1981年3月 大学時代最後の積雪時の大山登山
 
 大学時代の最後の登山として選んだのは、場所によっては、まだ恐らく3m以上の積雪が残っていた大山でした。当初は、積雪時なので、まだ標高が低い、岡山県の蒜山も候補として考えていたのですが、心の故郷的な、大山登山を選択したのでした。
 一緒に登ってくれたのは「ヤマト同心」の「タチゲ」でした。タチゲは、1979年夏の大山縦走で、左頬をざっくり切る怪我をしていたので、その直後は、彼と二度と彼と登山することは出来ないと思っていました。
 
 実は、この登山後、間もなく就職しました。その会社の研修中に、写真の現像も依頼してとりに行ったくらいです。そのため、詳細な記録が残っておりません。
 
 アルバムを開くと、3月に8日間の日程で登山をしたと書いてありました。
 
 その年の春休みに「タチゲ」がいた広島の下宿に寄りました。何と、その日は、最高気温が-5℃と言うとんでもなく寒い日でした。最低気温ではなく、最高気温ですよ。道はカッチコッチ凍っていました。彼と一緒に歩いていると、彼が突然走り出して驚いた事を覚えています。何と、向こうの方で、滑って転んだ人を見つけて、彼は走って行ったのでした。彼は、良い奴なのです。
 

 これは、彼のアパートで撮ったものでしょうか?否、お袋さんちで撮った可能性が高いのかな?旅は、もしかしたら、この準備の時間が一番楽しいのかも知れません。メモには3月10日って書いてありますね。この字は、私の字ではありませんので、タチゲのアパートで撮ったものかも知れません。
 ともあれ、3月10日に大山の下山キャンプ場に行ったのでしょうね、多分。アホ衛門、若いわ。まだピチピチだわ。
 
 さて、いよいよ登山です。
 何日に行ったのかは、詳細な記憶がありません。(3月10日かも?)まずは、下山キャンプ場でテントを張ることにしました。
 ですが、とんでもない量の雪が降ってきました。テントを張ろうと、テントを広げますと、そこに、みるみるうちに雪が積もっていきました。「うわー、こんな雪の降り方だと、登山はヤバくないか?!」と、真剣に心配になってきました。
 
 翌朝、まだ暗い時間に目を覚ました。雪はすっかりやんでおり、星が出ていました。「よっしゃー、これなら金門に行って星を撮ろう。」とタチゲを起こします。1980年12月の登山で、軽い凍傷になったこともあり、オーバーシューズを履き、更に夏山用の4本爪のアイゼンを付けて出発です。
 
 ギシュッ、ギシュッと、アイゼンのきしむ音だけが、まだ春の息吹など到底知らない、山の冷気にこだまします。
 大川寺の下の辺りまではある程度除雪がしてありますので、歩くのには、それ程苦労はしません。
 

この写真は、大川寺の下の辺りで撮ったものだと思いますが、ここ数年以上、探し続けていますが、この建物は、もうないようです。もう立て直して他の建物になっているではないでしょうか?(下に書いたように、場所を間違えて記憶していました。)「それにしても、1階部分まですっぽり雪で覆われていますね。3m近い積雪ではなかったでしょうか?
 

私は、ずっと、大川寺には行かず、この分岐点で、左の道を通ったのだと、ずーっと思っていました。しかし、これが間違いであることが、2023年12月5日になって、初めて分かりました。
 

これは、2023年12月8日に、1981年3月に記念撮影をした同じ場所で撮ったものです。大川寺本堂の下の建物でしたよーん。44年以上も勘違いしていました。
 

長い間、黄色いルートを通って「金門」に行ったと思っていました。しかし、実際には、ピンクの道を通った可能性が極めて高いことが分かりました。アホぢゃ。
 
 しかし、そこから大変です。除雪は一切されていませんので、腰まで埋まってラッセルです。氷点下のはずなのですが、かなりの汗をかきました。
 

金門に着きました。薄明が始まった頃には、夏の星座が北壁に沈んで行きました。それは、それは、幻想的な光景でした。
 

間もなく、辺りが明るくなると、分厚く雪化粧した大山の北壁が、はっきりと見えてきました。これは、やばくないか?
 

大川寺橋から撮ったものです。橋の歩道にはとんでもなく雪が積もっています。写真の人物が「ヤマト同心」の「タチゲ」です。
 

さて、いよいよ登山です。恐らく、場所によっては3m以上の積雪がありましたが、雪は締まってており、最初はそれ程歩きにくいことはありませんでした。しかし、荷物がすごい。これは、昔流行っていた?キスリングと言うもので横長のザックです。容量は76Lの特大のものです。インナーフレームも入っていなく、パッキングを旨くしておかないと、体感重量がとんでもなく増えます。ちなみに、私のキスリングの重さは30kgでした。タチゲも恐らく同程度の重さだったのでは?
 

これは、6合目で撮ったものです。快晴でしたので、結構暑かったと記憶しています。
 

これは、6合目を少し過ぎた頃に撮ったのでしょうか。
 

 この写真は、タチゲが撮ってくれたものです。登る前に、大山北壁が、ナメナメと輝いているのが見えましたので、ヤバいと思っていましたが、確かに結構ヤバそうでした。
 
 しかし、実際は、ある意味、もっと始末の悪い登山道の状態でした。凍っているのは、表面だけで、アイゼンが刺さっても、直ぐにその薄い氷が剥がれ落ちてしまいました。仕方がないので、アイゼンを外し、急登の場所は、雪に登山靴を蹴って刺すようにして登る方法に変えました。キックステップと言う方法です。まあ、これが、実に疲れるのですよ。キスリングも30kgもあるのですから。
 

この写真が好きなんですよね。タチゲが、クソ重いキスリングをかついで、登山をしている姿です。雪山は、順光ではなく、逆光で撮らないとダメであることを初めて知りました。
 
 死ぬ思いで、ようやく登頂しました。しかし、ここで愕然としてしまいます。「小屋がない!!ウソだろー。ここまで登ってきたのに、直ぐ下山しないといけないのか?」
 と、何か煙突の様なものが出ているのに気がつきました。「何で、こんな所に煙突があるんだよ。」と思いながら登ってみました。と、その煙突らしきものの上には、マンホールの様な蓋が付いています。それを、取ってみると中には、鉄の階段が付いていました。あ、そうか?これが冬季登山用の入り口か?
 

この年の6月に撮った、当時の大山山頂小屋です。(今は、もっと立派な建物になっています。)この小屋全部が雪で埋まっていたのです。
 
 しかし、この入り口はとても狭く、僕らのキスリングはとても通過できませでした。しかたなく、何度も小分けして小屋の中に入れることになりました。
 

小屋の中では、確か誰もいなかったので、寒さ対策でテントを張りました。春なので、せいぜい-2〜-3℃位にしかなっていなかったと記憶しています。
 

困ったことが起こりました。小屋はすっぽり雪に埋まっているので、真っ暗です。そのため、ヘッドランプを常時使わないといけません。当時は、LEDタイプのものは、ありませんでしたから、電池がどんどん減っていき大変でした。
 
 恐らく、この日の夜のことだったでしょうか。晴れているので、外に出てみました。と、晴れているはずなのに、ブリザード状態で、雪や氷の粒が、顔にバシバシあたります。星も見えません。おっかしなー。晴れているはずなのにな。
 落胆して、雪の上に寝っ転がりました。すると、突然星が見えます。「何故?」
 つまり、丁度立っていた顔の位置に、強風が斜面を駆け上がり、雪などと共に吹き付けていたのです。何か、とても不思議な経験をしました。立っていると星が見えない。寝転がると星が見える。分かりますかねぇ?
 

これは、翌日か、その次の日だったかは記憶が曖昧ですが、多分コッフェルなどで、雪をかき分けて、夏山登山の際に使う、ドアの前の雪をかき分けて、通れるようにしたのです。これって、やらない方が良かったのかなぁ?しかし、そのおかげで、小分けせずに、キスリグを外に出すことが出来る様になりました。
 

タチゲと一緒に記念撮影です。
 

タチゲが、私のお手製の「ヤマト天文同好会」の旗を持って記念撮影です。実は、この写真は、タチゲが手紙と一緒に送ってくれたものです、黒いボールペンのインクが至る所に付着していたので、画像処理には、かなりの時間を要しました。
 

私も同様に撮ってもらいました。この時、私がかついでいるナップザックは、タチゲが持ってきていたものを借りていました。
 

縦走路を少し歩いてみました。ご覧の通り、気温が上がり、雪が溶け始めています。「ラクダの背」に行く前で引き返しました。こんな状態では、いつ雪崩が起こってもおかしくありません。また、雪屁(せっぴ)がある箇所もあり、とても危険だと判断しました。
 

この真ん中の「コブ」が難所中の難所である「ラクダの背」です。1979年夏の縦走で、死を覚悟したところです。でも、雪があるとあんまり怖く感じませんね。
 

ラクダの背をアップしてみました。実は、かなりのピンボケだったのですが、画像処理で何とか見られる写真になりました。
 

タチゲが、縦走路で座り込んでいます。
 

「山男のタチゲ」よ。君は今何を思うのだ?
 

気温が上がり、雪はグズグズでした。
 

縦走路を少し歩いた後、小屋に戻る時に、撮ってもらった、アホ衛門です。気温が上がり、薄い氷が剥がれ、空を舞っていました。
 
 記憶が定かではありませんが、確か、この山行中に、元谷辺りで、雪崩で亡くなった方がいたとか・・・
 
 その後、下山をしました。しかし、雪が腐っており、時折、ズブッと足が雪の中に埋まってしまいます。
 
  と、案の定、とても危険な目に遭いました。左足の付け根まで、ズボッと雪に埋まり、その反動で、身体を捻りながら転倒してしまいました。足を完全に捻っている状態で、しかも、30kgのキスリングをかついでいる状態でしたので「あっ?やっちまった。完全に骨折したな。」と思いました。結果は、大丈夫だったんですけどね。肝を冷やすとは、まさにこのことだと思いましたね。
 

自分的には、こんな生やさしい感じではなかったと思っています。片足が、足の付け根まで雪に埋まり、身体が半回転して倒れましたからね。キスリングの重さは約30kg。完全に足が破壊されたと思っていました。
 
 一方、タチゲは、それ程急斜面ではないところで、滑落してしまいました。初めは、冗談でやっているのかと思っていましたが、まるで、止まりません。「う、ウソだろうー!!」と思っていると、ようやく木につかまって止まりました。マジで焦りました。
 

 下山し後は、また、下山キャンプ場でテンパりました。
 雪で作った風防で、風を避けながら灯油ストーブで食事を作りました。このオプティマスの灯油ストーブ(ヒーター)ですが、結構大変な代物です。灯油は、熱くしないと火が付かないので、ポンプアップして内圧を上げ、更に、アルコールメタでプレヒートしないと火が付かないのです。今は殆どブタンガスヒーターですよね。楽ちんになったものです。
 

だいぶ雪が溶けたのですが、小屋の屋根には(トイレ?)まだこんなに雪が積もっていました。
 

これは、モノクロで撮った「タチゲ」です。これまで、プレヒートには、アルコールジェルを使っていましたが、今回は、固形のアルコールメタを使いました。
 
 ついでだからとスキーもすることとしました。タチゲはスキーは初めてだったようです。転倒して服が濡れる恐れがあるので、私が持っていたゴム引きの「つなぎ」のカッパを貸しました。暑かっただろうな。めんご、めんご。
 
 その後、星が出ていたので、豪円山に行ってみました。月明かりが結構あり、とても不思議な光景を見ました。スキー場が月明かりに照らされており、木には、影が出来ていました。夜なのに、昼のような、何だか訳の分からないとても不思議な光景でした。
 

豪円山で記念撮影です。
 

豪円山からは、こんな星空を見ることが出来ました。大山北壁にさそり座が昇っているのです。月明かりのため、山容が綺麗に写っています。
 
 その後、帰宅しました。「タチゲ」は、こんなわがままな私にずっと付き合ってくれました。本当に感謝しかありません。
 1979年夏の大山縦走の後に、彼から来た手紙には、最後に「ヤマト同心」と書いてありました。
 
 思い起こすと、これまでの人生で一番楽しかったことは、タチゲと一緒に星を見に山に登っていたことだったかも知れません。しょっちゅう喧嘩もしましたけどね。否、わがままな私が一方的に喧嘩を売っていたのではないかと思っていますが。
 
 この登山の後、1978年から使っていた登山靴は、ボロボロになり、また、夏山用の4本爪のアイゼンもさび付いて、捨ててしまいました。
 大学最後の登山に、あいつと大山に登れて良かったなって・・・
  1979年の大山登山後の手紙で、あいつが、僕らのことを「ヤマト同心」って書いてくれた時、僕は「さよなら」の言葉を捨てました。中国後の「再見(ツァイチェン)」を使うことにしました。そうだよね。また、どこかでいつでも会えるさ。