へ犬をつれてきた男の人がいるが、そばにいたおばざんが、「犬の持っているバクテリアのせいで、全滅したお花畑がある。」と講釈をたれていた。それは正論かもしれないが、端から聞いていても、その言い方が実にイヤミったらしくて気分が悪かった。

 

 

出来損ないのブロッケンの妖怪。(鳥取県の大山や、燕岳では完璧なブロッケンの妖怪を見ることができている。)

 

 一時は薄雲が広がって、もう天気が崩れるのではないかとも思ったがまた快晴の空が戻ってきた。15年前と同じように大キレットに沈む太陽を見ることができた。太陽が沈むととたに気温がぐっと下がって寒くなってしまう。昨日の服装にプラス、セーターまで着込んで観測の準備にかかった。EOS5はタベ、バルブでシャッターを切りまくったら電池がなくなり危険な状態になってしまっていた。予備の電池は2個も用意していたのだが、車の中にしっかり忘れてきてしまった。そこで今回はオリンパスOM−lにタチゲから借りた28mm広角をつけて、これまたタチゲからもらったSHG1600で写真を撮ることにした。流星が飛ぶたびヒュッテの方からも大歓声が起こる。昨日もそうだが、風があるおかげで、レンズに露が着かないのは大変助かる。(もっとも、今日は昨日よりは風が弱いので、念のために時より使い捨てカイロでレンズを暖めたのだが・・・)突然、タチゲが「うわー、流れた。今のは絶対入ったぞー。」と大声を上げた。さそり座にカメラを向けていたら、ちょうどうまいぐわいに群流星が流れたのだ。時よりガスがあふれ出して、蝶ヶ岳の尾根を覆い尽くしたが、2晩続きの快晴。僕等はまさに奇跡に出くわしたのだ。この恐ろしいまでの天候不順の夏に、2晩も続けて晴れて、Per群の流星を、この蝶ケ岳で、そして、タチゲと一緒に見ているのだ。まさに奇跡としか言いようがない。それにしても、今回の登山はタチゲには世話になりっぱなしであった。食事はすべて用意から作るのまで任せっぱなし。もっともそのおかげで、ラーメンとカレーばかりになったのだが。また、使い捨てカイロやフィルム、はたまた広角レンズまで借りてしまった。また、彼が無理して自分のブレンビーを持ってきてくれたおかげで、後で楽しむことができることになるのだ。また、今回はタチゲのザックの方が重たくなってしまい、悪いことをしてしまった。とにかく今回の登山では、タチゲにはとても感謝しているのだ。

 

 

これは、いつ撮ったのか。(最初の夜だった可能性が高い。)月明かりがうまく穂高連峰や槍を照らし出している。

 

 
 8月13日
 今朝もまた穂高連峰の美しいモルゲンロートを見ることができた。今日も良い天気だ。まさに奇跡的な晴天。だが、ラジオで聞くと天気はこれから崩れて雨になるとのこと。目標を果たしてしまったので、何のためらいもなく山を下ることにした。ぜひ上高地に寄ってみたかったので、今日は長堀山ルートを使って下ることにした。しばらく歩くと、僕は驚きの余り思わず大声を出してしまった。15年前にビバークした場所が、目の前に、圧倒的な迫力で、ドーンと飛び込んできたからだ。

 


この窪地には、忘れ得ぬ思い出があった。

 

 こうして見ると、確かにそこは取って付けたような窪地になっている。「あそこには残雪が残っていたし、あっ、そうそう、荷物を置いて小屋に行ったら、暗くて荷物がどこにあるのか分からなくなってしまったんだよなあ。ああー、そうだ。さそり座が恐ろしいまでに明るく見えていたよな。」あの日のことが昨日のことのように甦ってきて、思わず込み上げてくるものがあった。
 道は15年前とは少々ルートが変わっていた。妖精の池が通路となっており、以前の道は閉鎖されていた。ふと気づくと人がいる。ありゃ、あのホットパンツの娘達だ。鼻掘りお兄さんが「僕はここで引き返さないといけないので、一緒に行ってくれますか?」と聞く。本当は是非そうしたいところだが、ザックの重さが違いすぎる。とても同しペースで歩くことはできない。「いやあー、この荷物ですからね、かえって迷惑になりますから、お先にどうぞ。」心にもないことを言って先に行かせる。うーむ、実に残念だぞ。涙、涙。
 下りは楽だと思われるかもしれないが、決してそうではない。予行演習として一人で大山に登ってきたが、下りの方が膝に負担がかかり、完全に膝が笑う状態になってしまっている。確かに体力的には、登りよりは少し楽であるのは事実だが、気を抜けば結構危険である。それにしても、先を歩かしていたタチゲのペースが異常に遅い。そうこうしているうちに、私は思わずもようしてきてしまった。ずっと腹の調子が悪いのに暴飲暴食を続けてきたからだ。木々の中に押し入って、波動砲発射!プーン!クッサー!やがて、長堀山山頂に付いたが、木々がすっかり成長してしまって、穂高のほんの一部しか見えなくなってしまっている。また、15年前は全く気づかなかったのだが、山頂の少し手前に池があるのが見えた。タチゲの下りのペースは異常に遅かった。恐らく私ならl.5倍以上のペースで歩けるだろう。そのため、徳沢まで何と6時間もかかってしまった。天気はすっかり悪くなり、雨の降るのも時間の問題だった。ジュースを飲んでしばらく休み、水筒に水を入れると小梨平へ向かって歩きだした。正直言うと、もう疲れ果ててもう一歩も歩きたくなかった。それに、身体のあちこちがとても痛い。タチゲも、腰に激痛が走っていることだろう。しかし、帰りのことを考えると小梨平まで是非行っておきたい。
 梓川まで出ると、明神岳と前穂が見てきた。しかし、疲れ果てて感動は湧かない。雨も降ってきていた。先を急ぐ。途中、足が長く、豹柄のホットパンツの娘が前を歩いていた。クッソー、俺はホットパンツに弱いっていってるじゃないか。ターボエンジンに火がついた。私はいつの間にか競歩の選手になっていた。タチゲは、いったい何があったんだという顔をしている。だが、顔を見て少々驚いた。野辺山の「こっぁんち」で会った「あぶねぇちゃん」に似ているではないか?タチゲは田村英里子に似た美人だというが・・・うーむ、まあ、きちんと挨拶をしてくれたし、イイ子には違いない。道のりの半分の所に明神がある。もういい加減歩くのが嫌になってしまっている。とにかく疲れた。できることならここで寝てしまいたいぐらいだ。河童橋に着いた時にはかなりの雨足になっていた。小梨平はまだ少々歩かなければならない。ここにきての少々が結構きつい。小梨平には風呂があったので入ろうとも思ったが、疲れて気力が無くなっていたこともあって、結局入らずじまいだった。私の身体は自分でも嫌になるほど汗くさい。まあ、タチゲだけだし、帰りも列車じやないからなあ、という甘えもあった。徳沢が登山の前線基地というイメージなら、ここは、上高地を楽しむファミリーキャンプ場というイメージが強かった。それにしても、山に物資を運ぶへリコプ夕一のうるさいこと、うるさいこと。今時ボッカでは運搬能力に限界があるから仕方がないのもかもしれないが、うるさいこっちや。それでも、近くから、ウグイスの声もしきりに聞こえていたし、ヤマバトがあちこち歩いているのどかなとこだった。隣のテントは、男女アベックのものだった。それなのに、こちらときたら、34〜35才のおっさんが二人きりなのだ。情けないったらありやしない。そうこうしていると、雨の中おばさんのパーティーがやってきて、近くにテンパッていたベテランのパーティーに質問責めをしていた。何でも涸沢に行くということだが、ルートも決めていないし、全々下調べもしていない様子だった。ここまで山をなめてもらっては、はたで聞いている僕等ですら腹が立つ。結局、今日はバンガローか何かに泊まるとのことだった。あんな用意もできていない人が山に登ってもらったら必ず人に迷惑をかけるぞ!

 

 

徳沢から見た前穂、明神岳。曇ってきている。この風景も15年ぶりだが、疲れすぎていたのであまり感動なし。

 

 
 8月14日
 当初バスで帰ることにしていたが、タクシーでも思ったほど高くないことと、須砂渡ヘバスで行くのは大変ということで、急きょタクシーに乗り込んだ。雨はいつしか土砂降りになっていた。タクシーの運転手さんは、「もう少し遅かったら通行止めになっていたかも知れませんよ。」と言った。確かにすごい降り方だ。「ああ、あそこにちやんとした橋があったんですけど、この間崩れ落ちてしまいましてね。」エッ?ホントかよ?話をしていると、この運転手さん、とんでもない経験の持ち主だということが分かった。交通事故で顔面を割ったのに、金がないので病院を出たとか、ガラス板が足の上に落ちてきて指がちょん切れかけたとか、とにかく生きているのが不思議なくらいな人だった。道が今一つ分からなかったが、タチゲが、ミノルタのアルファではなく、X-700のモノクロの看板を覚えていてすんなり須砂渡に着くことができた。タクシー代ははっきりとは覚えていないが、当初考えていた15.000円より安かった。キャンプ場の管理人のおじさんに車を停めさせてもらったお礼をすると、RVRに乗っておざらばだ。タチゲが金を降ろしたがっていたのと、僕が土産物を買いたかったため、松本に寄ることにした。祭をやっていたため結構な混雑ぶりだ。ホテルがなかなか取れなかったのは、この祭のせいか?高速に乗ると一挙に高松まで帰ることにした。それにしても、私はトイレが近くていけない。元々多少近い方だったが、大学生の時、雨と雪の中バイクで野宿しながら佐世保から松江に帰った時に完全におかしくなってしまったようだ。だから、高速の渋滞は結構心配なのだ。タチゲにも迷惑かけてしまいました。高松に帰ったのは、午前1時過ぎのことだったか。ようやく風呂にはいると、久ぶりに布団の上で寝た。とにかく疲れ果てましたねえ。実に疲れた。あーあ、疲れた。

 


上高地辺りでは完全に雨になっていた。

 

8月15日
 8時過ぎにタチゲに起こされた。あいつだって疲れているはずなのに、まあ無理しちゃって。僕はヒゲを剃っていなかったから、山男よろしく、ヒゲづらだった。そのヒゲづらでタチゲのRVRを見送った。彼はこれからまた同じフェリーに乗って海を渡り松江まで帰るのだ。本当にご苦労さんでした。そして、本当にありがとう。思えば、今回の計画は決して簡単に実現できるモノではなかった。周到な用意と幸運と、そして、タチゲの友情なくしては実現できなかった。この奇跡とでも言うべき2度目の蝶ヶ岳登山は、僕の思い出の中におさめられて一生忘れることはないだろう。そして、僕は「やろうと真剣に思えば何でもできるのだ。」ということを実感として学んだ。
 
 「3度目の蝶ヶ岳登山はあるかって?はははは・・・それは本当に行きたいと思えば、いつだって可能なはずですよ。ねえ、タチゲ同心、そうでしょう?」

 


コバイケイソウが咲き誇っていた。

 

 

そう言えば、とんでもない男に出会った。右の黄緑色に見えるパーカーを着ている人だが、何と夜中の12時過ぎだったかに登山を開始して、ご来光を見た後、すぐ下山するのだそうだ。死むぅー。

 

 

何か、この写真好きなんですよねぇ。

 

実は、この年を最後にタチゲと登山することはなくなった。私は、天体写真の撮影を考えて、2回だけは燕岳に登ったが、後は、蝶ヶ岳ばかりに一人で登っている。

 

 僕等は、「さよなら」は言わない。 再見!

 

 「再見」、それは、中国語でさよならを意味する。(ツァイチェン)また、再びどこかで会いましょう。

 

 余談ではありますが、松本のホテルで異常な恐怖心を感じた話ですが・・・親戚のお兄ちゃんが、一人で東南アジアを自転車旅行していたのですが、金品を盗む目的で後ろから車で追突されて亡くなったことを後で聞きました。もしかしたら、その時間帯だったのかもしれません。